[見下し]の理論と差別意識


 この論文の目的は差別意識の一般理論としての差別意識論の理論枠組みを提案することにある。筆者の提案する差別意識論の理論枠組みはWillsの「Downward comparison」という概念をヒントにした、「見下し」という概念をキーワードとして採用している。「見下し」という概念自体は単純なものであるが、現在の差別意識論の検討から差別意識論に要請されている課題を明らかにし、「見下し」理論がそれに対する回答をもたらすことを示したい。

1 差別意識研究の理論枠組みの検討


1)差別意識論の課題

 差別意識論に要請されている第一の課題は、社会意識としての差別意識を説明する理論枠組みの必要性である。差別意識は個人意識や態度であると考えるべきでなく、社会的な意識であるととらえなければならない、ということはすでに多くの論者によって早くから指摘されてきている(1)。筆者もこれには全く同感であり、差別意識は社会意識として分析の手を加えられなければならないと考えている。
 しかしながら、今日までの差別意識に関する理論的研究を見てみると、このことには十分な配慮がなされていないように感じられる。例えば日本の差別意識論の研究では第一人者である江嶋修作氏は「差別意識の構造」において「(差別意識は)『差別する側』と『差別される側』の、集団的関係性の中で作られる意識である。ゆえに、この意識は、二つの特徴を持つ。ひとつは、個人的レベルの意識ではない、ということ。いまひとつは、両者の関係の内にしかない、ということ。」(2)、という全く正当な指摘をしながら、その分析の内容は差別意識を「価値」レベル、「シンボル」レベル、「集合心性」レベルという3つのレベルに層化することを中心としている。おそらく江嶋氏は「同和」教育の変革という問題意識があったためであろうが、この3つのレベルは差別意識がどのように個人の中に内面化されているかという分析であって、その背後にある集団的な差別意識の分析ではない。差別意識を社会意識としてとらえるならば、社会意識としての存在に焦点を当てるべきではないだろうか。
 この点に関して、よりストレートなアプローチを試みているのはマルクス主義の立場からの差別意識研究である。マルクス主義による差別意識論は差別意識をイデオロギーととらえ、基本的には下部構造としての経済関係に規定されながらも(反映論)、相対的独自性を持ち、特に支配階級のイデオロギーが被支配階級に強制されることに注目する(注入論)。しかしながら差別意識がいかに現実の社会関係を「反映」し、支配階級のイデオロギーがいかに「注入」されるかというメカニズムについてはマルクス主義理論は十分な回答を持たず、例えば八木晃介氏が「差別意識を規定し形成する根本的要因は、マルクス主義の理論的枠組みだけで十分解き明かすことができるとしても、この根本要因のもとに差別意識が個人意識として、または社会意識として定着させられる諸要因の分析はマルクス主義とはあまりなじんでいない」(3)として社会学、社会心理学の成果を取り入れようとしていることも理解できる。
 マルクス主義的な階級理論を基本的な分析枠組みとするかどうかは別としても、現在差別意識論に求められているのは、個人の差別意識の分析でも、差別イデオロギーの意味分析でもなく、社会意識としての差別意識そのものではなかろうか。どのような状況に置かれているどのような集団がいかにして差別意識を形成し、保持しているか。またその集団に所属している個人個人はいかにして差別意識を内面化し、強化し、また逆に集団の差別意識を支えているか、という分析が必要とされているのではないだろうか。
 以上のことから、筆者は差別意識論の理論枠組みの基礎には社会意識論のそれを採用することが必要であると考える。すなわち、「社会意識とは、さまざまな階級・階層・民族・世代その他の社会集団が、それぞれの存在諸条件を維持し、あるいは変革するための力として作用するものとしての、精神的諸過程と諸形態である。社会意識論はこのような社会意識の構造と機能、その形成と展開と止揚の過程を、経験的かつ理論的に研究することをその課題としている。」(4)、という基本認識が差別意識の研究についても必要であろう。

