序章



トランス

本論文では、トランスセクシャル(transsexual/TS)もトランスジェンダー(transgender/TG)もトランスべスタイト(transvestite)も「トランス」という語を冠しているので、このTS,TG,TV(TS=トランスセクシュアル、TG=トランスジェンダー、TV=トランスべスタイト、以下この略称を使う)の3つをまとめた呼称として「トランス」を用いることにする。
これは広義のトランスジェンダーと同じ意味だがそれを使わない理由は、広義のトランスジェンダーという言葉を用いると、その中に狭義のトランスジェンダーという同じ言葉が含まれることになり、混同してしまう可能性があるからである。当事者達の間ではこの問題を避けるため「T*」とか「T’s(ティーズ)」とかいう表記を使うが、前者では記述向きで読み辛く、後者では読みをトランスセクシュアルの略であるTS(ティーエス)と混同する恐れがある。
わたしの言うトランスとは、当事者達の間の言葉をそのまま流用したとも言えるし、また当事者達が使っている言葉をヒントに作り出したとも言える言葉である。「トランス(trans)」とは英語の接頭語で、越えて、横切って、貫いて、他の側へ、別の状態[場所]へ、という意味を持つ。まさに性を越えて、横切って、貫いて、他の側へ、別の状態[場所]へと移行しようとする人々を示す言葉なのである。
そしてTS,TG,TVと区別することはあまり意味を成さないとわたしは考える。それは次の3つの理由からである。
(1)TVの指す異性装はTGであってもTSであっても行っている
(2)TGの性役割に対する違和から来るジェンダーを越えるということはTSであっても行っている
(3)服装はある種の性役割とも考えられることからTVの行っている異性装はジェンダーを越えていることの一種と捉えることができる
(1)(2)から考えるとTSはTGの中に含まれ、TGはTVの中に含まれることになる。しかし、(3)からTVとTGの境界線はかなり曖昧なものであることが分かる。
このようにトランスについて語るということを始めてみると、まず語るべき言葉がはっきり決まっていないという問題に突き当たる。それは性について語る言葉自体が、日本においてはきちんと決まっておらず、横文字を使ったり、医学用語を使ったり、法律用語を使ったり、俗語を使ったりとバラバラなのが現状だ。特にトランスの事情について語る時は、言葉に細心の注意を払わねばならない。そこでまずトランスについての予備知識も兼ねて本論文に登場する用語集を見てもらい、それらをふまえた上で本論を読み進めていってもらいたい。また本論文では以下で示す定義を用いているので他の文章との用法に若干違いがあるかもしれないことを注意願いたい。

トランス用語集

●ジェンダー(gender)
社会的文化的に作られた性別のこと。生物学的性がセックスであるのに対し、社会的要因、あるいは文化的、歴史的要因が加わって構築される性をジェンダーという。より具体的にいうと、社会により構築される男らしさや女らしさといった性役割や行動様式、個人の心理的特徴を言い表す言葉。
ジェンダーは国・時代・文化・経済・習慣・宗教、また個人によっても変化する。

●セックス(sex)
生物学上の性、解剖学上の性。性交を言い表す言葉でもあるがここでは前者の意味で使う。
本論では身体の性と同じ意味で使うが、身体上の性と言っても少なくとも、染色体の性、精神の性、ホルモンの性、内性器の性、外性器の性があるとされている。さらにオリンピックなどで染色体によるセックスチェックが用いられるが、身体の部分によっても染色体の性が一様でない場合もある。また多くの女性はXX型の染色体を持ち、多くの男性はXY型の染色体を持つが、XO・XXX・XXY・XYYなどの染色体を持つ人もいる。

