第2章 移動体メディアによるコミュニケーション

第1節 ポケットベルによるコミュニケーション

 ポケットベルはどのように若者に広がっていったのだろうか。中村(1997)によると最初は暴力団によるポケットベルの使用だという。『朝日新聞』(1989825日)によると、暴力団によるポケットベル利用の開始は早く、1970年頃からであるという。1990年代に入ると、ポケットベルは暴力団から「チーマー」と呼ばれる街の不良少年や暴走族のあいだに広がって行った。こうした不良少年への普及が第1段階である。1992年頃になると、ポケットベルは不良少年から女子高校生を中心にした一般の若者に広まり、普及の第2段階をむかえる。若者への普及の第3段階は、1995年以降の一般的普及である。第2段階では一般の若者に広がったといっても、口紅や名刺を持ち歩くような少し進んだ女子高校生や一部の大学生だったが、95年以降は一般の高校生、大学生にも普及する。その理由には、94年末に登場した「かな表示タイプ」のポケットベルの人気がある。これは、たとえば、「11」と入力すると「あ」が表示されるというように、2つの数字の組み合わせで自由に文を送れるものである。
 では、なぜ若者はポケットベルを利用するのか。若者の友人観からポケットベルの利用をみていく。
 近年、若者の人間関係がかつてより希薄化しているのではないか、とよく言われている。たとえば高橋(
1988)は、挨拶したり、談笑したり、あるいは喜びや悲しみをともにすることはあっても、それ以上の深さを持つ関係に展開せず、かりに展開しても、一定の領域に限られる、そのような人間関係が最近若者に顕著に現れていると指摘する。あるいは宮台(1994)は、80年代以降の若者の特徴として、自分のかかえる問題を他人に伝達したり共有したりすることについてはほとんど期待していない点を指摘する。一方、大平(1995)は、近年若者において「やさしさ」の意味が変化してきており、新しい「やさしさ」が現代若者の特徴的なパーソナリティーを表している、という。たとえば、電車で老人に席を譲らないのは、年寄り扱いされたくない老人に配慮した「やさしさ」からだし、両親に深刻な相談をしないのも親に心配をかけたくない「やさしさ」からである。現代若者の「やさしさ」とは、相手の気持ちに立ち入らないようにしながら、なめらかで暖かい関係をつくることなのである。相手に同情したり、一体感を持つのは逆に「ホット」でやさしくないということになる。たとえば大平(1995)は電話と違ってポケットベルだと電源をオフにすることもできるし、気が付かなかったということもできる。気が向いたときにだけ電話を返せばよいので受け手にとって強迫てきなところがないし、呼び出す側にとっても直接電話をして迷惑がられることもないので気が楽である。だからポケットベルは「やさしい」人々にぴったりのメディアである、と述べている。あるいは岩間(1995)は、現代の若者の対人関係は淡白で、人に多くを期待しない傾向がある、としたうえで、彼らがポケットベルを使うのは広く浅い人間関係を維持するためである、と指摘している。これに対して岡田(1997)は、ある何らかのメディアがもともと「やさしい」のではない。メディアの機能によって、「やさしい」使われ方もされるようになるのであると指摘している。また、中村(1997)によると、ポケットベル利用者は言われているように表層的な人間関係をもつ「やさしい」若者ではなく、逆に、むしろ深くて「ホット」な人間関係をもつ若者である傾向があるという。

ポケットベルによるコミュニケーション その特徴的なもの

若者間でのポケットベル利用の面白い現象として、「シカベル」や「ベル友」などがある。

「シカベル」

「シカト・ポケットベル」の省略形。「シカトする」というのは、「無視する」を意味する。ポケットベルにメッセージを受信してもそれを故意に無視するという行為のことである。
 大平も指摘し、松田(
1998)がポケットベルの流行時に行ったインタビュー調査からも、若者間ではポケットベルでメッセージを受信してもそのメッセージを気がつかなかったふりをするなどして故意に無視するという行為が普通におこなわれていた。このポケットベルでメッセージを受信しても故意に無視すること、「シカベル」することで人間関係やコミュニケーションの選別がおこなわれているのである。
 また、このコミュニケーションの選別、成立させないということについて、富田(
1997)は、選択肢を受信する側は獲得したが、それは、メッセージを送信さえできればいいということを意味しているのではないという。逆に「受信すること」を今まで以上に重要視している。送信を繰り返すのは、受信するための手段でもある。気に入らないコミュニケーションを拒否する一方で、心地よい受信を求めているとしている。

