第6回講義の感想と質問

  1. 偏見というものは後天的に形成されるものであって、それは自分の意見の持ちようでもある場合と、そうでない場合があると思う。一概に偏見はよくないということもできないのではないかと思った。自分がある偏見を持っているということを認め、その上でそれをどうしていくべきかが大切であって、自分は偏見を持っていないと抑圧することは必ずしも偏見の修正に結び付くとは言えないのではないか。
  2. 先週の感想と質問の4は私で「いじめる方」ではなく「いじめられる方」の書きまちがいです訂正します。マートンの類型を見て、自分はどれに含まれるだろうかと考えた。何か心理テストのようなもので分かるものなのですか。
  3. 理論というものはどんな事柄にもついてくるものであるが、この差別、偏見の理論というものはそれ自体が複雑なため、難しいと思った。私は偏見の一部分が差別であるように思う。
  4. 偏見の形成において同調という考え方があるのには興味深かった。偏見の中には自らの意志や感覚でその行為をしている場合と、他の人がやっているから、また、そのやっている人との関係を壊したくないからという消極的な理由でやっていることも多いと思う。ただ、それを日本人的な和と考えるのはやはり違うのではないかとも思う。
  5. マートンの類型で「偏見は持たないが差別をする人」というのがあったけど、差別という行為には必ず偏見(態度)がついてくると思う。
  6. 偏見を修正することは難しいと思う。私にしても、印象でその人その人に対する「自分の中での線引き」をしてしまっており、修正することはほとんど不可能だと思う。
  7. 偏見と一言で言うが、たとえばオウム、宮崎勤などに対する偏見と、鯨や犬を食べることに対する偏見は次元が違う。しかし、その人間の持っているアイデンティティに対する偏見であることは違いないはずである。そうだとするのならば、偏見をなくすという作業は(1.3)どこまでは、作業をし、どこからはしないという線引きが難しいはずである。さらに、接触仮説においては、両者が激しく対立していればしているほど難しい問題がある。
  8. 最後の偏見理論の検討のところで出された問題ははっきりとした答えはあるのですか? 先生の説明を聞く限りでは「〜かもしれない」という感じだったように思うのですが。
  9. 何だか分かったようで分からない感じが残った。

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