 差別意識論の課題として第二の論点は、差別もしくは差別意識の根本的な要因は何か、ということである。これらはもちろん差別意識論にとって最も重要な課題であり、多くの研究がなされていることも事実であるが、筆者には十分な回答が見いだされているとは思えない。「差別されるということはどういうことなのか」という問いに対しては非常に多くの研究、報告、聞き書きなどがなされているが、それと比較して「差別する」という行為についての研究は貧弱であると思えるのである。反差別の運動の活動家はもちろん差別問題の研究者においても差別への激しい怒りを持つのは当然ではあるが、その怒りの故に差別の不当性、不合理性、差別するものの醜さなどが強調され、「なぜ人は差別をするのか」、という問いに対しては比較的注意が払われてこなかったのではないだろうか。
 差別の根本的原因については非常にレベルの異なった二つの側面からのアプローチが主流を占めている。一つは個人が被差別集団を攻撃するという現象の心理学的研究であり、フラストレーション−攻撃仮説を基礎にしている(5)。いま一つはすでに述べた支配階級によるイデオロギー注入論である(6)。現在ある多くの差別意識論はこのいずれかまたは両方を差別の根本原因として仮定しているが、これらの根本原因そのものについては現在あまり検討が加えられなくなっているように思える。
 攻撃についての心理学理論も注入論もそれなりに説得力を持つものであるが、決してすべての差別現象を説明しつくすような完璧なものとは言えない。また、差別意識を社会意識と見る場合、二つの理論の中間のレベルに位置する、ある集団が差別意識を形成する独自の根拠、といったものにあまり配慮がなされていないことも重要である。
 差別意識論の理論枠組みを構築するためには、差別意識の根本原因について意識的に取り組んでいかなくてはならないだろう。
 また、これと関連した問題として、差別意識と差別行為、差別的実態(機会、資源などの不平等)の関連についても明らかにしておかなければならない。それには差別的実態があるから差別意識が生じるのか、差別意識があるから人は差別するのか、といった議論ではなく、差別意識、差別行為、差別的実態を含めた統一的視点の中でそれぞれを位置づけることが必要だろう。

2)差別意識によって表現される集団間の関係

 社会意識としての差別意識は特定の集団についての社会意識である。言いかえるならば、それはある集団の他の集団(被差別集団)についての関係の表現である。それでは差別意識によって表現されている集団間の関係とはいかなるものだろうか。
 この点に関して示唆的な発言をしているのが福岡安則氏である。福岡氏によれば、被差別部落への差別意識には「一つには、社会の一般的構成員たちが、被差別部落民を下に見くだすという意識の方向性と、いま一つには、被差別部落民にたいして”われわれとはちがう存在だ”というかたちで、外に遠ざけるという意識の方向性」(7)が存在するという。この「見下し」と「遠ざけ」はまさに差別する集団と差別される集団の関係の表現であると言える。
 この二つの関係性の表現について、もう少し詳しく検討してみよう。まず「見下し」であるが、これは被差別集団は自分たちよりなんらかの意味で「下」であるという関係の表現である。具体的には「能力が劣っている」「なまけものだ」「汚い」「性格が悪い」などの負の価値を付与することによって「上下」関係が表現されているのである。また、「かわいそうだ」「(本質的に)保護されるべき存在だ」といった表現も上下関係の間接的な表現であると言えるだろう。部落差別、人種差別、女性差別など様々な差別によって表現に違いはあるかも知れないが、上下関係の表現は差別という現象すべてに共通することであると考えられる。
 次に「遠ざけ」であるが、これは自分たちと被差別集団は異質であるというやや抽象的な関係の表現である。差別意識による異質化の特徴は、ある1つの点で異質であるということが他のすべての同質性をすべて無効にしてしまうくらい決定的な意味を持つ全面的な異質化であるという点にある。福岡氏によれば「まるごと人格総体において<異質な存在>であるかに感得しがちな感性」(8)が存在するのである。
 またこの点に関して江原由美子氏は「女性解放という思想」の中で、「女性」というカテゴリーは本質的に「男性ではない(非−男性)」という含意を持っている、すなわち男性にとっては「自分ではないもの」を意味すると述べている(9)。「女性」という言葉そのものが絶対的な差異の表現としてあるのだと言うこともできよう。
 差別に使用される社会的カテゴリーは、いわゆる「差別語」に限らず、「彼ら」と「我々」を明確に区別し、被差別集団は「外部」の人間であり、そのほかの属性が問題にならないほど異質な人々であるという表現なのである。
 以上の二つの関係性は常に結びつけて表現される。差別意識に関しては、異質であるという認識(遠ざけ)は劣っているという認識(見下し)をそのまま意味している。そのためこの両者を別々に取り扱うことはできないが、どちらにより比重をかけるかによって議論の進め方に差が生じる。現在の差別意識論の多くは「遠ざけ」る意識に重点を置いており、差異認識の根拠は何か、その差異がいかにして決定的な差異となり「見下し」意識を伴うのか、といった議論を主に展開してきたように思う。
 しかし筆者は「見下し」意識に重点を置いた議論もまた重要ではないかと考えている。「遠ざけ」意識は差別という社会現象のみが持つ、いわば差別意識の特殊的側面であるのに対して、「見下し」意識は差別特有の関係意識ではなく、より一般的な社会意識であり、差別意識の普遍的な側面であると言えよう。筆者が「見下し」意識に注目するのは、「見下し」は差別もしくは差別意識の原因により深く関連していると考えるためである。

