第6回講義の感想と質問
- 偏見というものは後天的に形成されるものであって、それは自分の意見の持ちようでもある場合と、そうでない場合があると思う。一概に偏見はよくないということもできないのではないかと思った。自分がある偏見を持っているということを認め、その上でそれをどうしていくべきかが大切であって、自分は偏見を持っていないと抑圧することは必ずしも偏見の修正に結び付くとは言えないのではないか。
- もともとの偏見理論においては、偏見は「良くないもの」(すなわち「修正されるべきもの」)です。差別行為を起こす準備状態が偏見なのですから。その後の議論では、偏見がなくても差別行為をする場合もあるし、偏見があっても差別行為をしない場合もあると考えられるようになりましたが、それでも偏見が差別の有力な原因の一つであるという考え方には変わりありませんので、やはり「良くないもの」だと捉えていると思います。
- 先週の感想と質問の4は私で「いじめる方」ではなく「いじめられる方」の書きまちがいです訂正します。マートンの類型を見て、自分はどれに含まれるだろうかと考えた。何か心理テストのようなもので分かるものなのですか。
- 偏見理論は「測定」の技術と結び付いて発展してきたと言ってもよいでしょう。偏見の「社会的距離」や「忌避の心理」、「否定的/肯定的イメージ」、「格差の正当化」など様々な基準で測定されています。ただ、どのような差別問題でも偏見は直接測定できるのかということについては、私は疑問を持っています。
- 理論というものはどんな事柄にもついてくるものであるが、この差別、偏見の理論というものはそれ自体が複雑なため、難しいと思った。私は偏見の一部分が差別であるように思う。
- 偏見と差別は同じレベルに並ぶものではなく、偏見理論においては「偏見→差別」という因果関係が想定されていることに注意してください。
- 偏見の形成において同調という考え方があるのには興味深かった。偏見の中には自らの意志や感覚でその行為をしている場合と、他の人がやっているから、また、そのやっている人との関係を壊したくないからという消極的な理由でやっていることも多いと思う。ただ、それを日本人的な和と考えるのはやはり違うのではないかとも思う。
- 「同調によって偏見が形成される」という場合は、他の人がやっているからという理由で始めたことが、いつしか本人の「態度」として固定化されてしまうという含意があります。その場限りの「同調」とは区別する必要があるでしょう。
- マートンの類型で「偏見は持たないが差別をする人」というのがあったけど、差別という行為には必ず偏見(態度)がついてくると思う。
- 偏見を修正することは難しいと思う。私にしても、印象でその人その人に対する「自分の中での線引き」をしてしまっており、修正することはほとんど不可能だと思う。
- 「個人的な悪印象」は(ここで問題にしている)偏見と言えるでしょうか。例えばささいな口論などがきっかけである人を嫌いになって許すことができないというようなことは、直接差別問題とは結び付きません。つまり、偏見にはなんらかの社会的背景があるのです。これも今日の課題です。
- 偏見と一言で言うが、たとえばオウム、宮崎勤などに対する偏見と、鯨や犬を食べることに対する偏見は次元が違う。しかし、その人間の持っているアイデンティティに対する偏見であることは違いないはずである。そうだとするのならば、偏見をなくすという作業は(1.3)どこまでは、作業をし、どこからはしないという線引きが難しいはずである。さらに、接触仮説においては、両者が激しく対立していればしているほど難しい問題がある。
- 「次元の違い」が何を意味しているのかがよく分からなかったのですが、もしオウムや宮崎勤は偏見を持たれても仕方がないというのなら、それは少し違うでしょう。犯罪は犯罪としてきちんと裁かれなければならないのは当然で、それは(本来)偏見とは関係ありません。しかし、これが(カルト)宗教一般や「オタク」に対する偏見の根拠になってしまうと問題であると思います。
- 最後の偏見理論の検討のところで出された問題ははっきりとした答えはあるのですか? 先生の説明を聞く限りでは「〜かもしれない」という感じだったように思うのですが。
- 難しい問題なのですが、とりあえずはこのように考えてください。どのような場合にも適用できる「一般的な正解」はまず存在しない。しかし、個別具体的な事例ではかなり妥当性の高い回答は提出することができる、と。
- 何だか分かったようで分からない感じが残った。
- すみません。ちょっと詰め込みすぎたかもしれません。今回からはもう少し工夫します。
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