「差別する側」の視点からの差別論


 私はこの論文で、差別問題を「差別する側」の問題として考えるための視点を提案しようと思います。私は、これまでの差別論は差別問題を「被差別」問題としてしか捉えていなかったため、決定的な弱点を持っていたと考えています。特に、「差別する側」の問題を扱うには「被差別」問題という捉え方では限界があります。
 私がこの論文で提案する方法は、「わたし」が、いかに差別問題と関わっているかということにこだわり、差別問題を「内部から」見ようとするものです。そして、これまで十分に扱われて来なかった「差別する」側の問題を考えるためには、「差別する側」としての関わりから差別問題を見ることが有効だということを、この論文で示したいと思います。

1.はじめに

 この論文は、差別問題を考えるための基本的な視角について書いたものです。差別問題については、それぞれの問題領域における実証的な研究蓄積はこれまでかなり行われてきたものの、さまざまな差別問題に共通する理論的な問題についての議論がきわめて不十分であり、そのことが、具体的、実践的な領域で様々な混乱を引き起こしているというのが私の考えです。
 私はこれらの混乱の原因の多くは、これまでの差別問題論が、「差別される側」の視点からのみ作られてきたということにあるように思います。そこで、まず2、3節では私が考える「差別される側」の視点に立つ差別論とはどういうものなのか、その問題点は何か、ということを説明します。
 次に、それに代わるものは何か、ということを4節で「差別する側」からの差別論として提案します。
 最後に、それまでに考察したことが、社会学の理論・方法にとってどういう意味を持つのか、ということを問題提起し、読者の皆さんのご批判を仰ぎたいと思います。

2.「差別される側」の視点に立つ差別論

1)差別の主観的定義

 差別問題について考える上では、まず「差別とは何か」ということについて、定義、あるいはそれほど厳密ではなくても、ある程度は共有されたイメージがなくては議論することができないでしょう。
 これまでに差別を定義する試みは数多くなされてきましたが、残念ながら、そのほとんどは差別を定義することに失敗したと言わざるをえません。差別の定義が困難なのは、それが「正当性」の問題に踏み込まざるをえないからです。つまり、「平等な」「不当な」などの言葉を用いずに差別を定義すると、あらゆる差異(異なった扱い、異なった分配)が差別に含まれてしまい、逆に「平等」「不当」などの言葉を用いて差別を定義すると、差別の規準を「平等」「不当」の規準に置き換えるだけの、単なる「言い換え」にすぎなくなります(1)。
 比較的最近になって、このような問題を克服するものとして、差別の「主観的定義」と言うべきものが現れてきました。それらは、「何が差別か」ということ自体が争われている現実をそのまま捉えようとしたものです。
 坂本佳鶴恵さんは、差別をいくつかの規範のずれの問題として捉え、つぎのように定義しました。
 差別とは、成員のカテゴリー間の同一性にかかわる正当性の規準に基づいて告発された事象である。(坂本,1986,p31)
 また、水津嘉克さんは、坂本さんの定義を受けて、構築主義の立場から「排除」を次のように再定義しています。
 「排除」は、『状況的な規範』と『抽象的規範』の間に生じるズレに対するクレイムによって定義づけられる(水津,1993,p107)

2)「差別される側」からの差別論

 差別を告発(クレイム)によって定義する主観的定義は、「何が差別か」が争われるプロセス、すなわち告発が受け入れられ、あるいは拒絶されるプロセスの分析を行なう前提になるでしょう。また、差別問題が告発に基づいて構築されているという認識を受け入れることによって、差別に関する(社会学的分析も含めた)ほとんどすべての言説が、最終的には、「告発」に依拠しているという事実に気づかされます。差別に関する言説は、「これは差別であり不当なことである」という「告発」がなければ、まったく意味を失ってしまうのです。
 ここで、その「告発」についてもう少し詳しく考えてみましょう。先に紹介した二人の考える「告発」とは、たとえば「平等」などの規範に照らして、不当な扱いを受けているという「告発」です。すなわち、「差別されている」という「告発」です。「告発」されているのは、当然確保されるべき権利が奪われている、他の人たちに比べて著しく劣悪な環境に置かれているなどの事態であり、これが差別問題に関する言説の根拠になっているのです。
 しかし、私は差別問題に関する言説が、このような「被差別の現実」のみに依拠しているということが、いくつかの困難な問題をもたらしていると考えています。そこで、このように「被差別の現実」に依拠した差別問題に関する視点を「差別される側」の視点に立つ差別論と呼び、次節でその問題点を明らかにしたいと思います。