 以上の議論から筆者は差別意識を分析するための概念装置として「見下し」という概念を提案するのであるが、その内容の前に、まず「見下し」概念の理論的な背景を明らかにすることにしよう。

2 「見下し」の理論的背景


1)社会的比較理論

 「見下し」というのは集団間の上下関係の表現であることを前節で述べたが、上下関係の認識が自己評価と深く関連していることに着目しているのがFestingerの提唱した「社会的比較理論(social comparison theory)」である。Festingerによると、人間には自分の意見や能力を評価しようとする動因があり、その際に客観的な手段を用いることができればそれが用いられるが、客観的な手段が得られない場合には他者との比較によって自分の意見や能力を評価しようとする、という(10)。Festingerは社会的比較の主要な動因は自己評価の動因であると考えたが、社会的比較は必ずしも客観的な評価手段がないときだけ行なわれるとは限らない。例えば人よりもすぐれた存在でありたいという願望が自分より劣った他者との比較をもたらす場合がそうである。この場合の社会的比較はFestingerによる自己評価を得るための比較と異なり、むしろ積極的に自己評価を変化させるための比較である。特にいまあげた例のように自分より劣った他者と比較する場合は「下方比較(downward comparison)」と呼ばれる。
 「見下し」を社会的比較として見るならば、それはあきらかに自己評価のための比較ではなく、自分の評価を高たい(自己高揚−self-enhancement)という動機に基づく下方比較であるといえる。下方比較は他者との比較による自己評価であるという点では社会的比較理論の一分野であるが、自己高揚の動機による比較であるという点においては、自己評価の動機による比較とは個人にとっての意味や機能的機能からみても大きな違いがある。そこで次に自己高揚の動機に注目して下方比較を分析したWillsの理論を見てみよう。

2)Willsによる下方比較理論

 Willsによる下方比較の理論は基本原理といくつかの系によって定式化されている。少し長くなるがすべての原理と系を引用してみよう。(11)


 Willsは下方比較を自尊感情の低下(自我の脅威−ego-threat)によって引き起こされると考えているが、これはすでに社会的比較理論の中でしばしば指摘されてきたことである。彼の下方比較理論の最大の特徴は所与の機会の利用による下方比較だけでなく、他者の価値低下や攻撃による、いわば下方比較の機会の創出をも含めている点にある(系1〜2b)。卑近な例では、なんらかの原因で劣等感にさいなまれているとき、自分より実際に劣っている人を思い浮かべて自分を慰めることもあるだろうが(所与の機会の利用)、悪口を言ったり(価値低下)、八つ当りをすることもある(攻撃)。このように下方比較の概念に能動的な比較機会の創出を含めることによって攻撃や差別など広い範囲の社会現象への適用が可能になり、実際彼は様々な社会現象を下方比較理論の適用によって再解釈してみせている。
 また彼は対象に関する原理で社会的地位の低い人が比較の対象になりやすい、と述べているが、これはその社会の主要な文化によって価値低下が容認されているような「安全な」対象が選択されやすい、という意味である。すなわち下方比較の対象は文化的に方向付けられているわけで、このことは差別や差別意識との関連で重要な論点である。
 Willsは下方比較の理論を基本的な動機の理論として位置づけており、偏見や差別の説明概念としても有効である、としている。そこで同様に差別を動機から説明するときに用いられるフラストレーション−攻撃仮説と対比させて、下方比較理論の有効性を検討してみよう。
 第一に、フラストレーション−攻撃仮説ではフラストレーションが必ずしも攻撃に結びつかない場合の説明が十分ではなく、また攻撃(具体的な行動)しか直接の説明対象にできない。下方比較理論では行動となって現れない「所与の機会の利用」から攻撃による比較機会の創出までを同じ理論枠組みで分析することができる。
 第二に、フラストレーション−攻撃仮説では攻撃対象がフラストレーションの原因に向かない場合(攻撃の置き換え)の説明が十分でない。下方比較理論では、比較の対象(または攻撃の対象)は「安全」な対象が選択されると考えられるため、どのような集団が被差別集団となるかという分析の道具として有効である。

