地球環境問題とは

(1) 「地球環境問題」とは、一般に、次の条件のいずれか、又はその両方を満たす環境問題とされている。

人の活動による地球の全体又はその広範な部分の環境に影響を及ぼす問題

開発途上にある海外の地域の環境又は国際的に高い価値があると認められる環境に影響を及ぼす問題

(2) 現在、(1)の観点から地球環境問題とされているものは、次のとおりである。

・地球の温暖化 ・オゾン層の破壊 ・生物多様性の減少・海洋環境の劣化

・森林(特に熱帯林)の減少、劣化 ・有害廃棄物の越境移動 ・酸性雨 ・砂漠化

・開発途上国の環境問題  ・国際的に価値の高い環境の保護

 上記したものは、環境庁のHPで「地球環境問題」として挙げられているものである。

 ひとことに「環境問題」と言っても、社会では多種多様なものをさす。古くはメソポタミヤ文明期に起こった過度の灌漑による耕地の砂漠化。産業革命期には、都市に人口が集中し、その活動において発生した汚水やばい煙が問題化した。最近では日本の高度成長期において起こった富山のイタイイタイ病 熊本水俣市 新潟市の水俣病などの水質汚濁。三重県四日市市に起こった大期汚染などが記憶に新しい。しかし、現代における「環境問題」という言葉にはそれまでのそれとは違った「地球」という存在を視野に入れた大きな規模での問題をさすようになってきている。

 これらの問題に対して各国政府や産業界、学者たちはさまざまな意見をし、さまざまな話し合いが行われてきた。

 1972年は、環境問題が国際的な場において認識され始めた。この年、世界の科学者、経済学者などが組織するローマクラブが、「成長の限界」というレポートを出した。人口増加や環境悪化などが続けば、今後100年以内に地球上の成長は限界に達する、という警鐘を鳴らした。このレポートは、「成長から世界的な均衡へ」という大きな方向転換の必要性を示したもので、地球環境問題を論じる原点と言えるもであった。

 この年の6月、スウェーデンのストックホルムで、国連人間環境会議が開催された。これは、国連が環境問題全般を対象として行った、初めての大規模な国際会議であった。

 会議では、健全な環境で生活する基本的権利と環境を保全する責任などの原則を掲げた「人間環境宣言」が採択された。また、この会議を契機として、国連の中で環境問題を専門的に扱うための機関として、国連環境計画(UNEP)が設立された。

 1982年には、国連人間環境会議の10周年を記念して、UNEP管理理事会特別総会がナイロビで開催された。この時、日本政府代表を務めた原文兵衛環境庁長官の提案により、国連に「環境と開発に関する世界委員会(WCED)」が設置された。

 ノルウェーのブルントラント首相が委員長を務めたこの会議が、「我ら共有の未来(Our Common Future)」という報告書を出した。この中で、「持続可能な開発(Sustainable Development)」という新たな概念が提唱された。これは、今日の環境問題を考える上での最も重要なキーワードとなっている。

 ひとことに「持続可能な開発」と言っても様々な問題が浮かび上がってくる。現在エネルギー源として発電、動力、暖気などで多く使われている石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料の枯渇問題。毎年その莫大な量と、環境の汚染で問題となっている廃棄物の問題。熱帯雨林における極度な開発や、灌漑によってもたらされる森林の減少及び砂漠化問題。最近その発見で大きく世間を揺るがせた環境ホルモンの存在等。どれも今後この地球で人間はおろか全生物が存在していくにおいて後回しにはできない問題である。

 石油などの化石燃料についてはその代替のエネルギーの開発が熱心であるが、発電の分野だけとっても太陽エネルギーを利用とした光電池や風力を利用した発電などがあるが、光電池で今の日本の総発電量を賄おうとすると、日本の国土面積に匹敵する面積の確保が必要となり、とても元が取れる効果的な代替エネルギーの開発はできていないのが現状である。そしてその開発においても結局は化石燃料を大量に必要とするものであり、結局は本当の意味で化石燃料に替わるものを創り出せていないのが現状である。

 廃棄物の問題においては科学の分野だけでなく、一般市民のレベルにまでわたる問題となっている。もちろん工場や研究室から出される産業廃棄物もそうであるが、本当に必要とされている廃棄物問題の解決の場は家庭から出されるゴミなのである。現在家庭から出されるゴミの問題は、分別し、リサイクルするという方向で進んできてはいるが、その実行割合も不充分である。まして先進各国でまだまだ不充分なそれらの活動は、発展途上の国ではそのリサイクル施設はおろか、処理施設の問題もあるだろう。