3.「差別される側」の視点に立つ差別論の問題点

1)加害としての差別行為

 まず最初の問題点は、「被差別の現実」にのみ依拠した差別論では、差別行為を「加害行為」としてしか認識できないという点です。
 このことは、まず差別行為が「被差別者」に対する「悪意」や「攻撃の意図」によるものだという解釈を導きます。たとえば「偏見」や「差別意識」が差別の原因になっているという「素朴な」考え方がその典型だと言えるでしょう。もちろん、私も、「偏見に凝り固まっている人が攻撃的な行為をする」、という解釈がまったく根拠のないものだと言っているのではありません。しかし「リベラル」と見なされている人が差別に荷担してしまう、あるいは、ある反差別運動に関わっている人が別の差別問題に関しては「差別的な行為」をしてしまう、そういうような状況を、すべて「(潜在的な)差別意識」によって説明しようとするのは、かなり無理があるし、そのように「差別意識」をどんどん拡大解釈してゆくことが、今度は「差別意識」を特定しにくくしているように思います。
 理論的なレベルでは、このような「素朴な」考え方は、すでに過去のものになっていると思うのですが、それでもなお差別問題に関してこのような言説が多く見られます。これは、単に「正しい認識」が普及していないからだ、というように捉えるのではなく、「被差別の現実」に依拠することによって、必然的に導かれる考え方であるからなのだということを押さえておくべきだと思います。
 「加害の意図」によって差別行為を特定できないとするならば、差別行為は「被差別」との関連を証明することによってしか特定できなくなります。その場合、「被差別の現実」が不当であること(告発が正当であること)と、その「被差別の現実」が「差別行為」と直接あるいは間接的に結び付いていることが証明されて、はじめて差別行為の告発が可能になるのです。
 ところが、このような証明は、実際にはそれほど簡単なことではありません。「間接的な影響」を説明するために、抽象的な「社会構造」を持ちだしたり、場合によっては、ここでもまた「差別意識」を持ち出さざるを得なかったりします(2)。
 さらに重要なことは、「告発の正当性」自体が必ずしもすぐに了解されるわけではない、ということです。「差別される側」の視点に立つ差別論は「被差別の現実」に依拠しているわけですから、「告発の正当性」を否定され、「被差別の現実」の存在それ自体を無化されれば、すべての主張の根拠を失ってしまいます。
 以上のように、「差別される側」の視点からの「差別行為」の告発は、問題の焦点を「差別行為」から「告発の正当性」へと押しもどされやすいという欠点を持っています。さらに、この論点を回避しようとするなら、「悪意」や「攻撃の意図」を見出すことによって差別行為を糾弾するというスタイルをとらざるを得ないのです。

2)告発の正当性

 前の項で説明したように、「差別される側」の視点に立つ差別論にとって、「告発の正当性」の証明は、いわば生命線となっています。それでは、その証明はどのようになされているのでしょうか。
 まず1つの方法は、「低位性の証明」です。たとえば、「差別される側」がこんなに悲惨な状況に置かれている、「する側」と「される側」でこんなにも格差がある、こんなにひどいことが今も行われている、というようにして「差別の現実」を指摘してゆく方法です。
 これは私たちの素朴な「平等意識」に訴え、非常に大きな説得力を持ち得ます。現在でも社会啓発、人権教育などでこのような手法が用いられているのはそのためでしょう。
 しかし「低位性の証明」は反差別運動の進展などによって、目に見えやすい部分が徐々に改善されてゆくと、その「感性に訴える説得力」という最大のメリットを失って行きます。また、「低位性の証明」のみでは「告発の正当性」の十分な根拠とはされず、「格差」や「悲惨な現実」がなぜ不当なことなのか、「不当性の証明」をせざるをえなくなります。
 そのため、「告発の正当性」の証明は最終的に「不当性の証明」に行き着くことになります。「不当性の証明」は坂本さんが主張するように、いくつかの種類の規範のずれを指摘する作業であると思います。すなわち、「平等」という規範があるのに制度(の規範)はそうなっていない、あるいは満たされるべき「基本的人権」がある具体的状況の中では満たされていない、という形で告発が正当化されるのです。
 こういった作業は実際には容易なことではありません。さらに、現実的な困難性ということ以上に「高次の規範に基づく不当性の証明」は原理的な問題をかかえこんでしまっています。すなわち、「平等」や「基本的人権」に基づく告発は、それらの抽象度の高い規範(坂本さんによれば「根拠の規範」)の限界を越えられない、ということです。もちろん実際にはその限界を越えようとして、「根拠の規範」それ自体の変更を迫るような作業も行われていますが、今度は議論が抽象化することによって、問題にしているはずの具体的な「被差別の現実」が曖昧にされ、そのことによって告発自体も無化されてゆくという危険性があると思います。

