山口文憲1)『団塊ひとりぼっち』2)

 

 本書は、団塊の世代に属する著者による、団塊についての団塊のために書かれた本である。つまり団塊の世代の自分史、自画像、そして自己提言の書である。本書のあちこちで著者は、団塊は下の世代とりわけすぐ下の1950年代後半生まれの世代からの評判が悪いと述べている。筆者(= Wunderkammer 管理人)はまさにそのすぐ下の世代に属する者である。

 

 団塊の世代は、筆者にとって、兄や姉に当たる存在といえる。親や教師の言葉には反発しても、兄・姉あるいは先輩の言うことなら素直に聞けるということがある。彼らは親の世代とはちがうものを教えてくれる。親よりも年齢が近いから親しみやすく、しかし少しだけ人生の先輩だから、身近なお手本になるのが年上の兄弟だ。だから、彼らが「大人」のつくりあげた世界に反旗を翻すなら、妹や弟たちは兄や姉の側について声援を送るだろう。

 

あの1968に、筆者は小学6年生で、彼らが「反体制」として「体制」側と闘う姿を、訳のよくわからないまま尊敬の眼差しで見ていたように思う。彼らが歌うフォークやロックに熱中し始めたのもその頃だった。この兄や姉にくっついていけば、何かはっきりとはわからないものの新しい世界が開けるような気がしていたのだろう。

 

 あの時代の合言葉 Don’t trust over 30! を本気で信じていたのかもしれない。自分が30歳になる日がくるなど思ってもみない年頃である。しかし時代の動きは存外に速い。1969年のウッドストックの熱狂が過ぎると、流れがどこか狂い始めたようだった。70年にジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリン、71年にはジム・モリソンといったあの世代のスターたちが、相次いでドラッグで命を落としたのは象徴的だった。確かに20代で死んでしまえば、信用できない30以上の大人にはならないけれども。

 

じきに日本の学生運動も下火になり、その分残った者たちの間では過激さを増し、中3のある日、学校から帰宅してみると、家族が茶の間でテレビに釘付けになっていた。画面には浅間山荘の外壁に向けて大きな鉄の球をぶつけているさまが映っていた。

 

 おおかたのお兄さんお姉さんは、あのひとときの熱狂の後つつがなく就職し結婚し子供をもうけたらしい。妹分たちも自立し、もはや憧れの眼差しで彼らを見上げることはなくなった。それどころか、結局兄や姉も大人になってしまえば親の世代と同じだという一種裏切られたような思いもあったかもしれない。あるいは、やはりDon’t trust over 30! は真実だったのだ、とあっさり確認しただけだったのかもしれない。以後、彼らのことが積極的に意識にのぼることはなかった。その存在はすっかり遠いものになっていた。

 

 ところが、である。「2007年問題」が目前だという。本書もそれを見据えて書かれたものであろう。2007年、団塊の世代が定年を迎えて野に放たれる3) 妹分だった筆者には、それが団塊世代の逆襲開始のようにも見えるのだ。かつての尊敬の念とそれがたどった道筋(呪縛とそれからの解放と言ってもよい)を思い出すと、「悪夢が再び」の気分にさえ襲われる。 Now, can we trust over 60?

 

 本書は、団塊の世代の人たちにはみずからの越し方を振り返り、行く末に思いをめぐらす手がかりになるだろう。筆者のように1つ下の世代の者は、ローティーンだった自分たちに彼らが及ぼした影響を確認することができる。団塊ジュニア世代が読むならば、父母の青春時代を垣間見ることになるだろう。

 

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1)        やまぐち・ふみのり。1947年、浜松市生まれ。エッセイスト。『香港 旅の雑学ノート』(1979年)で注目を集める。筆者(= Wunderkammer 管理人)もかつてこの書物を読み、アジアに対するそれまでにない感覚を教わった。

2)        20063月、文藝春秋より刊行(文春新書)。初出は「本の話」(文藝春秋の広報誌)20046月号〜200511月号。加筆・再構成して新書化された。

3)        「(…)野に放たれた団塊が果たしてどんな格好で街を闊歩するかは、まことに予断を許さない。なにしろその数三百万人以上である。それだけの大量の定年オヤジが、昼間から汚いジーパンにTシャツで全国の通りをうろうろするようになったら、その目障りなこと、いっときの渋谷のガングロ娘や汚ギャルの比ではあるまい。」(266ページ) 著者が危惧(?)するそのような兆候はすでに見られるのではないだろうか。最近、ジーパンおやじやマキシの団塊女の姿を街でときどき目撃するようになった。

 


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