第9回講義の感想と質問
- 「文化的再生産」の理論は、トランプ遊びで言うところの「大富豪(大貧民)」に似ている。元々の文化的資本によって、地位がますますその方向性を強めるというポイントを見ると、弱肉強食の資本主義を見ているような気がする。
- 「再生産」という点では似ていますが、「文化的」という点では似ていません。「大富豪」ゲームでは直接「年貢」を交換して地位が再生産される、経済的な再生産ですが、「文化的再生産」の理論は、これが、教養や言語や趣味などの文化によって媒介されるとしたところに特徴があります。
- 文化的埋め込みは「被差別者についてのイメージではない」とありましたが、それでは何なのですか? 文化的埋め込みは被差別者についてのイメージもあるのではないのですか?
- 被差別者についてのイメージも含んではいます。ただ、偏見がそれにのみ集中するのに対して、それ以外の要素へ広がりを持っているところに特色があります。例えば女性差別であれば、「偏見」なら女性のイメージということになりますが、それ以外に、「男性のイメージ」や「男女関係のイメージ」なども、性差別の文化的背景になっていると考えるのです。
- 今回の性別役割分業と性差別を「男性性」のイメージと価値という点から考える理論はとても分かりやすかったです。
- 健常な小学生一人にかかる税金で負担される年間教育費は約60万円といわれます。一方、特殊学級に通う児童一人にかかる年間教育費は約600万円と言われます。この金額の中には、当然、施設費や人件費が含まれ、ほとんどの割合を占めますが、このことが例えば教育基本法第3条「国民は、等しくその能力に応じた教育を受けることができる」に照らし合わせた場合、両者は等しく、能力に応じた教育を受けているのかという議論があります。健常者から見ると、600万円はかけすぎだということになり、金額を減らせとなります。現に行革の対象になっているとも聞きます。一方障害者やその親から見ると障害の程度も知らないでただ減らせというのでは納得できず、反発していると聞きます。それぞれの立場から見ると「等しく」「その能力」に応じるというのは、違う解釈ができますが、どのように見ればいいのかなと思いました。
- 教育の中身と、それにかかる費用を分けて考える必要があります。教育基本法の第3条は、当然中身について規定したものであり、「等しい費用をかけねばならない」ことを規定したわけではありません。教育に限らず、少数者に配慮する施策、制度、設備などはコストがかかりますが、現在はなるべくそれらを保障していこうという流れにはあると思います。ただ、差別論という観点から考えると、「600万円はかけすぎだ(だからもっと減らせ)」という主張がなぜ生じるのかということが興味深い点です。
- よく考えれば個人主義的能力観というものがありますね。結局「個人」に価値をおくものになっていくのです。
- 自分の中に合った肯定的なもの(自立するのは当たり前というのが特に)が文化的埋め込みであったとは知らなかった。確かに、何故自立しなくてはいけないのか? と聞かれたら、それはプラスのイメージを持っているからだと言えなくもない。だからといって、自分が今まで当然と思っていたことが、そうではないと注意されると、社会全体で主要であった価値観でも、何が良いことで何が悪いことかというのが、うまく分かれていないことに気がつかされる。
- 障害者の問題は、分かりやすく、納得する点が多かった。私たちの周りでもいろいろな面で能力主義的なところが多い。能力で人の価値をはかろうとするのは表面的なところしか、その人を見ていない。もっと、障害者差別の問題に限らないが、内面的なところを評価されるような社会になれば良いと思った。
- 一元的能力観を聞いて、前回のマルクスの労働価値説を思い浮かべました。階級闘争などを言っていたマルクスも、知らず知らずに障害者を差別していたのですね。
- 労働価値説は「価値は人間の労働によってのみ生み出される」と言っているだけあり、「人間の価値」について言及したものではありませんので、直接能力主義と結び付いているわけではないと思います。もう少しつっこんで考えてみると、難しい問題いろいろ出てきそうですが、マルクス主義の思想や理論に深く立ち入ってしまいますので、パスさせてください。
- 差別からの脱却、その他の活動にしても、まわりからの評価が変らないとそのうちのジレンマが起こる。格差是正ほど難しいものはないが、本人、被害者が訴えなければ何も変らないのだろう。
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