 しかし、筆者の差別意識分析の問題意識から見ると、この下方比較理論にもいくつか不満な点がある。その中で最も重要なのが下方比較理論は個人の動機の理論である、という点である。第一節で述べたように差別意識は社会意識としてとらえられなければならず、そのためには個人がどのようにして差別意識を持つようになるか、ということではなく、集団がなぜ(社会意識としての)差別意識を形成するか、ということが解明されなくてはならない。すなわち差別意識論の基礎理論となるべき「見下し」の理論はWillsの下方比較理論を基礎として、それを「集団的な下方比較」についての理論へと再構成したものでなくてはならない。

3 「見下し」の理論


 「見下し」の理論は個人的見下しの理論と社会的見下しの理論から成り立っている。差別意識との関連では集団的見下しがより重要であるが、その存立基盤や機能を明らかにするためには、まず個人的見下しの理論から明らかにする必要がある。

1)個人的見下し

 Willsによる下方比較にならい、個人的見下しの議論は「自分より劣った他者と自己とを比較することによって自己評価を高めること」、という暫定的な定義から出発することにしよう。下方比較と同じく、個人的見下しはその積極性の度合によって次のようないくつかのレベルに分類できる。

a)所与の比較機会の利用
  これは最も積極性の低いレベルであり、自分より実際に劣っ ている他者との比較によって実現される。このレベルでは比較が ほとんど意識されなかったり、あるいは同情という形で意識され たりする場合もある。
b)価値低下
  これは他者をおとしめることによってなされる。例えば欠点を あげつらったり、面と向かって侮蔑したり、悪者にしたてたりす る場合がそうである。
c)攻撃
  これは最も積極性の高いレベルである。他者の機会を奪ったり、 不利益を与えるなどの方法で他者との格差を実際につくり出した り、上下関係を確認したりすることである。

