1: 一般に「諸潮流」でなく、「諸パラダイム」として表記されることが多いが、本論では社会学におけるパラダイムの成立を否定している(V章2節)ため、「潮流」(富永[1986:57])を採った。
2: Luhmann[1983=1992:G-IH]、序文で同様の指摘がなされている。
3: 概ね1930年頃の着想と推定される(橋爪[1985:6])
4: この部分は、土方[1990:4-5]に依った。
5: ある体系を数学的に定義し、その系の内部における「決定不可能性」を操作的に扱う方法。
6: 近年の量子力学の分野からは、この前提と相容れない多くのアウトプットがある。
7: 例えば電子などの非常に小さな粒子を観察する場合、観察行為によって対象に無視できないくらい大きな影響を与えてしまう。不確定性原理、相補性原理はいずれもこの事態を理論的に説明するものである。
8: 「円に任意の弦を引くとき、その長さが内接正三角形の一辺より長くなる確率を求めよ。」という問いに対してそれぞれ、a.円の中心を通る線分、b.円の周、c.接線、d.円と一ヶ所で接し、円を取り囲む任意の閉曲線、を「同等」として仮定した場合に、それぞれ、a.1/2、b.1/3、c.0、d.不定、という異なる解が存在してしまう。これはそれぞれの答えが、「何を同等として扱うか」という仮定を異にするためである。
9: ハーバーマスが最初から批判理論を目指している以上、当然のことなのだが。
10: この章で述べるパラダイム理解は、この理解が唯一正しいものである、ということを意味するものではない。例えば、遥かに相対主義を進めた側から、パラダイム相互の完全な共約不可能性を主張する理解もあるのは事実である。しかし社会学においてこの立場の理解が流通しているとしたら、パラダイムの旗印の基により高い「真性」を主張する議論はあり得ない筈である。共約不可能だとしたら、それらはただ単に異なるものとしてそこにありさえすればそれで良いからである。従って本章においては社会学内部に流通していると考えられるパラダイム理解のひとつのヴァージョンを提示している。
11: 前章参照。概念には、それを一義的に決定出来るような「定義」は存在しない。
12: この節で物理学に言及している部分は主に、Pauli[1961=1975]に依った。ただし議論の簡略のため、大幅に要約している。
13: ルーマンは、システム理論の発展に対して控えめな表現ながら、「おそらくクーンの述べた意味での「科学革命」さえも生じていることが明らかである。」(Luhmann[1984=1993:序章])と述べているが、この点についてはとりあえず保留にしておく。この言及は社会学というよりも、より学際的な意味でのシステム理論に対するものであり、本論の論旨とは直接は関係ない。
14: Habermas,山口[1980],長岡[1981]による批判を「彼は一体何を記述しているのか?」とするのはあまりにも行きすぎた要約であるが、いづれの批判も、ルーマン理論自身の制約による、ある点以上への遡行不可能性を指摘したものとして要約することができると思われる。従ってこれらの見解を、ルーマンの記述内容の生産性に対する懐疑として捉え、このように要約した。
15: ハーバーマスのイデオロギー批判などはその最たるものであり、この点に対してはルーマンもたびたび批判している。
16: 例えばLuhmann[1984=1993]、日本語版への序文、序章、第一章(特にp24-26)、及び第五章等
17: ルーマンはこの「システムと環境の差異」を、複雑性の落差にみようとしている節がある(Luhmann[1984=1993:第五章])。この点に対しては河本[1995:226,253]も批判している。今後の我々の「オートポイエーシス・システム理論ゲーム」に開かれている主題のひとつであろう。
18: 例えばマトゥラーナとヴァレラは、作動の継続の必要条件から「構成関係」、「特定関係」、「秩序関係」という軸というx-y-z座標を設定して、オートポイエーシス・システムを三次元空間に投影する試みを行っているが、その有効性はいまのところ未知数である。河本[1995:191-192]参照。
19: この部分は、河本[1995:173]にある、「神経」の例を「思考」に適用した。
20: ここでは単純に「影響を受ける」という程度の表現にとどめたが、実際、オートポイエーシス・システム理論は、複数のシステムの関係の記述において、今のところあまりうまくいっていないようである。そのため例えば、「ルーマンのシステム理論は、各機能システムの統合の問題を扱えない」という批判が登場することになる(馬場[1998]より引用)。この点は河本も「複数のシステムの関係を考えるさい、オートポイエーシスは、ただちに困難に直面する。」(河本[1995:247])と指摘する。この状況に対して「相互浸透」(Luhmann[1983=1992:331-403],河本[1995:252-259])概念は有効であるが、一方でこの概念は不十分であるとし、「相互隠蔽」(河本[1995:259])なるものも提案されている。ともあれこのシステム間の関係の記述に関してはオートポイエーシス・システム理論の今後の課題であろう。
21: それでもなお、「討議」による妥当性の獲得は可能だろうか?
22: このような試みは既にオートポイエーシス・システム構築の試みのなかで、マトゥラーナ等によって多少為されているものの、まだまだ十分とはいえないようである。
23: 河本はこの難解さに対して、「事柄を一つ一つ明確にしていくのではなく、イメージにイメージを重ね描いていく類推法的な議論の仕方」と、「事柄や事実を断片的に一揃いそれえておき、モザイク風につなぎ合わせていく議論の仕方」の各点を指摘しつつも、最大の問題を、「オートポイエーシスの理論の成熟度の低いこと」としている。河本[1995:150-151]参照。
24: オートポイエーシス・システムの定義の中には、位相空間論に言及しているものもあるが、ルーマンはこの点に対して多くを述べていないため、本論においてはあまり言及していない。又、河本は、オートポイエーシス・システムを、位相空間に先だって存在するものとして記述しているが、筆者はこの点には疑問を抱いている。寧ろ、オートポイエーシス・システムは、オートポイエーシス・システム以前の何かの、「三次元+時間」という空間における固有の発現形式であると考えられるからである。ともあれこの問題は、今後の研究に委ねられるところである。

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