G・K・チェスタトン1)『正統とは何か』2)

 

私たちは、狂人には理性も論理もないと思っていないだろうか? ところが、チェスタトンは次のように言う。

 

狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。23ページ)

 

 本の扉に著者の写真が載っている。きかん気の少年がそのまま大人になったようでもあり、いかにも頑固そうである。3)この風貌から意外な感じを受ける人もあるかもしれないが、こんなことも言っている。

 

誇りはあらゆるものを引きずり下して、すべてを荘重で重厚なしかつめらしさに投げ入れる。そして荘重ほど容易なものは実はほかには一つもない。自分のことだけを重々しく考える重厚さというものになら、人間は自然に「落ち着く」ことができる。だが、晴れやかに自己を忘れる軽薄さには、人間は実は本性に反してよじ登らねばならぬ。(中略)荘重さは人間から自然に流れ出してくるが、笑いは一つの飛躍にほかならない。重々しくするのはやさしい。が、軽々しくするのはむずかしい。サタンはこの意味での重力の法則に従って落下したのである。(219-220ページ)

 

 推理小説がお好きな方なら、ブラウン神父ものの作者としてチェスタトンをご存知かもしれない。『正統とは何か』は、彼がみずからの世界観・人生哲学を述べたエッセイである。おとぎ話に登場する王子様の態度を引き合いに出して、人間が人生に立ち向かうあるべき態度が述べられている。

 

われわれが本当に望んでいるのは明らかにこういうことではあるまいか。つまり、一方に抑制と尊敬、他方に活力と支配があり、この二つが独特の配合を得るということではないのだろうか。もしわれわれの生活が本当におとぎ話のように美しいとするならば、その時忘れてならぬことは、おとぎ話の美の秘密がこの二つの結合にあるということだ。王子様は驚異の心を持たねばならないが、しかしこの驚異が今一歩進んで恐怖になってはいけない。大男を恐ろしいと思ったら、その瞬間に王子様はもうおしまいになる。けれども王子様が大男に驚かなかったら、その瞬間におとぎ話はもうおしまいになってしまう。彼が謙虚で驚異の念を失わず、しかも同時に誇り高くて大男に立ち向かう気力を持つというところに、すべてこの問題の秘密がかかっているわけだ。われわれがこの世界という大男に向かう態度にしても同じことである。(中略)人間は、自分自身に自信を持たねば冒険に打って出ることはできないが、同時にまた、自分自身にあまりに自信がありすぎても、冒険は少しもスリルを持たなくなってしまうからである。(205-206ページ)

 

 逆説に満ちたチェスタトンの書きぶりは、筆者(=Wunderkammer 管理人)のように多少へそ曲がりのところがある者にはまことに魅力的で、ここで挙げた3例以外にも引用して紹介したい箇所が山ほどある。そのような箇所を全部紹介していったら、本を1冊まるごと写すようなことになりかねない。それは不可能なことなので、あとは皆様、どうぞ、それぞれでお読みください。

 

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1) Gilbert Keith Chesterton (1874-1936)、イギリスの作家、評論家、ジャーナリスト。

2) Orthodoxy, 1908. 邦訳:『正統とは何か』福田恒存・安西徹雄訳(『G・K・チェスタトン著作集』第1巻所収)春秋社、19735月刊。なお、新装版が同社より1995年に出版されている。

3) チェスタトンは巨体の持ち主で、1936614日に63歳で亡くなったとき、遺体があまりに大きく重いので、棺を階段を使って階下に下ろすことができず、部屋の窓をこわしてロープでつるして屋外に出したという。 




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