 個人的見下しを理解するためのわかりやすい例として、二人の人が口げんかをしているところを思い浮かべてもらうとよい。なんらかの論点についてやりこめられている状況があるとする。その時やりこめられている人には自尊感情の低下が起こる。まずその人が試みるのはその論点について反撃に出ることであろう。それがうまく成功すればその人は満足する。これがいわば「所与の機会の利用」である。それがかなわないと知ればその人は相手の悪口を言ったり、侮辱したりするかも知れない。これが「価値低下」となる。それでも満足できなければ殴りかかったり、もっと陰湿な方法でしかえしをしたりするかも知れない。これが「攻撃」である。
 見下しが自尊感情の低下によって引き起こされ、それを回復させるということは、他者との差異に価値を付与していることを意味する。例えば自分より収入が少ない人と比較して自己評価を回復するという場合には、収入が多いことが望ましいこと、価値のあることであるということが前提になっている。Willsが下方比較を「自分より不幸な人と比較して主観的な幸福さを高める」ことであるとしたのは、種々雑多な属性の比較ではなく、その属性に付与された価値によって比較が成り立つのだということを意味している。こういった価値付与は暗黙の前提とされるべきものではなく、社会的な性格を持っている。能力がある方が価値が高い、収入が多い方が望ましい、などということは特定の社会的経済的条件に基づいた社会的価値付与なのである。また、こういった序列的な社会的価値付与は見下しの根拠であると同時に、見下しの原因、すなわち自尊感情が低下する根拠でもある。ある能力が劣っているということで自尊感情が低下するのはその能力に対する社会的価値付与がなされているためである。
 a)の「所与の比較機会の利用」ではこのような社会的価値付与が「そのまま」利用される。すなわち自尊感情の低下が生じた評価軸と同じ評価軸で自分より劣っている他者を比較の対象とするのである。「比較機会の利用」は服装、住居や消費財、資格や公的地位、収入、試験の点数、など様々な基準で行なわれ、また、心の中で思い浮かべるだけでなく、比較をきわだたせるような行為(例えば比較の相手や第三者に比較をわからせるような話題の誘導やしぐさ、有利な比較ができる相手との接近など)を伴う場合が多い。
 b)の「価値低下」では自尊感情が低下した原因と見下しの評価軸が異なっている。例えば能力について劣等感を抱いてしまった場合に自分より能力の低い人を見下すのではなく、だれそれは生まれが卑しいから自分より「人間として」劣っている、というように別の評価軸での上下関係をいわば「転用」しているのである。
 見下しの転用が可能となるのは見下しに用いられる評価軸がより強力な評価軸である場合であると考えられる。それではより強力な評価軸とはどのようなものなのか。先の例で考えてみると、能力による劣等感を出自による見下しで回復することが有効であるとするならば、それは能力よりも出自の方が出世なり収入なりの現実的な利益に結びつきやすく、相手を従わせる力を持ち得るのだ、という認識が存在しているためであると考えられる。逆にそのような認識のあるもとでは、出自による劣等感を能力による見下しで回復しようと思っても、それは「負け惜しみ」であって自己評価の回復としてはあまり有効ではない。
 強力でない評価軸はより強力な評価軸と結びつけられることによって成り立っている。例えば上品な態度や趣味のよい服装が望ましいものであるとされるのはそれが社会的な地位を象徴しているためである。
 「価値低下」が現実的な力(権力)を背景にした見下しであり、いわば「おどし」であるとするならば、c)の「攻撃」は権力の行使である。例えば企業組織での上司による部下に対する「いじめ」がこれにあたる。この「いじめ」は攻撃によって上司の権威を維持しようとする行為であるとも考えられる。
 見下しに用いられる評価軸は、このようにささいなものから基本的なものへ、そして最終的には権力体系へといたる階層構造を成している。個人的見下しがより積極的なレベルへと深化することは、この階層構造をより基本的で権力に結びついた評価軸へとたどることである。またこれを集団の側から見れば、個人的見下しは集団の権力構造に基づいて様々な価値を秩序づける行為であるとも考えられる。「見下し」は、価値の秩序化が個人の行為によってフィードバックされる仕組みであるという見方ができるだろう。以上のことを図で示したのが図1である(12)。

図1
 個人的見下しはいわば制度化された不平等に基づく見下しである。例えば身なりなどによる些細に見える見下しでもそれは現実的な権力構造と結びつけらているのである。
 個人的見下しはある社会集団の内部における個人の属性による見下しである。また、序列的であり見下す者と見下される者の関係は相対的である。
 見下しの深化は社会的な緊張を生み出す。これは些細な評価軸による見下しが実は権力構造の反映であるということを明白にするためである。Willsが指摘した「下方比較に伴う不快感」(13)は、社会的な緊張が生じることに対する不快感なのである。

