第7回講義の感想と質問

  1. 正直に言って差別者=「悪人」というイメージを持っていました。気をつけようと思います。あと、下方比較論について、自分が「不幸」であると認めてしまうと、そのことが差別の「目的」であるという所も、いままで「結果」だと考えてしたので、考えを改めようと思います。
  2. 「偏見」というのは、自分のストレスや心の不満を満たすために積極的に行うものでもあると(下方比較理論)いうのは、言われてみれば確かにそうであると思った。私は積極的にとまではいかないけれど、常に人を偏見の目で見ているような気がする。偏見は差別の心理的な原因になるのなら、私は、どれだけの差別意識を持っているのだろうかと恐ろしくなった。差別をなくしていくためには、差別をなくそうという態度が必要であるが、偏見もなくそうという努力も私には必要な気がした。
  3. ワイドショーや週刊誌には偏見に満ちていたり、下方比較的なところが多いと思う。特にワイドショーは出演者の主観、レポートの構成によって大きく話が変ってしまう。例えばある女性が殺される。始めは悲劇として扱われるが、しだいにその人の私生活が荒れていたとか、交友関係が悪いなど言われある意味その人の行動に殺されても仕方がない要因があったとか、暗い点とかを浮き彫りにしがちだと思う。そういう不幸な人物づくりも偏見や比較から生まれるのではないかと思う。
  4. 下方比較の理論のところで「不幸」であることは差別の「結果」なのではなく、差別の「目的」なのだという考えが興味深かった。誰しも、自分を下の人と比べて優越感にひたることはあると思う。それは、差別の目的なのだと思うと少し恐い気がした。
  5. 自分より「不幸な」他者と比較することによって幸福を得る、という所を読んだとき、差別やいじめなどの根本はすべてここにあるのではないかと思いました。
  6. 「幸福」というものは主観的なものであって、「成功」という客観的なものとは別であるはずなのに、それが同一視されることが多い。積極的に、じぶんより「成功していない者」を選んで見下すことで幸福を得ようとするのは、弱い自立性にあるように思う。
  7. 偏見の対極にあるものは「偏見がない」ことだと思っていたので、それだけでは十分ではないとする人権意識論というものを知って少し驚いた。
  8. 例えば”差別発言をしてはならない”という考えは、自由な発言をしてはならないという偏見になります。また、文化的差異もあり、絶対的な正しい観念思想が存在しえないのだから、どれが偏見で、どれが正しい考えなのかの線引きもできないはずです。さらに、偏見をなくすという考えを実現すれば、自由な思想発言が認められないのではないでしょうか。PS.理想上のことであり、現実的に実行不可能なことのような気がします。
  9. いじめにおいて、いじめる方を上位、いじめられる方を下位とすると、いじめられる方にもし能力(知力、体力)があれば地位を向上させることも可能かもしれません。友人が「いじめられっ子は、おおきくなっていじめた奴らを見返してやればいい」と言っていたとき、違和感を感じたのを覚えています。地位も能力もない人は一生下位にいなくてはいけないのだろうか。
  10. 下方比較理論の含意で「不幸」であることは、差別の「目的」であるとあったが、それは「いじめ」にもあてはまると思いました。私は中学校のとき、いじめられて嫌な思いをしたはずなのに、自分よりももっと不幸な人を見て、自分を安心させるために、友だちをいじめたことがありますが、それも「いじめ」は「不幸」になるために行ったことで、「不幸」がいじめの「目的」だったと思いました。
  11. 人間の嫌な一面を見てしまった気がする。社会レベルで偏見を持ってしまったら、これをなくすことに容易でないだろう。気づいていない人も多いと思う。人権意識が高まることを望むが、これはなかなか難しいだろう(下方比較という人間の特性から言って)。

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