資料

佐藤 裕「差別表現を考える」(栗原彬編『講座差別の社会学1』弘文堂)より抜粋

 この論文は筒井康隆の「無人警察」という短編小説を題材にして差別表現について考察したものであるが、その中から小説の分析に関る部分を抜粋した。



 三者関係枠組を用いて「差別表現」の分析をする上で必要なことは、「読者」を視野に入れることです。作者が「読者」をどのように想定し、どのように作品世界に引き込もうとしているのか、そして、その際に被差別者に関わる表現をどのように用いているかが考慮されねばなりません。
 それでは、まず「無人警察」の構成をもう一度振り返ってみましょう。
 「無人警察」の主題は、(近)未来における管理社会の恐ろしさを描くことにあります。「無人警察」では、これを一人の人物が理不尽な目に遭う様を描いて読者に示そうとしています。この作品が読者に対して訴えかける力を持つためには、いくつかクリアしなければならない条件があります。まず、主人公はどこにでもいるごく普通の人でなくてはなりません。そして、警察のやっかいになるような正当な理由がないことをうまく示さなくてはならないでしょう。長編の小説では人物像を深く描き込んでリアリティを出すことも可能でしょうが、「ショート・ショート」と呼ばれる「無人警察」のスタイルではそれは困難です。むしろ登場人物の描写を極力省略しながら読者を引き込んでいくテクニックこそが眼目だといえるでしょう。
 「無人警察」では、主人公である「わたし」に「〜でない」という形でいくつかの属性を否定させることによって主人公が普通の無垢な人間であることを示す方法をとっています。「酒を飲んでいない」「何も悪いことをした覚えもない」という表現は、「わたし」が自動車を運転したり町を歩いたりする正当な権利のある人物であることを示すと同時に、それが普通のことであり、読者もまたその条件を共有できることを示しています。この2つの条件は読者と「わたし」を同じ立場へくくり込む効果をねらったものだといえるでしょう。「わたし」は読者に向かって、「君たちもわたしと同じだからわたしの気持ちはわかるだろう」と呼びかけているわけです。
 それなら、「わたしはてんかんではないはずだし」という表現はどうして必要だったのでしょうか。まず一つは先の二つの条件を補い、「わたし」の運転・歩行の適格性をより強く印象づけるために用いられたのだと思います。すなわち、肉体的・精神的条件として適格であることを示す記号として用いられているのです。おそらく筒井氏は先の2つの条件では不十分だと感じたのでしょう。飲酒運転の経験があるひとは皆無とはいえないでしょうし、「悪いことをした覚えがあるか」どうかも考えようによってはあやしくなってしまいます。しかし、「てんかん」の場合は、「違う」と確信を持たせることができる条件です。そして、その確信の強さが読者を引き込む強さにつながるのです。
 さらに、「てんかん」は小説の後半でロボットがESPの能力を持ち、潜在意識までも探知してしまうという結末につなげていくための鍵としての役割も持っています。「思考波の乱れのキャッチ」が「読心」「潜在意識の探知」へとスムーズに発展していくためには、当初からロボットが「脳波測定器」を備えているという設定が必要であり、それを正当化する道具立てとして「てんかん」が用いられているわけです。
 しかし、ここでの「てんかん」の位置づけは大変微妙です。最初にロボットの説明をする部分では,物語の構成上ロボットの機能は肯定的に描かれる必要があります1。「取り締まり」「病院へ収容」というあまり印象の良くない表現を用いながらもそれを肯定的に評価するためには、読者に取り締まりは正当であり、自分自身は「取り締まり」や「収容」とは無関係だと思って読んでもらう必要があります。また、「わたし」が運転・歩行の適格者であることをより強く示すために「わたし」の特徴をより限定することは、読者を幅広く取り込む可能性を減少させてしまうはずです。それはなんとかして避けねばなりません。
 このような困難さを解決してしまう(と作者が期待した)のが、「てんかん」の「他者性」です。「わたし」とも読者とも無関係な、この社会の十全なメンバーとは見なされない存在、イメージとしては存在するが生きている人間としての実体がない存在として思い描かれることが、上にあげたような厄介な問題を回避し、期待する効果を生み出すのです。取り締まられ、病院へ収容されるのは、誰か知らないリアリティのない存在でしかないので、そのことについて読者が思い悩む必要はありません。「てんかんではない」という「わたし」の属性は、「あたりまえ」で「普通」のことなので、「わたし」を全く限定することなく運転・歩行の適格性を示すことが可能です。
 「てんかん」がこのように使われているからといって、作者がてんかん者を社会の十全なメンバーとして見なしていないとか、そのようなひとは実際には存在しないなどと考えていることを意味しません。小説で使われている「てんかん」は、むしろてんかん者の生活のリアリティと切り離された「記号」であることによって、物語世界を構築し、作者と読者がそれを共有するための道具立てとして機能するのです。
 このような「てんかん」という言葉の用法を「比喩」として使われていると理解するだけでは全く不十分です。確かに「てんかん」は運転不適格な条件の一つとして例示的に用いられているだけだという見方はできます。しかし、それだけでは作者が「てんかん」という言葉を用いた必然性は理解できません。「わたし」と読者にとっての「他者性」こそがここで「てんかん」という言葉が必要とされた理由です。
 それでは、その「他者性」は何に由来するものなのでしょうか。「てんかん」という言葉自体がもともと持っているものなのでしょうか。
 私はそれは作者と読者の共同作業によって達成されるものだと考えています。そもそも「読者にとっての他者性」というようなものが、言葉そのものに付随しているはずがありません。自分のことを指し示すために用いることも第三者のことを指し示すためにも使われるからです。
 「無人警察」の場合も、「てんかん」の「他者性」はおおまかにいって二種類のレトリックによって読者に対して仕掛けられています。まず一つは「病院へ収容される」というような表現や他の「悪いこと」と併記されることによってマイナスイメージで語られていること、そしてもう1つは小説の中で「てんかん」が「わたし」にとっての「他者」として語られることです。この2つは互いに補い合うことによってはじめて「他者性」の構築の仕掛けとして完成します。「わたし」にとって「他者」である「てんかん」は、マイナスイメージを付与されることによって読者にとっても「他者」であることを要請されているのです。
 しかし、作者ができるのは「仕掛け」を作ることだけです。このような仕掛けが読者によって受け入れられ、読者が「てんかん」を「他者」として読む限りにおいて、「てんかん」の「他者性」は完成するのです。仕掛けは必ずしも成功するとは限りません。中には「病院へ収容」のくだりで違和感を感じ、その時点ですでに未来社会をあまり肯定的には受け入れられないような人もいるでしょう。しかし、そのような読者にとってはこの小説はあまり面白くないはずです。すなわち、この仕掛けは「無人警察」という小説にとって生命線とも言えるものです。これまで「無人警察」が一定の支持と評価を受けてきたとするなら、この仕掛けも成功してきたのだと考えて良いでしょう。
 これまで明らかにしてきた「無人警察」における「てんかん」表現の位置づけは、差別表現一般に拡張できるものだと私は考えています。すなわち、「無人警察」はかなり典型的な「差別表現」であるということです。いや、むしろ典型的な「差別表現」「であった」と言った方が正確かもしれません。これまでは成功してきたと考えられる作者の仕掛けがこれからも通用し続けるとは限らないからです。もし、ほとんどの読者が「病院へ収容される」という部分で違和感を感じてしまうようであれば、この小説は「差別表現」であるというよりも、小説として失敗作であると言う方がふさわしいと思うからです。

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