2)集団的(外部)見下し

 個人的見下しは序列的な見下しであるが、序列的でない見下しもまた存在する。一般に差別現象はすべてそうであるが、見下される者がある特定の属性を持つ者に集中することがある。このような見下しを個人的な見下しに対して集団的な見下しと呼び、そのメカニズムや個人的見下しとの関係を考えてみよう。
 集団的な見下しの最も単純な形態は外部の集団を見下すことである。例えば非常に大規模な例としてナショナリズムがある。これは他国あるいは他民族に対する見下しをその主要な構成要素としている。集団的な見下しは見下す対象が外集団であるため集団内の社会的緊張を生まない。むしろ集団の成員の全てが「見下す者」であるという点で同一であるので、集団の一体感や同質感を増す働きを持つ。
 完全な外集団に対する見下しはよほど閉鎖的な集団でなくては不可能であるし、集団間の緊張の原因にもなり得る。しかし集団的な見下しの対象は必ずしも完全な外集団であるとは限らない。集団の内部の特定の人々が、「内部」であると同時に「外部」である、というあいまいな地位を与えられることによっても集団的見下しは行なわれる。このような、集団内に「外集団」が形成されるメカニズムこそ差別問題と本質的な関わりがあるので次に詳しく検討してみよう。
 集団内で最も弱い立場にある人々は当然最も攻撃を受けやすい。例えば身体的なハンディキャップを負っている人、制度や規範に適応していない新規参入者、非常に経済状態の苦しい人など集団の規模や種類に応じて様々な場合が考えられる。しかしそれだけではその人たちが他の全ての人から集中的に見下されることの説明にはならない。集団的な見下しは、集団を「見下す者」と「見下される者」の二つに分けてしまうような「標識」を持ち込むことによってなされる。攻撃はこの「標識」のもとに行なわれることによって、「標識」によって分けられた「見下す者」全員による集団的な攻撃としての意味を与えられるのである。例えば個人と個人のトラブルが、「奴は『見下される者(外国人、部落民、etc)』だ」という提起によって、多数者による少数者の一方的攻撃に転化するのである。「部落」、「女性」など、差別問題はすべてこういった「標識」を持っている。
 「見下される者」は標識によって識別された「弱者」である。もともと何らかの意味で弱者である場合も多いが、より重要なことは、「標識」によって孤立させられ、様々な場所から排除され、機会を奪われることによってより「弱者」にされるということである。このような「標識」による排除は個人的見下しにおける「攻撃」のレベルに相当する。
 集団的攻撃により確定された権力関係は「内部−外部」という権威関係を形成する。排除された人々は排除されているが故に集団の完全な成員でないとみなされるのである。集団の成員であることの否定という権威関係はは他のあらゆる権威関係を超越する。なぜなら他のすべての権威関係は集団の成員であることを前提とした関係だからである。「標識」に付加された、成員であることの否定という権威関係は個人的見下しにおける「価値低下」に相当する。
 このような権威関係に基づいて、見下される人々に対する様々なマイナスイメージが形成される。見下す人々は圧倒的な優位さを背景にして見下される人々に一方的に「劣った」属性を押しつけるのである。「劣った」属性は排除によってもたらされ、事実として押しつけられたものもあれば、全く根拠のないいわゆる「偏見」と言うべきものもある。また見下される人々の特徴に価値づけがなされる場合もある。例えば被差別部落出身者に押しつけられる様々なマイナスイメージ、女性は先天的に能力が低い、社会性に欠けるなどの決めつけ、精神障害者がまるで犯罪者のように扱われる、といったことはすべて権威・権力関係に基づく「劣った」属性の押し付けである。このような押しつけられた属性による見下しが、個人的見下しの「所与の機会の利用」に対応している。

 以上のように集団的見下しは個人的見下しと同様の階層構造を持っている。図1で示した価値の秩序化と見下しの深化の構造も共通している。両者の違いは個人的見下しが個人と個人の間の序列的な権力・権威関係や価値秩序について述べているのに対して、集団的見下しは集団を「内部」と「外部」に二分するような「標識」を軸にした権力・権威関係の形成について述べているという点である。すなわちこの「標識」こそが集団的見下しの最も重要なポイントであるし、また後に述べるように差別意識論においても重要なテーマである。
 「標識」は最も根元的には「社会的弱者である」という標識である。「劣った者である」という意味がつけ加えられたものであるのはもちろんだが、「外部である」という意味も従属的なものでしかない。なぜなら「外部」は権力の中心からみて「外」であるという意味であるからである。例えば女性が人口の半数を占めながらも「外部」であるのは、男性が「(権力の)中心」であるということが理由なのである。
 したがって「標識」は(少なくともそれが発生する段階では)既存の権力関係を前提とする。例えば「部落」という「標識」は封建的な「身分支配」を、「朝鮮人」という「標識」は日本の「植民地支配」をそれぞれ発生期の背景に持っている(14)。
 「標識」は既存の(序列的な)権力体系の中で非常に弱い立場におかれている人々を分断し、孤立させる「言語装置」である(15)。例えば「(身体)障害者」という「標識」によって、本来連続的でしかも多次元的な身体的能力を持つ個人個人が、「障害者」と「(障害者でない者としての)健全者」の2つのカテゴリーに分けられてしまうのである。
 「標識」は区別のための境界線ではなく、「見下す者」が「見下される者」に押しつけるものである。したがって「見下される者」の属性だけが問われ、「見下す者」はいわば「見下される者」の補集合として、その属性を問われないのである(16)。