 しかし私はゴミの分別以前に、ゴミの出る商品、製品を作らない事と、買わない事が大事なのではないかと思う。私は時々、小売店においてある商品の包装の多さと、その材質の複雑さに考えさせられた事がある。よくあるレトルト食品などは、レトルトのパックの上に紙の箱で包装してある。衛生的にはその紙の箱は不必要に思われる。広告的な要素があるのかと思えば、それも中のレトルトに書いてあるものと大きな違いはない。最も広告の為にそんな箱は不必要ではないのか?とも考えさせられる。

特に日本でよく見られるのだが、野菜や肉製品などは必ずトレイとラップで包装されている。恐らくそのような包装がないと日本の消費者が敬遠するのだろうと思うのだが、そんな消費者の意識も今この時代にそこまで必要必要なのだろうか?今こそそのような利己的な概念を、造る側、売る側、買う側が見直す時期にきているのではないかと私は思うのである。造る側もいかにゴミとして出されるという所に配慮した物を作らなければならないし、売る側もそのような配慮のない商品は敬遠すべきである。また一番重要なのは買う側が配慮のない商品は買わないようにする事にあり、その行動は市場の原理によって環境に配慮していない商品を駆逐する事につながるのである。そういった商品の広がりには多少なりとも政府の支援があるのが理想と考える。

 最近自動車の分野において、排気ガスのクリーンな車や燃費の低い車について優遇税制を設け始めた。ごく些細な事かもしれないが、環境に配慮するといったことが何らかの利益のつながるといった考えを浸透させるものだと思われる。このような事は広く採用されるべきである。例えば環境に配慮していると認められた企業、工場には、安く電気を供給する。逆に配慮していないとされれば高く配給される事も必要かもしれない。極端かもしれないが、環境に配慮する事は何らかのデメリットをこうむる事ではなく、メリットのある事なのだという考えを創り出す事が必要なのである。消費者は与えられた生活にピリオドを打ち、いまこそ自分で勝ち取る真の生活を見直さなければならない時なのである。

 砂漠化、森林の現象についても大きな問題となっている。これは地球の温暖化とも関係ないとはいえないものである。伐採や、開発による森林の減少についてはその被害の当事国内にとどまらず、その木を輸入している国にもその問題を考える必要があり、また発展途上の国々に森林を伐採しなければならないような産業構造にした先進諸国にも責任があるのではないか。これは植民地時代からの従属国としての産業構造が、天然の資源を輸入する事でしかその国の産業が成り立たない現在の構造を生み出したものであって、決して森林を伐採している国だけの責任ではないのである。

 また砂漠化や地球の温暖化においては、今後の食糧問題とも深く関係してくるものである。現在地球上に存在する人類は60億にも達するとされている。もちろん地球上には人類以外の生物も存在しているわけであり、それらは必ず何らかの食料、それに属する物を摂取して生きている。しかし砂漠化が進み、耕地の面積が減少する傾向にある今、今後100億にも達すると言われている人類の食料だけを取ってみてもその供給を賄えるかどうかも判らないものである。ただ人口が増えるだけならまだしも、人類の食に対する需要は進む一方であり、このまま肉食などの高カロリー食品の供給を続けられるものではない。このまま需要と供給のバランスが崩れ続けると世界的な食糧難になり、さらに多くの餓死者を生み出す結果になるのである。

 環境ホルモンの問題については更に私としては根の深い問題と考えている。なぜなら、この環境ホルモン問題というのは、これから解決される問題というよりは、もう手遅れになっている問題と言えるからである。一般に環境ホルモンとは、生物の生殖や成長をつかさどるホルモンに類似し、その機能に障害や、撹乱をもたらす化学物質を指し、その存在は今でもその全ては明かとなってはいないのである。逆に言えば、これからもその環境ホルモン物質というのは発見されつづける事を意味しているのである。

 当初からDDTやPCBなどの薬品がエストロゲン様の働きをするとして騒がれつづけていたが、最近プラスチック製品が溶け出し、ビスフェノールAというエストロゲン様の物質が現われるという発見があった。ここまで来ると環境ホルモン物質の暴露は止める事ができない。しかも、これからも環境ホルモン物質がどこから発見されるかもわからないのである。環境ホルモンによる生物への影響は現われ始めており、実際今生存する生命体が本当にこれからも繁殖しつづけられるのかが問題となってくる。少なくとも今始めなくてはならない問題であり、真に生物の生存に係わる問題となってきているのである。