3)カテゴリー化の問題

 以上は、確かに「差別される側」の視点に立つ差別論の問題点なのですが、これらは、あらかじめその危険性について熟知しておけば、実践的にはある程度回避できる問題かもしれません。しかし、次に説明する「カテゴリー化」についての問題は、理論的にも実践的にも最も解決困難な点ではないかと思います。
 「被差別の現実」に依拠する告発は、実際にはある社会的カテゴリーに基づいて行われます。すなわち、「私が差別された」という告発には、「女として」「被差別部落出身者として」「障害者として」差別された、という含意があり、社会的カテゴリーを伴わない告発は単なる個別的な「ルール違反」として扱われるため、「差別の告発」としては意味をなしません。
 告発がある社会的カテゴリーに基づいて行われるということが、差別問題についての理論構成に2つの深刻な問題を引き起こします。
 第1の問題は、「差別する側」と「差別される側」の間の何らかの「実質的な差異」を差別の根拠として認めざるをえなくなるということです。しかし一方では、「実質的な差異」は差別を正当化する言説が依拠する「事実」でもあり、それゆえ、差別を告発する言説は「(実質的な)差異はない」といった主張もまた持たざるを得なくなります。
 このような状況に対して、「差別の告発」の言説は、差異を積極的に肯定し、価値の転換を図ったり、あるいは、差異の「次元」(身体的次元と社会的次元など)を分類することによって、一部を否定して一部を肯定するというような論理を立てることになりますが、いずれにせよ、「差別」を「差異」と関連づけて捉えることは避けられません(3)。
 しかし、「差異」は差別の根拠なのでしょうか。これに関しては、江原由美子さん(江原,1985)、柴谷篤弘さん(柴谷,1989)などが、それぞれ別の視点から、はっきりと否定しています。ここでは詳しく述べませんが、ごく簡単に説明するなら、「『差異』がいくら実在的に存在したとしても、実際社会の中には実に多様な人々がそれぞれ固有の状況をかかえて生きているのであり、そのことを考えれば差別者と被差別者の間の『差異』だけがなぜカテゴリーとしての被差別者全員に対して適用される『差別』的処遇を必要とするのか」(江原:1985,p86)ということが説明できないからです。
 私もまたこういった主張を支持しているのですが、「被差別の現実」を根拠にした差別論では、「差異は差別の根拠ではない」という主張は困難です。なぜなら、「被差別の現実」そのものが「差異」を前提にしないと認識しえないものであり、差別行為もまた、「差異」に基づいた「加害行為」としてしか特定しえないからです。
 第2の問題は、「差別される側」を何らかの意味で「同質な」集団として認識せざるをえなくなる、ということです。「被差別の現実」の告発は、社会的カテゴリーに基づいてなされるために、「私が差別されている」ということではなく「そのカテゴリーに属する者全体が差別されている」という主張になります。そのため、実際には多様な人々で構成されているカテゴリー内部の異質性を無化し、同質性を保障することが、告発の正当性の根拠となってしまうのです。
 そのため、カテゴリーの同質性を否定するような「事実」、たとえば、少数であろうとも、「差別される側」の中に特に差別を告発する意志を持たない者がいる、とか、積極的に運動をしている人に対してむしろ反感を持っている人がいる、などの事例が、告発の正当性を弱めるような効果を持ってしまうのです。

