第10回講義の感想と質問

  1. 差別は、「差別する側」と「差別される側」の二者関係としてしか捉えていなかった。しかし、今日、「共犯者」を間に入れた三者関係の話を聞いて、「差別する側」は何故意識が薄いのか、また、「する側」と「される側」の認識のズレは何故生じるのかが、理解できたように思う。
  2. なるほど!!と思った。三者関係の中で作り出された「普通」は逆に人間を普通でなくてはならないという意識を生んで、さらに差別へという悪循環になってしまっているようだ。逆に生きづらくしているだけなのにと思うが。解決方法はあるのでしょうか。
  3. 「普通」という考え方は、私は以前から気に入らなかった。それは普通でないのはイケナイ、というニュアンスを含んでいるからだ。「イケナイ」という根拠がない。
  4. 「普通」の作成、という話を聞いて、差別というのからは少し離れるが、言葉遣いや服装などの流行に、若者達が飛び乗るときに使う、「みんながそれだから」という言葉を連想した。不特定多数の「みんな」で、ひとつのグループをつくっていこうとしていくように見えるあの様子は、ある意味で今回の『普通の作成』という話に関連するのかもしれない。
  5. 結局、差別者は被差別者予備軍にすぎず、集団の目を「あちら」に向け、自分は「こちら」に取り込まれるため、あわよくば取り込むために、いわば「同類」を踏み台として絶対多数の構成者となってゆくのではないか。
  6. (三者関係)「共犯者」は実際に被差別者を(偏見?)異化・排除するのですか? また被差別者は「共犯者」を差別者として見なす可能性はあるのですか?
  7. 差別に関る社会的カテゴリーは三者関係を考えた方が理解しやすく、三者関係においても同化・異化があり、そしてそれが同時に起こっていることは興味深いが、同化の力と異化の力は比例して大きくなることは疑問に思った。
  8. 教育において「いじめ」が問題となるとき、まず「いじめる側」の問題が取り上げられます。次に「いじめられる側」の問題?が取り上げられます(この場合問題という言葉は不適切かもしれませんが)。今までであればこの二者関係の中で「いじめ」が語られてきましたが、現在、この二者の他に「傍観者」という第三者の存在が問題になってきています。「いじめ」があっても見て見ぬふりをする。いじめを止めようと思っても次に自分がターゲットになることを恐れて止められない。現代のいじめは今日いじめていた子が明日はいじめられているという状況であり、それが「傍観者」を生む一因になっているのではないかと言われています。この「傍観者」という存在はカテゴリー的に言うと「共犯者」と同類なのかなと思いました。
  9. 三者関係というのは話が具体的で分かりやすかったです。
  10. 差別することで仲間と同化し、組織化され、アイデンティティを確立していくのだろうか。人は決定を他人にゆだねたがり、孤独から逃避するためイケニエを作るのだろうか。
  11. 「障害者」を識別することによって「健全者」を特定することができるとあったけれど、我々は自分よりも何か下の存在を作らないと自分という人間を確かめられないのだと思いました。
  12. 三者関係における、他者化と「普通」の生成による差別は、気付かないで自分もしていたことがあったように思った。

戻る