IV 結び

 さて、新しい学問的探求方法の魅力について確認してきた。しかし実際は、本論で取り上げたルーマンのシステム理論及び社会構築主義以外にも、それぞれに異なる形で「魅力」は息づいている。そしてその魅力的な営みは当面、正に、「従来の学問」に対する挑戦である。ここで、最も挑戦的な言明の一つとして西阪[1997:34]を引用しておこう。

 どうすればパラドックスにおちいることなく社会秩序に、しかも社会の成員自身にとっての社会秩序に近づくことができるのか。わたしがここで提案したいのは、説明すること、これを一切放棄しようということである。社会秩序、すなわち相互行為の秩序を背後から支える(隠れた)条件・根拠・原因(たとえば文化的あるいは「内面」的な条件)を求めることをやめて、むしろ、相互行為の秩序の内部にあくまでもとどまりつづけること、これを提案したい。

 この言明は正に、従来の物理学的な(「ハード」な)学問観からの決定的な訣別である。その探求方法の細目は、既に概観してきたシステム論や社会構築主義とは異なるものの、ある種の「決定」を放棄する試み、そして視点を「外」から「中」へと転換する試みは正に評価されるべきものである。既に明らかなように、社会学を含む「ソフトな学問」においては、「恣意」を「真理」として理論に介入させない限り「決定」を導くことなど出来ないのだから。
 しかし一方で、我々の「中」での営みは常に何かを「決定」し、次なるコミュニケーションを接続し続ける。システム論、社会構築主義がいずれも、それぞれに異なった方法でこの「決定」をめぐるプロセスを記述しようとしていることは既に明らかになった。本章では最後に、両者と同様の問題意識から、異なった方法によってこのプロセスを記述するための、もうひとつの可能性を提示することにする。
 我々のコミュニケーションは、日常的、学問的の如何に関わらず、時として非常に奇妙な様相を呈する。この状況は特に議論を行う場合に顕著である。議論を行う複数の論点が、結局のところ最終的には何らかの「決定不可能性」に基づいており、従ってその最も基底的な部分には「信じる」という表象が隠れているからである。「信じる」という出来事は、何らかの決定不可能な選択肢のいずれかを無前提に受け入れることを意味する。従って議論は必ず、その最終的な局面においては、単にどちらを信じるか、の問題でしかない(注21)。にもかかわらず、議論が行われるとしたらそれは一体どういう事態であろうか。信じる、という事態が「決定不可能性」に基づいている以上、少なくともいまの段階では、その選択肢はどれも等価である、というしかない。ならばどれを信じていようとそれはそれでいい筈ではないか。
 しかし一般的にはこのような状況を我々は是としないようである。ここにひとつの圧力のようなものを見出すことが出来る。この力を最も広義に定義するならば、「並立忌避性」とでもいえばよいだろうか。複数の選択肢があり、それらがいずれも等価であるにもかかわらず、どれかひとつでなけらばならない。ここに、我々にとってきわめて本質的な問題を見出すことが出来るように思われる。もしも「決定不可能性」を、決定不可能なままに放置しておくことを是とするならば、コミュニケーションはこれ以上続かなくなるであろうし、又、社会問題なるものも存在し得ないと思われるからである。
 ここにもうひとつの研究の可能性がある。この問題意識は「並立忌避性」が発生する場を問うことによって導かれる(注22)。ここで何よりも先ず検討を施す必要があるのは、我々の言語そのものと相補的な関係をもって存在する空間のそのものである。例えばルーマンのシステム理論はしばしば難解である。この難解であるという事態は勿論、非常に多くの説明が考えられる(注23)。しかしその中のひとつとして、「三次元+時間」という我々の空間の構成による限定を指摘することができる。言い換えるならば、ルーマンがシステム理論をもって語ろうとしている姿を、この空間内で立体模型としてつくり出すことが出来ない、ということである。河本の「オートポイエーシス・システムを直接空間内に表象してはいけない(河本[1995:173])」という言明は同時に、「直接空間内に表象することが出来ない」ということも意味しているのである。これはクラインの壺を実際に製造することが出来ない状況ときわめて類似している。例えば「閉じている故に開いている」という模型を制作することが出来るだろうか。或いは、システムが相互浸透するとき、全く同じ場所に異なったものが同時に存在している状況をどのように表現することが出来るだろうか。椅子取りゲームで、ひとつの椅子に何人もの人が腰掛けることは出来ないのと同様にである。
 この状況を河本[1995]は、ルーマンと共に構築を目指しているオート・ポイエーシス理論が位相空間における出来事を記述しているものとして定式化する(注24)。位相空間論は、我々が存在するこの空間の形式を相対化し、他でも有り得る空間の構成を考察することを通して、「三次元+時間」という空間構成をひとつの特別な場合として記述しうる理論である。そして実際により高次元の空間においてであれば、ルーマンのシステム理論の模型を製造することが出来るのである。この理論に従えば、コミュニケーションの形式のどの属性がこの空間に特有のものであり、どの属性がより普遍的なものであるかをより明らかに示すことが出来る。この研究を通して、「決定不可能性」に対して新たな視点を提示することが可能になるだろう。

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