4)「差別する側」からの告発

 最後に、実はこれが私自身の主要な問題意識なのですが、「差別される側」の視点に立つ差別論は「差別する側」からの告発を事実上不可能にする、という問題を指摘したいと思います。
 「差別される側」の視点に立つ差別論は、前項で見たように、「差別する側」と「される側」の実質的な差異を認め、社会的カテゴリーを実体化することになります。そのため、そのカテゴリー構成において「差別する側」と位置づけられる者(「性差別」「部落差別」などにおける、私の立場です)は、「する側」としての自己否定か、「彼女/彼(ら)は差別されている」という形で「代理告発」をすることにより、自らの立場を棚上げすることになります。
 しかしながら、「差別する側」として位置づけられる者も、「差別−被差別」の関係性の中で、何かを失い、何かを押し付けられ、何らかの抑圧を受けているのです。念のために付け加えておくと、ここで私が言わんとしているのは、いわゆる「逆差別」というようなことではありませんし、「男性もまた差別されている」というような問題のすり替えではありません。「差別する側」に置かれるということそれ自体による「抑圧」を明らかにしたいと思っているのです。
 しかし、「差別される側」の視点に立つ差別論ではそれは不可能です。今のところ、まだはっきりと見えてもいない「する側」の問題を明らかにしていくためには、別の視点を導入することが必要だと思います。

4.「差別する側」の視点に立つ差別論

1)「排除カテゴリー」としての「被差別者」

 「差別する側」の問題を考えるには、差別行為が被差別者に対する「加害行為」としてしか捉えることができないのか、という問題設定が必要だと思います。
 そこで、この節では「差別−被差別」カテゴリーが実際にどのように用いられているかを考えてみることにします。
 ここでの分析は、エスノメソドロジー的な手法を用います。すなわち、ある言葉の意味をあらかじめ確定されたものとして捉えるのではなく、その言葉の意味は文脈に依存し、それが用いられることによって文脈自体を構成していくプロセスの1つの要素として捉えるのです。
 まず最初に、障害者に対する「差別語」について考えてみます。私たちは障害者に対する差別語を、程度の差はあれ「知って」います。ここで私が「知っている」というのは、それが何を「指し示している」のかを「知っている」ということではなく、それをどういう場合に用いれば適切なのかを「知っている」ということです。
 障害者に対する「差別語」は意味内容としては「障害者」を指し示し、マイナスの価値を付与するものですが、実際にそれが用いられる文脈を考えると、それは必ずしも「障害者」に対して用いられるとは限りません。たとえば「めくら」「つんぼ」「かたわ」などの言葉を考えると、むしろ「障害者」ではない、その言葉が指し示す内容に明らかに「該当しない」対象に対して用いられることの方が多いのではないかと思います。
 また、実際に数としてどちらの場合が多いかどうかとは別に、「該当しない」対象に対して向けられることがむしろその言葉の「適切な」用い方とされており、その言葉を向けた相手が、「それはまさしく自分のことだ」と受け取るならば、それは「不適切な」用いられ方と見なされるのではないでしょうか。
 このように、言葉の指し示す対象が明確であるにも関らず、その言葉が「該当する」対象に対して向けて用いては「いけない」という逆説的な性質が、障害者に対する「差別語」の「文脈上の意味」を考える上でのヒントになると思います。
 もう一つ、部落差別に関して、ある地域が被差別部落であることやある人がそこの出身であることを指し示す隠語やある種の身振りについて考えてみます。これらは私の知る限り、「該当しない」人に対して直接向けられることは、障害者に対する「差別語」ほど多くはないと思います。しかし、それらもまた、「該当する」人々に対して直接向けられるのは「不適切」であり、その場に「該当する人」がいないことを前提にして用いるのが「適切な」用い方とされているのではないかと思います。
 このことを的確に示す例として、好井裕明さんによる部落差別事件に関する事実確認会の場面の分析を紹介します(好井:1992)。
 好井さんが分析している事実確認会の場での会話には、ある参加者が差別事件に関連して部落問題についての認識を問われている場面で、「誰の気持ちを本気で考えとらんかったんですか」と問われ、口ごもりながら、「被差別部落の人たちです」と答える箇所があります。もちろん、その場には被差別部落出身者も出席しており、質問自体が出身者から投げかけられたものなのですが、それでも発言者は出身者がその場には存在せず、「どっかおるような(どこかにいるような)話の仕方」をしてしまうのです。
 また、藤田敬一さんも同様の事例を報告しています(藤田:1987,p45)。これもまた事実確認会の場面ですが、ある人が、「わたしの近くにも、こういう所の人がいるし、わたしの関係する会社にも、こういう所の人がいますが、ぜんぜんなにも変わりません」というようなことを発言し、"こういう所”とはどういう所か、と問われるのです。
 このように、「被差別者のカテゴリー」は、その場に「被差別者」が存在しないものとして語られる、という特徴があるように思います。
 以上のような考察から、私は「差別語」や「被差別者のカテゴリー」は、言葉の意味としては何かを指し示していながらも、実際に用いられる場面では、「あるカテゴリーではない(否定)」あるいは「あるカテゴリーに属する者の不在」を前提にして用いられます。さらに、その前提が、暗黙の、自明の前提だとして語られることによって、その場がその前提にかなうものであるという状況が作り出されるのではないでしょうか。また、このように「否定」「不在」を作り出してゆく作用こそが、「差別」が「排除」であるということの意味であり、江原さんの言葉で言えば被差別者は「排除カテゴリー」(江原:1985,p91)なのです。