●セクシュアリティ(sexuality)
セクシュアリティとは、まだ日本でなじみの薄い言葉である。全米性教育協会(SIECUS)は「セックスは両脚のあいだ(つまり性器)、セクシャリティは両耳のあいだ(つまり大脳)にある」と比喩的に定義している。しかし、これだはまだ充分であるとは言えないだろう。
これまで日本語では「性的現象」もしくは「性的欲望」と訳されてきた。これらを踏まえて『日本のフェミニズム 6』の中で、上野千鶴子はセクシャリティを「性をめぐる観念と欲望の集合」とまとめている。、欲望もまた社会的に構築されるものであるならばセクシャリティはたいへん文化的なものであるといえよう。
よくセクシュアリティという言葉を性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)と同じ意味に使っているものが見られるが、厳密に言えばこの2つはイコールではなく、セクシュアリティは性的指向/志向/嗜好をも含む言葉なのである。

●トランスジェンダー(Transgender/TG)
広義でいえば自分自身の性認識になんらかの疑問や違和感を感じている人すべてを言い表そうという言葉である。その意味で医学的に使われている性同一性障害(gender identity disorder)とほぼ同じと考えられる。
しかし、実際の使われ方としてはもっと狭い意味で使われる場合もある。
狭義の場合、身体の性(Sex)と自分自身で認識する自分の性(Gender identity)が一致していないケースで性別再判定手術までは考えないケース、またその状態にある人を表わす。「自分が何者であるか」(Identity)ということに思い悩む人が多い。自分の認知している性に近づこうと、ホルモン摂取を必要と考える人もいるが、そうでない人もいる。狭義のトランスジェンダーに共通しているのは性別再判定手術までは考えていないこと。

●トランスセクシュアル(Transsexual,Transsexualism/TS)
トランスジェンダーと違う点は、身体の性(sex)と自分で認識する性(gender identity)が一致せず、自分のアイデンティティ(自分が何者であるかの認知)を表現するために外科的な処置(性別再判定手術)の段階まで求めるケース、または人をいう。手術前の望んでいる場合も、手術後の場合もトランスセクシュアルと言う。トランスセクシュアリズム医学が作り出した用語で、性転向症と訳されている。

●トランスベスタイト(Transvestite,Transvestism/TV)
トランスベスタイトとは異性装者の意味である。反対の性の服装や性役割をパートタイムで身に着ける人たち。ICD−10(国際免疫病分類第10版)によると異性装には両性役割服装倒錯症(Dual-roal transvestism)とフェティシズム的服装倒錯症(Fetishistic transbestism)があるとされている。前者は「異性の一員であるという一時的な体験を享受するために、生活の一部で異性の衣服を着用しているが、より永続的な性転換あるいはそれに関連する外科的な変化を欲することは決してないもの。」とされている。本論文では前者の意味でTVを使う。
なお、トランスべスタイトは精神医学の分野で作られた言葉なので、これを嫌うTVの人たちは、クロスドレッサー(Cross-Dresser/CD)と自らを名付けている場合もある。
異性装者として知られている過去の人物として、ローマの皇帝カリグラやイギリス国王ジェームズ一世やイギリス植民地時代のアメリカのニューヨーク、ニュージャージー植民地総督であったエドワード・ハイド(別名コーンバリー卿)や18世紀のフランス貴族ド・エオンなどが有名である。ちなみに同じ異性装を表す言葉「エオニズム(eonism)」はこのド・エオンから名付けられた。

●FtM(Female to Male)
自分の性を女から男へ移行する人。例えば、性別再判定手術で女性の身体から男性の身体に移行した人をFtMTS(Female to Male Transsexual)と呼ぶ。

●MtF(Male to Female)
自分の性を男から女へ移行する人。

●フルタイム/パートタイム
自認する性別でフルタイム生活しているか、または両性を場合によって(パートタイムで)使い分けているのかということ。 MtFを例にとると、ずっと女性として生活する場合をフルタイムと呼ぶ。

