III 記述における自身の位置

 一般に、学問的な記述を一般的な言説に対して特権化する動きは極めて根強いものがある。しかし勿論、あからさまに優位性を主張するような言明は滅多になされない。ある程度注意深くこのような言明を避けるからである。しかし実際のところ、形を変えてこの優位性を主張する意識は社会理論の随所に密輸入されている。本章で確認するのはこの事態である。

1 真偽判定

 そもそも「学問」とは一体何か。ルーマンによれば、「真/偽」という主導差異によって導かれるひとつのシステムである。従って学システムの内部においては、この「真/偽」を決定するための細目が構成され、再生産ることになる。しかしここで重要なのは、「真/偽」という差異があくまで学問的に決定されるに過ぎない、という点である。学問的に「真」である出来事が法的に「不法」であったり、又一般的に「悪」であったりする可能性があることは改めていうまでもない。従って学問的な「真」は、ただ単に、学問の内部でのみ「真」であり、それ以上でもそれ以下でもないのである。にも関わらず一般的言説に対して学問と同じ俎上で真偽を判定しようとしたり、あるいは社会学内部の論争で自理論の優位性を主張するするのは、サッカーゲームにおいて野球の審判が三振を宣告するのと同じくらい無意味な出来事であるはずである。
 ここに、自理論の優位性を主張している現場がある。学としての自理論の相対性と、「決定不可能性」を標榜する多くの社会理論がしかし、何か「絶対的なるもの」を密かに導入し、この「絶対的なるもの」を根拠に、自己の「真性」或いは「客観性」を主張することになる。このことはハーバーマスにおいても起こっている。ハーバーマスが盛んに「危機」を口にするとき、何か彼にとっての理想的な社会のようなものが根底に密かに導入されているからである(注9)。しかしこれは、誰にとっての「理想」なのか?これは結果として、自身の「真性」という基準に基づく優位性を、「一般」、或いは他の諸理論に対して押しつけていることになるのではないか。この点は、ルーマンとの論争において決定的に同意に至らなかったひとつの重要な要素となっている。そしてこの「良き社会」という表象はハーバーマスに限らず、多くの社会理論の根底に密かに息づいている。これは例えば、「現実の世界を理解し制御するために」(Blumer[1969=1991:219-220])、「〈社会学の客観的任務は〉当該社会の意志決定・決断を確実ならしめること」(鈴木[1990:W])、「社会改革のパッション」(徳岡[1997:91])というような、それぞれに異なった表現を用いつつも、結局のところ、「学問」の、「一般」に対するより高い「客観性」を主張するのである。そしてその主張は勿論、先に挙げた「三振判定」と全く同種のものである。次節ではもうひとつ、優位性が密輸入される現場を確認しよう。

2 術語使用の陥穽―「パラダイム」概念の誤用(注10)