2)「排除カテゴリー」によって語られること

 それでは、排除カテゴリーによって語られる、「被差別者ではないこと」「被差別者がいないこと」は何を意味しているのでしょうか。ここでもう一度障害者に対する「差別語」について考えてみます。
 たとえば、「つんぼ」という言葉は、「君はどうして私の話をちゃんと聞いていないのか。君はつんぼなのか?」というような文脈で使われます。もちろん、この発言は聞き手が発話者の言葉を聞き取ることができる、という前提で話しているわけで、「つんぼではない」という答えを期待しているはずです。もちろん聞き手も「つんぼではない」と答えなくてはならないのですが、そう答える場合には、「ちゃんと話を聞く」ということも引き受けざるをえません。
 つまり、ここでは「つんぼである/ない」ということと、「人の話はちゃんと聞かなくてはならない」というルールが巧妙に重ね合わされているのです。
 ここで言われていることは、「『普通は』人の話はちゃんと聞くものでしょ」という言い方と意味としては変わりません。しかし、「普通は」という「条件」が言葉として示されるのではなく、「排除カテゴリー」を用いて、その「否定」として示されることにより、より効果的に相手を従わせることができるのです。
 このように、「排除カテゴリー」がその「否定」「不在」として指し示すものは、「普通」のような曖昧で「名前のない」「見えない」カテゴリーです。たとえば「女性」が排除カテゴリーとして用いられる場合にも、その「否定」「不在」は「男性」ではなく、やはり「普通」「人間」あるいは「我々」というような漠然とした見えないカテゴリーなのです。
 そして、それが「見えない」がゆえに、それを対象として批判したり、そこから逃れたり、解体することが困難になっている、ということだと思います。

3)「三者関係としての差別」論

 このような「見えない」カテゴリーを「見える」ようにしていくためには、差別を所与のカテゴリー(たとえば「健常者」のような)を用いて記述するのではなく、上で見たように、具体的な場面で「見えないカテゴリー」がどのように形成されてゆくのかを調べることが必要だと思います。
 そのために、差別問題を「差別−被差別」という二者関係ではなく、三者関係で考えることを提案します。三者関係によって差別問題を捉える方法は、私が「三者関係としての差別」(佐藤:1990)という論文にまとめていますので、ここではごく簡単に説明しておきます。
 「三者関係としての差別」論では、差別行為を、差別者による被差別者の排除と、別の第三者(これを「共犯者」と名づけています)の「同化」を恣意的なカテゴリー設定によって同時に行う行為であると捉えます。「共犯者」という第三者が関与していることを理論枠組の中で明示的することによって、「見えないカテゴリー」の形成を、「差別者」による「共犯者」の同化、すなわち「共犯関係」の成立として可視化しようということがねらいです。

