第4回講義の感想と質問
- 「障害者」という人たちが差別されているということと、スーパースターのように扱われているということが結びついている、ということは私も思っていた。とくに、TVでの取り扱われ方は安易すぎると思う。確かに、障害をもって生まれるのは大変なことだと思う。でも、だからといってスーパースターのように扱うとまではいかなくても特別な優遇がありすぎるのは、逆差別のように思われる。しかし、施設などが障害者にとって使いやすく作る、ということは差別でないと思う。アルペンスタジアムでは車いすの人は人がかついで登るしかできない。すべての人が過ごしやすく、スムーズに生活できるように整備することが、一番大切なことだと思う。女性差別も、女性は「女だから」と甘えている部分がかなりあると思う。どちらも社会に甘えすぎていてはいけないと思う。
- 先週説明した「スーパースターとしての障害者」というのは、優遇したり「甘やかし」たりすることではありません。「人一倍の努力」をした人や「特異な才能」を持つ人を「あるべき障害者のモデル」としてしまうことの危険性を指摘したのです。「甘え」については、女性だから、障害者だから、という甘えもあるでしょうが、逆に「男性だから」「健全者だから」という「甘え」もまた存在していると思います。ただ、これらの「甘え」は見えにくいのです。なぜ見えにくいのか、ということについては、今日の授業でお話ししたいと思います。
- 障害の中にも、いろいろな程度があって、本人や家族は「あの人よりはましだ」と思いながら生きている場合があると思う。これも差別の仲間に入るのだろうか。
- 「あの人よりはまし」という考え方は、差別問題と深く関っていると思います。前にも予告しましたが、これは「社会的比較」(仮題)という項目で、たぶん2〜3回後の講義で説明します。
- 自分は、幼い頃から「障害者」のいる環境に育った。保育園に行ってた頃、(きっと脳に障害がある子だと思うのだが)言葉がうまくしゃべることができず、字も書くことができない子と同じ教室で3年間過ごした。そのことは同じ町内ということもあり、同じ小学校に6年間通った。保育園の頃と違い小学校、特に高学年になるにつれてその子に対する接し方にすごく困ったことを今日の授業を聞きながら思い出した。小学校では、その子は『特殊学級』という普通の校舎とは別棟の校舎でいた。低学年の頃は保育園の頃の延長的に休み時間になると「○○くん、あそぼ」と言えたものだが、年齢を重ねる度に今日の授業での言葉を借りれば異化していたり、みせかけの「保護」をしていたりしていたように思った。その子がしゃべることがままならないこともあり、それがどんどんエスカレートしていた(彼の真意がわからなかったから)ように思う。差別問題でよく「寝た子を起こすな」というのをきく。(特に同和問題で)自分はこの頃の経験によって障害者についていろいろ考えることができた。こういう現実を実際にしたからである。だから、「見えないものはそのままにしておく」という考えは違うと思っている。少なくとも障害者には接することができる。
- 障害者ではあるけれども特異な能力を持っている子の話をドキュメンタリーで扱っていた番組を見て、すごい感銘を受けたし、パラリンピックで金メダルを取った人の記事を読んで、それもすごいと思った。でも、それが、障害者の人たちにとってのプレッシャーとなるのなら、それに感動している自分たちは、いったい何なのかとよくわからなくなった。
- 特異な能力を持っていたり、大変な努力を払って成功したりした障害者を賞賛し、祝福すること自体は何の問題もないでしょう。ただ、健全者がオリンピック選手を基準にして能力や努力を評価されることはないのに対して、障害者は、「障害者」というひとくくりのカテゴリーで、一部の「努力家」を基準に評価されることは現実にあるわけです。また、障害者をめぐる社会的条件を無視して「個人的な努力」こそが問題解決の道だという考えを広めてしまう可能性もあります。
- 例えば道を歩いていて、サングラスをかけた白い杖を持った人が向こうからやってきたら、どうしても道を譲るし、同時に何らかの感情を抱いてしまう。こういったことも、一つの問題になってしまうのだろうか。
- 「何らかの感情」というのがどういうものかわからないのでなんとも言えませんが(道を譲ることは何の問題もないでしょう)、もしそれが視覚障害者の忌避や排除につながってくるとしたら、問題の一端を構成しているのかもしれません。ただ、「感情」それ自体が問題であるというとらえ方は生産的ではないと思います。
- 障害者や女性差別において、イメージというものが深く関っていて、しかもそのイメージが文化的に埋めこまれていることが大きな問題になっている、という話を聞いて、まさにその通りだと思いました。
- 学歴まで差別なのだろうか?
- 例えば就職の際に出身大学によって門前払いを食わされるような場合に、それを「差別」であると感じる人はいると思います。
- 障害者を不孝のイメージでとらえたり、子どものように扱って過度に保護しようとするのは、幼い時の周囲の環境によるところが大きいと思うが、それに加えて、日本人特有の儒教の教えの影響もあると思う。つまり、儒教的なもので、弱いものの味方をするといったものだろう。
- 私は、世の中の人たちがもっともっと障害者のことを知るべきなのではないかと思います。目をそらしたら、「自分と違う」と思ったりすることは本当はよくないことかもしれないけれど、そう思ってしまうのが現実です。大切なのはそういうことを真正面から受け止めた上で、どうその人格を知っていくかということなのではないでしょうか。
- 自分の能力を発揮するための選択の自由を奪うことが、障害者に対する一番の差別だと思う。ある種の能力に対しての可能性は、健全者も障害者も基本的に同じであるはずだから、その機会をじゃましない(与えるではなく)ことが大事なことだと思う。
- 私は障害者と関ることが多いので、今日の授業はどれも、とてももっともだと、理解することができた。われわれ健常者は、普段ほとんど障害者とじかに関る機会が少ないため、ついイメージを持って、それで判断してしまう。一人の知的障害者が、事件を起こせば、全ての障害者が危険だという目で見られてしまうように。しかし、実際に障害者と関ってみると、イメージとはかなり違うことに気づくと思う。。彼らも一人の大人として自我を形成し、人格をもっている。その点においては、健常者と何ら変わりはない。健常者であっても、不得意や苦手とする短所がある。障害者はそれが身体にあるということである。互いに迷惑を掛け合って、助け合っていく社会になれば良いのにと思う。
- 今日の障害者とHIVなどは”負のイメージ”という問題がどちらも共通に出てきたが、それは差別についての問題には、多く登場するものだと思う。社会の中に埋めこまれてきた様々な”イメージ”というものは、取り除くことが不可能であるだけに、どうやったら差別でなくなるのかと思う。
- 「イメージ」を取り除くことは困難ではありますが決して不可能ではないと思います。ただし、「イメージ」の内容だけにこだわっていると重要な点を見逃す可能性もあると思います(後の授業で説明します)。
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