「ベル友」

「ポケットベル友だち」の省略形。ポケットベルで連絡を取り合うだけの友達。ポケベルで数字を文字に変換して12文字までの単文が受信できるようになったのがきっかけと考えられる。
 適当なポケットベル番号に電話をかけ、自分のポケットベル番号とともに「ベル友になろう」といったメッセージをうつ。それを受信した相手がその気になればそのメッセージに入ってきたポケットベル番号にメッセージを返し、メッセージの交換をしていく。これで「ベル友」の関係が成立する。または、雑誌等のベル友を募集するコーナーを見てそこに載っているポケットベル番号にメッセージを送ることで始まる「ベル友」の関係もある。
 ポケットベルを使ってのコミュニケーションを考えていく場合、ポケットベル利用者の約4割が「ベル友」と交信した経験がある(富田
1997)ということから、「ベル友」という存在が若者にとって日常的なものとなっていたということができる。
 ポケットベルの利用調査を行った高広(
1998)は、「ポケ言葉(4951で至急来いなど)の方言」を発見し、数字の語呂合わせで文字メッセージを送りあうには、その数字を文字に変換し、解釈するコードが共有されていなければならないために、メッセージを交換する間柄はある程度閉ざされていたと述べている。このことは、その後登場したコードが不要な文字表示式ポケットベルでは、誰とでもメッセージを交換が可能となり、そのことが「ベル友」成立の一条件となったことを示唆している。
 また、富田(
1997)によると、「ベル友」に似た現象は以前にもあったという。伝言ダイヤル、ダイヤルQ2の「ツーショット」、パソコン通信の会議室などがそうである。そこに共通しているのは、見知らぬ人との親密な会話である。電話の利用形態は、インストゥルメンタルなもの(用件電話)からコンサマトリーなもの(おしゃべり電話)に拡大してきているが、見知らぬ人との電話は、ほとんどが用件電話であった。ところが、80年代の後半から、電話やパソコン通信が、見知らぬ人とのコンサマトリーなものを成立させ始めていたのである。本来成立するはずのない「見知らぬ人」(ストレンジャー)との「親密な」(インティメント)関係がメディア上に成立したのである。「ベル友」もその延長線上に位置づけることができる。
 近年注目を集めた新しいメディア利用の魅力は、なんと言ってもメディアが匿名性を保証してくれる点にある。私たちは、お互いに安全地帯に身を置いたまま、コミュニケーションをすることができるのである。また、その状態は、いくら親密になっても、いつでもリセットできることをも意味しているのだという。

第2節 ケータイによるコミュニケーション

 携帯電話の普及初期段階においては、多くの国で利用者の社会的属性や利用目的が共通していることがうかがえる。フィンランドで1990年におこなわれた調査によれば、利用者で最も多いのは31歳から50歳までの男性であり、41%は雇用者が購入し、支払っているもので、私的な利用を目的とした購入は12%に過ぎなかった。また、1988年の時点でのアメリカにおいても、利用者の多くが中小企業の経営者で97%が男性であった。日本でも、中村(1996)が1995年5月に兵庫県南部地域でおこなった調査では、利用者の9割以上が男性、30代から50代が8割を占めており、料金は会社などの法人が払っているものが44.5%、自分で支払っているのは53.4%であった。これらはいずれも、加入・維持コストの高い普及初期段階においては、携帯電話利用が仕事上で必要な男性が利用者の中心をなしていたことを示すものである。
 携帯電話利用法として挙げられるのは、日本でも阪神淡路大震災の後に急増した緊急連絡手段としての利用や「親しい人とのおしゃべりや付き合いのため」といった自己充足的な利用などである。ただし、「仕事のため」といった道具的な利用を含めこれらの利用法は携帯電話独自のものではなく、一般加入電話の利用と共通している。
 
Rakow and Navarro1993)のインタビュー調査によれば、同じ「道具的な利用」であっても性によって携帯電話の具体的な利用法は異なるという。すなわち、仕事での利用が多い男性にとって携帯電話は公的な世界を拡張するのに対し、女性には子供との連絡など家事目的で利用されるため、逆に私的な世界を拡張する傾向が見られる。このような男女の携帯電話利用の違いから、他の新しいメディア同様、携帯電話は古い社会的政治的慣習を破壊し、ハイアラーキーを再配置し、公的領域と私的領域の境界を再構成する潜在的な可能性を持っているが、現状での利用にはジェンダー・ポリティクスが働いていると結論づける。他にも、例えば、松田(1996)による移動電話の利用者へのインタビュー調査は、移動電話の利用により「電話をする用件」が、緊急ではないものの、全く不必要でもない「気楽な用件」へと変化しつつあることを見いだしている。

ケータイによるコミュニケーション その特徴的なもの

発信番号通知サービス

 近年そのサービスが一般化されてきている、発信番号通知サービスに見られるコミュニケーションについての岡田・富田(1999)のインタビュー調査がある。岡田はサービスの意図したところである「発信者の識別」あるいは発信者と受信者の関係の均衡化を図ることによる「受けたくない電話の拒否」という目的を達成しているということが可能だとしている。このことは、利用者たちがメディアを人間関係やコミュニケーション関係をコントロールするための道具として利用しているという点で、第1節でみられたポケットベルの「シカベル」と共通するものだといえる。他にも、この発信番号通知サービスが一般化するまでは、電話に出ても、その相手が話したくない相手だった場合、会話中に回線の状態が悪くなった振りをして一方的に電話を切ってしまうこともあった。かつて電話はその私的な領域を生み出すとともに、その中へと容赦なく進入してくるメディアだった。しかし、プライベートで使われるケータイの場合、留守番電話サービスやこの番号表示サービスが当たり前の機能となったことによって、電話の「暴力性」を弱め、「脱暴力化」させつつある。