4)「共犯者」の視点に立つ差別論

 「三者関係としての差別」論は、それを単なる理論枠組として見るだけでは不十分です。「見えないカテゴリー」を見るためには、「共犯者の視点」で差別現象を見る視点が不可欠だと思います。
 さきほどの障害者に対する「差別語」の例をもう一度振り返って見ましょう。発話者による「つんぼ」という言葉の使用は、それが聴覚障害者に否定的な価値付与をするために、差別であるという見方もできます。この時の分析者の視点は、発話者の言葉が「客観的には」どういう意味を持つのか、というような外部からの視点、あるいは、それを聴覚障害者が聞いたらどんな気持ちになるだろう、というような、「差別される側」の視点からです。
 しかし、私の先の説明は、その言葉を聞いた人にとってはどういう意味を持つのか、という「共犯者」の視点で考えています。そして、そのような視点で考えた時に初めて「三者関係」を浮かび上がらせることができるのです。

5)「差別する側」の視点に立つ差別論

 「共犯者」はもちろん所与のカテゴリーではありませんし、あらかじめ「差別する側」であったわけでもありません。「差別する側」に組み込まれようとしている者を「共犯者」と呼んでいるのです。「共犯者」の視点は、差別現象のそれがまさに生起する瞬間を、「内部」から捉えることのできる唯一の視点だと思います。そこで、「共犯者」の視点から差別問題を考える方法を、「差別する側」の視点に立つ差別論、と呼びたいと思います。
 また、重要なのは、社会的カテゴリーとして通常は「差別される側」だと考えられている人が「共犯者」となることもありえる、という点です。たとえば、先の障害者に対する「差別語」の例で、もしその言葉を投げかけられた人が、(発話者の意図に反して)自分がその言葉に「該当する(かもしれない)」と感じた場合はどうなるのでしょうか。この場合は、彼女/彼は「排除される対象」(被差別者)でもあり、共犯関係を求められているということによって、「共犯者」としての位置も占めているわけです。この場合は、「自分自身を排除することを求められている」という意味での「共犯者」です。
 たとえば「『ミスコン』に反対するような女なんて………」というような発言を投げかけられた女性は、「共犯関係」を要請されていると見ることができるでしょう。この場合は「被差別のカテゴリー」を一時的に特殊化し、その場にいる女性たちをも巻き込んで「普通」の「我々」を構成しようとしているわけです。
 「差別する側」の視点に立つ差別論は、このように、私が「共犯者」として巻き込まれていく状況を、内部からの視点によって明らかにしてこうとする考え方なのです。

6)「告発」のオールタナティブ

 私は第2節で「差別の主観的定義」を紹介し、それが「差別の現実」に基づく「告発」を前提にしていることを指摘しましたが、ここでもう一度そこで述べた問題に戻って考えてみます。
 私は、差別問題が「告発」によって構築されているという認識を支持します。しかし、「告発」は必ずしも「被差別の現実」に基づいたものとは限らないのではないか、というのが私の見解です。
 金子雅臣さんは『セクハラ事件の主役たち』の中で、職員旅行では決まって買春旅行をすることになっている職場で、中止を訴えた男性の言葉を紹介しています。
 こうした態度をとることで、公然と批判は受けなかったが、陰に陽に嫌がらせをされた。何よりもひどく、ショックを受けたのは「あいつは仲間ではない」「女に媚びている」「男らしくない」「あいつの前では大切なことは喋れない」など、男性としての合意からはずされることで、あたかも私が大切な人間関係を裏切ったかのような扱いを受けたことである。
 「男らしくない」というレッテルは、単に男の仲間ではないということではなく、裏切り者とか、信用できない奴とか、お喋りとか、悪いイメージをいっぱいひきずっていくことになるのだということを嫌というほど教えられた。(金子:1992,p153)
 この事例は、「買春旅行」の「もう1つの不当性」を明らかにしています。つまり、「職場の人間関係」が「買春」によって維持されていることの不当性です。このような「関係の不当性」を直接告発することもできるのではないか、というのが私の考えです。
 ここで私が言おうとしているのは、「買う側の男性も抑圧されている」という告発ではありませんし、買春を拒否することによって生じる不利益に対する告発でもありません。上の事例で重要なことは、その状況の中での「男」カテゴリーが買春に依存しているということです。すなわち、「職場の仲間」という「関係性」が「買われる女」を媒介にして成立していることの不当性を告発するのです。
 「関係の不当性」の告発は「買春一般」についての告発ではありません。ある状況の中で買春がどのように位置づけられているのかということを告発するのです。また、権利主体としての個人を前提にした個人の被害に基づく告発ではなく、「関係性」を直接問う告発なのです。
 これまで説明してきた「差別する側」の視点は、「関係の不当性」の告発を可能にする有力な考え方だと思います。「排除カテゴリー」の「否定」「不在」によって示される「見えないカテゴリー」こそが、告発されるべき「関係性」なのです。(4)
 このような別の形の「告発」をも視野に入れて考えることが、差別問題の研究には必要であると私は考えます。