 以上のような「属性」の性格から、集団的見下しは(序列的な)構造的不平等による社会的緊張を減少させる機能を持つことがわかる。序列的な個人的見下しとしての攻撃は、「標識」によって孤立させられた「弱者」への集中的攻撃に置き換えられることによって、「見下される者」による反撃の機会を封じてしう。また集中的攻撃によって、ある評価軸において最も「低い」者の地位が確定すると、それを根拠にしてその評価軸の有効性がより強く認識されるようになり、権威関係の安定をもたらす。例えば障害者が「不幸」であるという「事実」が能力による見下しをより正当なものであると認識させるのである。さらに「標識」にあらゆる「劣った」属性が押しつけられるために集団内の格差が隠ぺいされる。集団的見下しは構造的不平等の必然的帰結であり、個人的見下しを補完するものであると言うことができよう。

3)差別現象と見下し


 ここまでの議論の進め方から、筆者が集団的見下しと差別はほぼ同義であるととらえていることが理解されると思うが、この点に関してもう少し詳しく説明してみたい。「行為」としての差別は「見下し」としてとらえることができる。「見下し」という概念によって「差別発言」や「差別的なしぐさ」から「排除」、「忌避」そして「身体的な攻撃」まであらゆる形態の差別行為を一貫した理論のもとに位置づけることができる。しかし見下しすべてが差別ではない。差別の特徴は「部落」や「女性」、「障害者」などの標識のもとに行なわれる見下しである、という点にある。「見下し」の理論はこれらの標識が従来考えられていたような「現実的あるいは架空の差異」の標識や「外部」であるという標識ではなく、社会的不平等構造において「最も弱い者」であるという標識であることを明らかにした。この点は「差別」と「不平等」の関係という論点に対しても示唆的である。差別は不平等を根拠にしているが全ての不平等が差別ではないし、「著しい不平等」が差別なのでもない。
 不平等は権力構造の問題である。例えば能力について考えてみよう。能力は二つの点で不平等との関わりがある。一つは「女性も男性と同じ能力があれば同じ地位、賃金が与えられるべきだ」というように平等の根拠として用いられる場合であり、いま一つは「能力は社会環境により決定されるものなので、能力によって社会的利益、不利益が与えられるのはおかしい」というように能力自体の不平等性が問題にされる場合である。こういった混乱は「不平等」が社会的な「正当性」によって根拠づけられているために起こる。筆者の見解は、能力は権力構造によって秩序づけられた社会的評価軸の一つであり、他の評価軸との関係で重視されたり無視されたりするのだ、というものである。平等−不平等の評価づけに関する争いは社会的評価軸の間の葛藤であると理解される。大胆な言い方をすれば全ての社会的評価軸が不平等なのであり、それは権力構造によって秩序づけられているのである。
 差別は不平等な権力構造の重要な構成要素として存在している。権力体系の中で最も「弱い者」を孤立させ、排除し、負の価値を押しつけることによって、権力構造による価値の秩序化を支えているのである。

4 差別意識論の課題(まとめにかえて)


 以上のような基本認識のもとに、差別論、および差別意識論の今後の研究課題を示して、本論文のまとめとしよう。
 社会現象としての差別の構造は、やや図式的ではあるが次のような段階に区分できる。

 1)権力構造としての不平等(個人的見下し)
 2)「弱者の標識」の社会的形成
 3)「標識による排除」による差別的社会構造の形成
 4)標識をめぐる権威関係と価値意識の形成