●パッシング、またはパス/リード
望みの性別の格好をしている時、周囲の人に気付かれずにいることをパッシングまたはパスと言う。試験にパスするというのと同じ意味。逆に周囲の人に気付かれてしまうことをリード(read)と言う。元の性を読み取られるという意味。

●カミングアウト、またはカムアウト
カミングアウトとは、自らのトランスの事情を打ち明けるという意味である。この言葉はトランスの世界ではよく使われている言葉で、トランスに限らず同性愛者の場合にも同じ意味で使われている。

●性別再判定手術(Sex Reassignment Surgery/SRS)
日本では性転換手術が一般的によく使われているが、性を故意に転換するのではなく元々の性に再判定するというニュアンスを持っている。

●性同一性障害(Gender Identity Disorder/GID)
埼玉医大の答申では性同一性障害のもっとも主要なものは性転換症(transsexualism)、あるいは性別違和症候群(gender dysphoria syndrome)とされている。性転換症とは「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきりと認知していながら、その反面で、人格的には、自分が別の性に所属していると確信し、日常生活においても、別の性の役割を果そうとし、さらには変性願望や性転換願望を持ち、実際に実行しようとする人々である」と定義することができる。
しかしこれは性同一性障害全体を説明するものでなく、性転換症以外にもいわゆる周辺群と呼ばれる症例・人々が知られている。
よって性同一性障害とは次のように言い表すことができるのではないか。
「生物学的メス・オス(female・male)を表わす性(sex)と、心理・社会的な女性性・男性性(feminity・masculinity)を表わす性意識、性別(gender)が何らかの理由により一致しないとき、これを性同一性障害(gender identity disorder)と呼ぶ。」

●半陰陽、間性(Hermaphrodite,Hermaphroditism,Intersex)
受精卵の発生(細胞分裂して人間の体になって行く過程)の段階で男性器・女性器が完全に分化しないで生まれてきたケースで、両性具有のことを言う。Hermaphrodete(ハーマフロダイト)の語源はギリシャ神話のヘルメス(男性の神)とアフロディーテ(女性の神)を合成したもの。多数の女性は2個の卵巣を持ち、多数の男性は2個の精巣をもつが、インターセックスは一個の精巣と一個の卵巣を持っていたり、精巣と卵巣の組織の混合を含んだ一対の性腺を持っていたりする。また、女性型染色体(XX型)で卵巣と卵管を持ち、加えて<男性のような>外性器を持つ場合と、男性型染色体で精巣と精管を持ち、さらに<女性のような>外性器を持つ場合もある。このような場合、性同一性障害には含まれないことになる。

●同性愛(homosexuality)
ジョン・マネーによると「同性愛とは、外部性器の解剖学的形態が自分自身と同じ人間に対するエロティックな反応のことである。この反応には、公然とした同性愛行動や肉体的接触を含む場合も、含まない場合もある。」となっているが、本論文では外性器にこだわらず、性自認を中心に考える。例えば、女性の性自認を持つあるMtFトランスの性的指向が女性に向いているとしよう。この場合、たとえ身体は男性だとしても女性として女性を愛するのであるから、これは正しくレズビアンと同じ心情であると言える。この知見から本論文では、身体を基準とした同性愛ではなく、精神的な意味で同性愛という語句を使う。また、軍隊や刑務所などの特別な場所での短期的な同性愛は除いて考えるものとする。
“homo”とは「同じ」という意味のギリシャ語に由来しており、「人間」という意味の同じラテン語とは関係ない。(cf.homosapiensヒトの学名)
古代の同性愛者のうち最も有名なの人物は、ギリシャ時代の女流詩人、サフォーだった。レズビアンという言葉は彼女が生まれたレスボス島に由来している。しかし、彼女の恋愛詩編のうちのいくつかは男性を対象としたものであり、おをらくサフォーは同性愛というよりはむしろ両性愛的傾向を持っていたのだろう。

*この用語集は主に松尾寿子著『トランスジェンダリズム』を参考にして少し手を加えたものである。