5.インサイダー・ソシオロジー

 この論文の考え方は、D.Smithの考え方に大きな影響を受けています。そこで、最後の節ではSmithの考え方を参照しながら、この論文で示したような方法が、単に差別論の問題としてだけではなく、社会学の方法論としていかなかる意味を持つのかという点にまで踏み込んで考えてみたいと思います。

1)客体化の様式

 Smithはまずフェミニストソシオロジーが困難であることの要因として、社会学が伝統的に保持し、発展させてきた「客体化の様式」(objectified and objectifying modes of organizing the systematic consciousness of society: Smith,1989,p35)を指摘します。客体化の様式とは、私たちが経験する事柄を、その経験の外部から眺めるという形で記述することによって、特定の個人に依存しない「共に知られた世界」として、社会についての知識を組織化する様式のことです。
 このような「客体化の様式」はどうして問題なのでしょうか。Smithの指摘するのは次の2点です。まず第一に、「現実の女性の経験から社会学を記述する試みを情け容赦なく無化し、そのために私たち(女性社会学者)は避けようとした当のものの見方にいつのまにか逆戻りさせられてしまう」という点であり、第二に、「現実世界の構造を、ジェンダーや人種や階級をすでにそこにあるものとみなすような、社会学に知られた世界として組織する」(Smith,1989,p36)という点です。
 これを私なりの解釈でもう少しくだいてみると、およそ次のようになると思います。まず最初の問題は、社会の成員にとっては、それぞれの立場で違って見えるはずの社会を、「客体化の様式」によって、「誰にとっても同じに見えるはずの社会」として構成することによって、「別の見方」を抑圧し、「決められた特定の見方」を強制するということ、そして後の問題は、観察者が自らを現実世界から「切り離す」ことによって、その構造を分析対象としての「所与の条件」としてのみ扱い、その現実の構成に自らもまた参与していることを隠蔽している、ということだと思います。
 たとえば、ある「女性(たち)」が男性による「性支配」を糾弾している状況について私が語る場合を考えましょう。ここで重要なのは、その場の状況というのが私が立っている立場にも言及しているということです。すなわち、そこでは私が男性であるために私もまた「糾弾される側」に立たされ、「糾弾」に対して答えることを要請されているわけです。
 その要請に答えなくてもすむ方法が「客体化の様式」なのです。「糾弾」が行われている場と私がいる場を切り離し、私の視点を「現実社会の外」に置くという方法です。これによって、私は「糾弾する側」も「糾弾される側」も「公平に」観察対象として分析することが可能になるというわけです。
 しかし、このような「客体化の様式」がたとえば観察者が女性であったならば、どういうことになるのでしょうか。「正しい分析(記述)の仕方」としての「客体化の様式」を強制されることにより、「糾弾する側」の視点を、それがまさに自らの視点でもあるという立場で語ることを不可能にさせられる、これがSmithの提出する第1の問題だと思います。
 第2の問題は、この例で説明することはかなり困難です。というのは、私がこの事例を提出する際にすでに「女性が」「男性による」というように性(ジェンダー)をその場の現実を成り立たせている要素として記述してしまっているからです。つまり私の事例の提出の仕方がすでに「客体化の様式」に基づいたものであり、そのことが、その場にいる一人一人の人間をカテゴリー化していくプロセス自体の記述を困難にしている、ということなのです。
 「差別される側」の視点に立つ差別論の「差別される側」とは、たとえば性差別なら無条件に「女性」を、部落差別なら「被差別部落出身者」を指し示しているのでは全くありません。前に出した例で言うと、場合によっては「『ミスコン』に反対する女性」をも「共犯者」として巻き込んでいくような場の形成にこそ目を向けるべきだと思います。しかし、「客体化の様式」による「カテゴリーの実体化」はそれを不可能にするのです。