 これらは原初的には数字の順に生起すると考えられるが、それぞれの段階が独自の構造を持ち、平行関係にある個人的見下しとも複雑に絡み合っているため、すべてを1)の権力構造に還元して考えることは不可能である。そこでそれぞれの段階についての研究が、相互に関連を持たせつつも独自性を持って進められる必要がある。
 1)の権力構造の解明は最も基礎的なものである。ここでは不平等を生み出す実際の社会構造の解明とともに、個人的見下しのより詳しい研究が要請される。
 2)の「弱者の標識」の形成についての研究は差別意識論の中心的課題である。集団がいかなる状況にあるとき「弱者の標識」が形成されるか、またどのような「弱者」が、どういう基準によって標識を押しつけられるのか、といったことが解明されなくてはならない。また「標識」は集団の全ての成員に同じ意味で受け取られているわけではない。どういった人々が「標識」をより強く必要としているか、どこに境界線を引きたいと願っているか、といったことは部分集団の社会意識として解明されなければならないだろう。
 3)の「標識による排除」は、具体的な「差別事件」、差別的な制度などの分析を通じて、排除のメカニズムが解明されなければならないだろう。
 4)の標識に対する権威関係と価値意識の付与は差別意識論のもう1つの課題である。「弱者の標識」は権威関係や価値意識を付与されることによって、その本質が非常に見えにくくされている。被差別者は「劣っている」から差別されるのではなく、「弱い存在」であるから差別されるのだ、ということを意識のレベルで解きほぐしてゆくことは、差別をなくしていく上での戦略的な意味からも重要であると思われる。
 言うまでもなく、こういった各分野での研究は様々な差別問題それぞれについての具体的な適用がなされなくては意味をなさない。差別問題とひとくちに言ってもその現象形態には非常に大きな違いが見られ、一つの理論だけではすべてを説明しつくすことは困難であると思われる。本論文は差別問題の基本的枠組みを提出することが目的であったので、様々な差別問題の違いについての検討は非常に不十分である。筆者の今後の研究はこのことを十分念頭に置いたものになろうし、また本論文に対する批判や評価も差別問題への具体的な適用からなされることを期待したい。


  1. 例えば、部落解放同盟は一九六九年に、「部落民に対する社会意 識としての差別観念は、その差別の本質に照応して、日常生活の中で、伝統の力と教育によって、自己が意識するとしないとにかかわらず、客観的には空気を吸うように労働者および一般勤労人民の意識の中に入りこんでいる。」という規定をしている。これは、部落解放運動のみならず、様々な反差別運動や差別意識の研究にも影響を与えている。なお引用は以下の文献による
      師岡佑行、『戦後部落解放論争史 第四巻』、柘植書房、1984、p318
  2. 江嶋修作、「差別意識の構造」、江嶋修作編『社会同和教育変革期(つくりかえ)』 明石書店、 1985、pp197-132
  3. 八木晃介、『差別の意識構造』、解放出版社、1980、p129
  4. 見田宗介、『現代社会の社会意識』、弘文堂、1979、p101
  5. 例えば、Allport,G.W., The Nature of prejudice, doubleday & Company, 1958
    邦訳 原谷達夫・野村昭訳、『偏見の心理』、培風館、1961
    これは偏見研究の古典的な文献であるが、偏見が行動となって現われる過程をフラストレーション−攻撃仮説によって説明している。
  6. 例えば、杉之原寿一、『部落差別意識の研究』、兵庫部落問題研 究所、1984 八木晃介、前掲書 など
  7. 福岡安則、『現代社会の差別意識』、明石書店、1985、p
  8. 同右、p
  9. 江原由美子、『女性解放という思想』、勁草書房、1985、p90
  10. Festinger,L., A Theory of Social Ccmparison Processes, Human Relations 7 pp117-140, 1954
  11. Wills,T.A., Downward Comparison Princeples in Social Psychology, Psychological Bulletin vol.90 No.2, 1981 pp245-271
  12. ここでは「権力」及び「権威」という言葉を一般的な意味で使用している。見下しの理論自体のより詳細な検討のためにはこれらの概念が意味する内容についても明確にしなければならないだろうが、本論文は「見下し」と差別意識の関連の究明が主要な目的であるので、この問題についての詳しい論究は差し控えたい。
  13. Wills、前掲
  14. ごく小規模には、権力関係を背景としない場合もある。例えば、学校での「いじめ」現象は集団的見下しであるが、「弱者」でない者が「いじめ」の対象となる場合もある。集団的見下しとしての「いじめ」については、次の文献が参考になるだろう。
      菅野盾樹、『いじめ=<学級>の人間学』、新曜社、1986
  15. 差別が「言語装置」であるということは江原由美子氏が『女性解 放という思想』の中で明らかにしている。(前掲 p82〜)
  16. 江原由美子、前掲書 p90〜
    「差別の論理」では差別される者のみが「有徴」である

参考文献



論文リストへ戻る