 社会学に於ける「諸パラダイムの乱立」を指摘する立場がある。しかし実際、社会学諸理論の関係をパラダイムとして記述してよいのだろうか。この問題は単なる用語の運用の問題以上のものである。何故ならパラダイムという用語の誤った利用は強力な恣意の隠蔽装置として働くからである。しかし勿論、何らかの用語があらゆる場面において全く同一の「正しい」定義においてのみ用いられるべきである、と主張することは出来ない(注11)。実際に、「パラダイム」という用語には幾つもの理解、解釈、使用が存在し、時には「パースペクティヴ」と同義の意味で用いられることもある。従って本章においてこの用語の「誤用」を示すのは、「正しく」用いるべきである、ということを主張するものではない。そうではなくて、この種の用語が殆ど流行語のように用いられるとき、安全装置、或いは避難所のように利用されてしまっている側面を強調するものである。もう少し砕いていうならば、ある用語の字面の格好良さが、その裏側で起こっている出来事を隠蔽し、なんだか分かったような気分にさせてしまっている状況を指摘するものである。
 例えば「より良き社会の探求」という広範に普及している社会学的問題意識が陥っている陥穽については既にみてきた。ここでこのような価値基準の正当性を確保するために「パラダイム」という用語が登場する。この用語は一方で自己の立場を相対化し、十分に自覚的に恣意を導入していることを主張しつつ、一方で自己の立場の優位性を主張することを可能にする概念だからである。
 ともあれ先ずは、多少遠回りになるものの物理学の歴史をおおまかに概観することからはじめたい(注12)。「パラダイム」という用語が物理学的学問観における「進歩」の概念と極めて密接に結びついているからである。
 物理学の「進歩」を最も大まかに捉えるならば、「ニュートン力学」→「相対性理論」→「量子力学」という図式が容易に導かれる。この図式をパラダイムの観点から捉え直すならばそれぞれ、「c=∞,h=0」→「c=有限,h=0」→「c=有限,h=有限」という図式に置き換えることが出来る。ここではc=光速度、h=プランク定数として定義されている。しかしそれぞれの記号の意味が重要なのではない。ここでとりあえず記号の意味を無視し、矢印に従って数値の変化のみをみていくと、cは、∞→有限→有限という変化を辿り、hは、0→0→有限という変化を辿っている。このことが重要である。ここでは各矢印の順にパラダイム転換が起こっている。何故なら相対性理論における「c=有限」を「c=∞」に近似すればニュートン力学が導かれ、量子力学における「h=有限」を「h=0」に近似すれば相対性理論が導かれるからである。
 別の表現で言い換えよう。パラダイムは弁証法的な過程を辿る。従ってパラダイムが転換したとき、直ちに古いパラダイムは誤りとして捨て去られるのではない。そうではなくて、古いパラダイムは新しいパラダイムの特別な場合として完全に統合されるのである。これが「パラダイム」という用語が示している姿である。或いはパラダイムの転換は、それまで所与とされていた変数の発見によって導かれる、ということも出来る。
 しかしこれだけの説明ではパラダイムのもうひとつの重要な側面が看過ごされることになる。物理学内部においてパラダイムの転換が起こるためには一方で、「物理学」という強力な共通の素地が必要となっているからである。鳥類の種について説明するための理論から量子力学へ即座にパラダイムの転換が起こることはありそうにない。つまりパラダイムが転換するとき、それを転換に導いた何かひとつの(c或いはhのような)変数以外の変数は全てそのまま保存されなければならないのである。従って科学哲学が、物理学の新たなパラダイム転換のための変数を提案することはあり得ても、科学哲学自身が物理学に対する新たな、より進歩したパラダイムとなり得ることはない。これらは異なるパラダイムではなく、異なる「ゲーム」である。
 言い換えよう。パラダイムは、ゲーム相互の関係の特別な場合を指し示す概念である。ゲームの営みが、当のゲームそのもののルールを揺るがし、ルールを変更することを余儀なくさせるとき、パラダイムの転換が起こる。しかしこの衝撃によってゲームのルールが全面的に書き換えられてしまうとしたら、それは異なるゲームになる。この状況の中で、他の全てのルールはそのまま、たったひとつのルールのみが書き換えらるとき、パラダイムの転換が起こる。従ってパラダイムは単体でそこに存在するものではない。パラダイムは常に転換とセットになった概念であり、転換前のものと後のものとの関係を指し示す用語である。
 以上がパラダイムの厳密な意味である。そしてまたこの用語がかくも厳密な、従ってきわめて限定された概念である故に、強力な概念用具として用いるに足るのである。この意味に於いて社会学諸理論にパラダイムの関係を見出すことが出来るだろうか。何よりも先ず、社会学を社会学たらしめるような強力な共通の方法的素地は今のところ存在していない。更に社会学諸理論はルールを揺るがすような状況に対して大幅にルールを書き換えることで対処してきたし、又、社会学的ルールと一般的な言説は全く異なるルールに基づいている。社会学内部にパラダイム関係が成立していないことはここに明らかである(注13)。このことは、この概念の字面のみをいたずらに用いることが危険であることを示している。これらのことを考慮するならば、例えば徳永が提案するような「パラダイムのソフトな用法」(徳永[1990:169])なるものが成立し得ないことを示す。この「ソフトな用法」こそが、恣意の隠蔽装置としての誤用の最たるものだからである。
 多少長い論考になったので整理しておこう。パラダイムという用語はある理論に対して、その理論の説明力に基づく「進歩」の概念により、異なる理論間の関係に優劣という観念を与える。従って社会学内部にパラダイム関係が成立していない以上、このパラダイムの優劣の部分を利用して自己の立場の優位性を主張することは出来ない。にもかかわらずこのような主張を行うとき、パラダイムは恣意の隠蔽装置として働くことになるのである。