文字通信

 ケータイは、文字表示機能のサービスが備わるとともに直接通話の便利さと文字通信の「楽しみ」の双方を兼ね備えたメディアとなってきている(松田1997)。今日では「ケータイ=音声メディア、ポケットベル=文字メディア」という構図はもはやあてはまらない。ケータイは音声のみが交わされる「電話」というよりむしろ、音声も文字も交換できる、ある種のマルチメディア情報端末となっている。たとえば、DDIポケット電話の1998年3月17日づけのプレスリリースによれば、同社の文字通信サービス利用は、この時点で1日のPHS発信総通話回数の2割を超えているという。また、富田(1999)にると、ポケットベル人気は終息に向かっているが、そこで生まれたメディア感覚やスタイルは消えることはなく、携帯電話やPHSに受け継がれているとしている。
 文字通信が始まった頃に、「P友(Pメール友達)」というものがあった。DDIセルラーグループがPHSの文字サービス(Pメール)を開始した1996年頃からこの現象が始まったためこうよばれるようになったと考えられる。ポケットベルの「ベル友」と同じで、PHSの文字通信でしか連絡を取り合わない。適当なPHS番号に電話をかけたり、「P友」募集などが載っている雑誌等を見てメッセージを交換し合うだけの関係の友達のことである。しかし、ポケットベル時代の「ベル友」のようにそれほど流行はせず、現在ではほとんどみられない。

第3節 ポケットベルからケータイへの移行

 ここでは、ポケットベルからケータイへの移行についてみていく。

以下は、松田美佐、他が『移動体メディアの普及と変容』(1998、東京大学社会情報研究所)で述べていたものを参考にした
 ポケットベル、PHS、携帯電話の順に、使用者の年齢層が上昇しているというデータ(郵政省、
1998)を反映してか、多少ぶれはあるものの、ポケットベル→PHS→携帯電話という使用履歴を持つインフォーマントがあるという。この履歴には主に次のような特徴がみられる。(1)携帯電話やPHSの使用開始と共にポケットベル使用をやめてしまう。(2)ポケットベルをやめた理由は「文字をうつのがめんどくさい」「友達が持たなくなった」(3)それとともに「『ベル友』やめた」という声が聞かれる。こうした変化の背後には、いくつかの理由が考えられる。
<理由1>企業側における性能とサービスの向上
 ユーザー側が複数端末利用を通じてようやく満たしていた用途・機能が、単独の携帯電話で統合的に代用できるほどに、端末性能とサービスが向上した。
<理由2>ユーザー集団成員相互における「ドミノゲーム」的な技術標準化
 携帯電話の単独利用にふみきった理由として、重要な発言は「みんなが使っているから(自分も使い始めた)」というものだ。一見、テレビCMやクチコミに対する付和雷同・主体性欠如にも見えるその含意は、自分の所属グループの誰か(キーマン)が端末変更をきっかけに、一時的に「ドミノゲーム」的な葛藤状況が起こり、選択の主体として決断したことを意味している。こうした異なるメディア間の競争と住み分けによる「ドミノゲーム」現象について、生物学的なメタファーを借りるなら、固体レベルでの「決断」が繰り返されることによって、特定地域集団内で一種の「生物学的遷移」が起き、集団全体として「極相(クライマックス)」ともいうべき「技術標準化」が成立したと言えるのではないか。
<理由3>ユーザー個人における「ワレットPC」的な身体感覚の変化
 「複数端末利用」が嫌われた一因として、鞄の奥から服のポケットへ、という収納定位置への変化と、身体の一部としての感覚変容が起きていることがあげられる。また、携帯電話やPHSが、かつてのポケットベルと同等の容積・重さでありながら段違いの電話番号・アドレス・音声メモなどの多機能・大記憶容量を持つ端末となったことから、いわばビル・ゲイツの「ワレット(財布)PC」構想(
1994)に近い一種の分身的な存在として、携帯電話の単独利用への移行が急速に進んでいる
 ポケットベルからケータイへと若者の持つ移動体メディアは変化してきた。ではこれらとともに、若者のコミュニケーション観はどう変わってきたのだろうか。
 例えば、ポケットベル時代にみられた「ベル友」という存在はケータイ時代になってから、始めの頃こそ「P友」などとして存在が受け継がれてきたように思われたが、現在ではほとんどみられなくなった。では、なぜ「ベル友」はいなくなっていったのか。
 これは私がケータイを使っていての自分自身の感覚、そして私の周囲のケータイの使い方をみてであるが、ポケットベルを使用していた頃とケータイを使用しての違いとして、ポケットベルは、やはり表面的な会話などといったおしゃべり的な要素で使っていた傾向があり、ケータイは次に直接人と会うための約束をする道具、手段として使っていることが多いという感じがある
私自身の感覚、また「ベル友」がいなくなっていったことも含め、若者はケータイを利用することでより友人との距離を近いものにしていっているということはできないだろうか。
 これらのことについて、3章からは、富山大学生を対象に行ったアンケート調査をもとに、ポケットベルの使われ方、ケータイの使われ方、それぞれの比較、友人観などを中心に分析していく。