2)インサイダーソシオロジー

 このような「客体化の様式」に対するオールタナティブとして、Smithはどのような方法を対置しているのでしょうか。
 Smithは、「インサイダーソシオロジー、すなわち、システマティックに発展させられた、内側から見た社会についての認識」(Smith,1989,38)を提案しています。すなわち、社会の現実を「外側から見る」という試みを放棄し、「認識主体が現に立っているところから始める」ことを要請しているのです。
 「認識主体が現に立っているところ」というのは、やや抽象的な言い方ですが、これを差別論の場合にあてはめて具体化するならば、私が見ている差別−被差別の関係性の中に私自身がどのように位置づけられようとしているのか、という視点から考えることだと思うのです。これが「共犯者」の視点から見るということの意味です。
 「差別する側」の視点に立つ差別論は、「外部」に目を向けさせることによって「内部」を不可視なものとして構成している「装置」を、私もまたそれによって「不可視な内部」に位置づけられようとしているという認識のもとに、内部から可視化し、解体してゆく方法論であるという意味で、「インサイダーソシオロジー」の1つのあり方だと思います。

6.おわりに

 ここまで読んで下さった読者の皆さんの中には、この論文が口語体で書かれていることに違和感を感じた方も多いかも知れません。これには私なりの理由があります。
 私がやろうとした「差別する側」の視点に立つ差別論は、「わたしの目には社会がどう見えるか」ということを記述するものだとも言えますが、そうであるならば、それを「あなた」に伝えてゆく方法が、「これが現実である」といった「客観的真理」を押し付けるようなスタイルでは、全くの自己矛盾に陥ってしまいます。
 そのため、私は論文のスタイルとしても、できるかぎり、「わたしが見たこと」を「あなた」に伝えていく、というスタイルをとりたいと思い、その1つの試みとして、口語体で書くという方法を選びました。
 この方法が意図にかなったものであるかどうかはあまり自信がありませんが、文体もまたこの論文での私の主張の1つであるとして、受け取ってもらえれば幸いです。

  1. この部分の記述は(坂本,1986)に依拠しています
  2. たとえば、「差別意識の再生産」によって、間接的に加害行為となる、というような説明です。
  3. この部分の記述は(江原,1985)に依拠しています
  4. このような告発は、C.Gilliganの言う「責任と思いやりの道徳」に基づく告発だと考えることもできるでしょう。「被差別の現実」に基づく「告発」が、権利や公正さの観念に照らした不当性の告発であるのに対して、「差別する側」からの「告発」とは、「差別される人」と「わたし」の関係、「差別する人」と「わたし」の関係が、具体的な状況のなかでどのように作られているのかという関係性の認識に基いて、自らが「共犯者」として差別に関与してしまっている事実を「不当」なことだと感じとり、他者や自分自身に対する「責任」において「告発」することなのです(Gilligan:1982)。なお、「責任とおもいやりの道徳」というまとめかたは、(江原,1993)を参考にました。

参考文献


A theory of discrimination from the insider's viewpoint

   Almost all theories about discrimination to date have been constructed on the reality of the discriminated people. These theories, however, postulate "the discriminated" as a given category so that they cannot deal with a process of generating two categories; "the discriminated" and "the discriminator".
   In this paper, I propose a theoretical method to describe this process. The method is based on a triad model of human relationship which sees the reality of discrimination as interaction among three positions; "discriminator", "discriminated" and "accomplice".
   The reason I introduce a third position, "accomplice", in the method is that the position gives an insider's view to observe the very moment the category of "the discriminator" is constructed.

論文リストへ戻る