3 ゲーム

 以上で確認したように、多くの社会理論は未だに、自己の優位性を何らかの形で主張している。これは正に、「決定不可能性」に対する無自覚の所作である。学も又、一般的言説と同様の「決定不可能性」に基づく以上、優劣を「決定」することなど最初から不可能なのである。誰にも社会を客観的に「良く」することなど出来ないし、又同様に「悪く」することも出来ない。前章で確認したとおり、そもそも「善悪」というカテゴリー自身が同定不可能だからである。ここでもう一度「ゲーム」について確認する必要がある。「外」から共に「中」で共にある営みを行うとき、「善悪」というカテゴリー自身が既に、「ゲーム」の営みに過ぎないのである。従って当然、社会理論と一般的言説の間に優劣など存在しない。学問も日常的なコミュニケーションもただ単に異なる「ゲーム」に過ぎないのだから。ではこのような立場から学問は一体何を為すことが出来るのだろうか。ルーマンのシステム理論についてみてみよう。
 ルーマンのシステム理論は自己の足場としての「システム」に対して、それがあくまで恣意の産物でしかないことに対する深い自覚をもっている。従ってルーマンは自理論自身については何も決定しない。自己の立場に関してなんら「正しさ」を主張せず、ただ単に記述する。そしてルーマンの記述は、「それ自身、システムの更なる要素の再生産としてコミュニケーションに開かれている」ものとして位置付けられる。自身の位置についてはなんら決定出来ないのである。
 このようなルーマンの立場は、「彼は一体何を記述しているのか?」(Habermas,山口[1980],長岡[1981](注14))という、ルーマン理論の生産性に対する懐疑を生み出すことになる。しかしこれらの批判は、学問的な記述のあるべき姿、という表象を無自覚に前提としているのではないか。学問はそもそも、何かを決定、或いは予測しなければならないのか?或いは、学問は普遍化要求を満たさなくてはならないのか?これらの要求も又、ある立場における記述者の位置を確保するために恣意的に導入されたものでしかなかった筈ではないか。この無自覚は、前章で引用した「良き社会」の誤謬と軌を一にしている。
 従ってルーマンがシステム理論として語る膨大な記述は、システム理論そのものの正当性を確保するためのものではない。そうではなくて、システム理論というひとつの「ゲーム」の内部で「真/偽」を介したコミュニケーションを行ってゆくための、適切な複合性を作り上げるための試みである。これは、「……先ずは社会学自身の内部に適切な複合性を育てあげなければならない。」(Luhmann[1975=1986:D])とする自身の主張を体現していくための実践である。この「適切な複合性」は、既に述べたような、理論の冗長性による、最もらしい旗印を掲げた恣意の介入を注意深く避けるために不可欠なものである。従ってルーマンのシステム理論自身を批判(注15)するとしたら、それは既に最初の時点で問題を含んでいる。ルーマン自身、システム理論そのものの正当性を主張しないからである。ルーマンが何らかの社会理論を批判するとしたらそれは、システム理論を正しいものとして対置するためではなく、当該理論が大きな冗長性を抱えたままそのことに無自覚である点に対してなのである。従ってルーマンについて議論を行うなら、ルーマンと共にシステム理論ゲームを営む中で、真偽値の判定を介してでなければならない。そしてこのような試みだけが、システム理論ゲーム自身の「適切な複合性」を育てていくという意味において生産的である。実際オートポイエーシス・システム・ゲームはまだまだ構築途中の理論であり、我々の更なるゲームの営みにこそ、開かれているのである (河本[1995:150-152]) 。ここでも又、共に営むという意味で「外」から「中」への視点の転換が見て取れる。
 この視点の転換は又、オートポイエーシス・システム理論において最も多くの誤解を招いてきた、「入力も出力もない」という言明を理解可能なものにする。そもそも入力や出力という観察結果は、何らかの境界線によってシステムを恣意的に同定した観察者からのものでしかないからである。これに対してシステムの内部から同じ出来事を観察すると、「(「入力」なるものはシステムによって拾い上げられるのを待って外部に存在するものではなく、)選択として、他のものと比較されて(つまり、他に生起しうるであろうことと比較されて)、システム自身によって生産される」(Luhmann[1990=1996:11])という観察結果が得られることになる。「外部」という表象そのものが、システムの内的な産物なのである。しかしこのようなシステム観に対して当然、「単なる唯我論に過ぎないのではないか。」という批判が待ち受けている場合がある。しかしオートポイエーシス・システム理論は唯我論とは異なる。何故ならオートポイエーシス・システム理論は、システムの産出的作動そのものに注目することで複数のシステムを見出し、その視点を自在にそれぞれのシステムに移すことによって、その都度、そのシステムからの固有の世界を記述することが出来るからである。これに対して唯我論は常に、閉じた単一の単位体からのみ記述を行う。
 しかしここで、ただ恣意的にどこにでもオートポイエーシス・システムを見出すことが出来るとしたら、それは構造主義となんらかわるところがない。「観察者は、何かあるものを勝手にシステムであると言うわけにはいかない。というのも、そうするなら、システム概念はその意味を失ってしまう」(Luhmann[1984=1993:A])からである。そこで次に、オートポイエーシス・システムについて概観しておこう。

4 オートポイエーシス・システム

 ルーマンはそのシステム理論について、「システムと環境の差異」(Differenz von System und Umwelt)を用いて世界を観察し、記述する方法である、と随所で述べている(注16)。しかしこの試みは、本論において既に述べた境界の同定不可能性と直ちに矛盾するようにみえる。それはただ単に「境界」という言葉を「システムと環境の差異」という言葉に言い換えたに過ぎないのではないか(注17)。このような矛盾に陥らないためにも、ここでオートポイエーシス・システムについて確認しなくてはならない。どのようにしてオートポイエーシス・システムを同定することが出来、又どのようにして「差異」を見出すことが出来るのだろうか。
 ここでもう一度、「オートポイエーシス・システムを直接空間内に表象してはいけない(河本[1995:173])」という言明について考えなければならないだろう。オートポイエーシス・システムは、目に見えないのである。例えば「コミュニケーション」からなるシステム(社会システム)、或いは「思考」からなるシステム(心的システム)を同定しようとしたとき、では我々は、これらのシステムの「形」を空間に表象することが如何にして可能だろうか(注18)?例えば「思考」を空間内に表象しようとしたらそれは、無限に広がる意識として限りなく拡散してしまうか、或いは頭(胸?)のどこかにカプセル状に閉じこめられてしまうことになる(注19)。それは例えばベルナール対流における六角形やロール状の構造(Haken[1983:5-6,他])或いは、人間の細胞、というような「形」をイメージして理解するシステムではないのである。ここで、システムの姿として思い描くものを大幅に変更しなくてはならない。
 オートポイエーシス・システムを理解するとき、それは一貫してただ、産出関係のみを観察する。例えば「コミュニケーション」を観察するとき、ただ「コミュニケーション」のみを観察するのである。ここに「境界」の意味が明らかになる。即ち、「コミュニケーション」を観察するとき、「コミュニケーション」の産出関係のみが「システム」であり、それ以外の一切のものが、「環境」に区分されことになるのである。従って例えば、「眼前に咲く一輪の美しい赤い薔薇の花」、或いは「かけがえのない主体としての人間」、等はいずれも、「システム」ではない。環境である。これらの美しさ、かけがえのなさが或いは「コミュニケーション」に何らかの影響を与えることはあるかもしれない(注20)。しかしにも関わらず、「コミュニケーション」を新たに生産することが出来るのは「コミュニケーション」だけであり、花や人間ではないのである。このようなシステム観は(或いは当然の結果として)「人間を軽視している」「冷酷なテクノクラート」という批判(例えばHabermas[1971])を数多く産み出してきた。しかし今更、このような「主体概念」が無自覚な恣意の産物であることを確認する必要もないだろう。
 さて一方で、では如何にして「コミュニケーション」の産出関係をオートポイエーシス・システムとして同定しうるのかを確認する必要があるだろう。我々は例えば、自動車工場をオートポイエーシス・システムだという訳にはいかない。自動車工場が次々に自動車を再生産するにも関わらず、である。ここで重要なのは、「コミュニケーション」の産出関係の完全な閉鎖性である。「コミュニケーション」は、「コミュニケーション」以外の如何なるものも生産しない。そして更に、「コミュニケーション」は「コミュニケーション」以外の如何なるものによっても生産されない。「コミュニケーション」はただ、「コミュニケーション」のみを生産するという意味で完全に閉じているのである。
 例えば「コミュニケーション」が「滑走路の建設の決定」という「コミュニケーション」を生産したとしても、滑走路を産み出すのはあくまで「コミュニケーション」ではない。実際の滑走路の建設如何はあくまで、「システム」の環境に過ぎず、「システム」の観察の対象ではない。更に滑走路が実際に作られたとしても、滑走路自身は「コミュニケーション」ではない(例えば、河本[1995:215])。このことが正に、ルーマンのいう、「閉じている故に開いている」という表現の意味するところである。
 このようにしてオートポイエーシス・システムを同定する方法、従って「システムと環境の差異」を見出す方法が明らかになった。我々は何か、一貫して完全に閉じた産出関連を見出し、これをオートポイエーシス・システムとして同定し、同時にその産出関連以外のすべてのものを環境として同定することで、「差異」を語ることが出来るのである。ここで我々は改めて、社会構築主義とルーマンのシステム理論が非常に近い位置にいることに驚かねばならない。社会構築主義も又、一貫して(特に「クレイム申し立て」という)「コミュニケーション」を観察するからである。更に、社会構築主義にとっては、これらの「コミュニケーション」を介して実際に何が決定として実行されるかどうかということそのものは全く関係ないからである。具体的な「決定」そのものはあくまで、社会構築主義「ゲーム」の外部の出来事である。そして正にこの、観察の一貫性こそが、「新しい学問」の魅力である。そしてこの「魅力」は同時に、この一貫性故に、多くの恣意の無自覚な導入を注意深く避けることが出来るのである。更にその結果として、彼らが、我々の直感と極めて強く結びついている恣意(例えば「良き社会」或いは「かけがえのない主体としての人間」)を「避ける」とき、「従来の学問」からの強烈な批判に直面することになるのである。

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