5章 終章「性を語るということ」



新たなる疑問

わたしはトランスに対するインタビューを中心に調査を進めてきたが、それはまだトランスの一面を垣間見たに過ぎないと思っている。上手く表現できなかったものもあるし、わたしの中にはまだ数々の疑問が残っているのも事実だ。
その疑問の中に、「TS,TGにはMtFもFtMもいるのに、TVはなぜMtFしか聞いたことがないのか。FtMTVなんてことがあるのか。」という疑問が出てきた。FtMTVがすること、つまり生得上の女性が男性の服装をすることは、誰もおかしく思わない。それが逆にFtMトランスの悩みでもあるわけだが。こうは考えられないものか、多くの女性はたまにボーイッシュな恰好をする点で、FtMTVなのであると。(この場合、異性装しなければという脅迫的な衝動は全くないわけだが)まるで社会は「女性は男性のまねをしてもいいが、男性は特別な場合を除いて女性のまねをしてはならない」と決め付けているようだ。そう考えた時、わたしの頭には中島さんが言っていた言葉が思い起こされた。
<B:男性にはちょっとカミングアウトできない。女性の方が理解しやすい。男性には言えないですね。かなり抵抗あるもん。言っても理解されないと思う。それは男性っていうのは女性よりも高くみてるから。自分も男のときはそうでした。>
この言葉を聞いてトランスの問題とは、男女のジェンダー格差が一つの原因になっているのではないかと思われてならなかった。それはこういうことだ。女性よりも高い位置にいる男性が特権を放棄して女性の側へ移動することは、男性側の視点から見れば不合理なことをしていると映る。と同時に、そんなことをされては自分達の特権の効力が薄れてしまう危険性がある、というのである。然るにトランスの問題については、FtMよりMtFがより糾弾され、一般の女性より男性の方が反対するのである。
医学の分野ではトランスの原因を躍起になって探し、すでにいくつかの説が出現するに至ったが、わたしにはトランスの問題とはやはり社会的なジェンダーの問題との関わりが大きいのではないかと思う。もちろん社会に上手く適応できなく苦しんでいるトランス達の声に耳を傾けていたのは後にも先にも医学なのであるが。人文科学的研究や社会的関心こそ今不足しているものではないかと思う。しかし、その関心の視点は決して「異常なもの」「普通でないもの」の研究であってはならないとわたしは思う。わたしは当初トランスのような、性的マイノリティに目を向けることで、逆に「普通」である性的マジョリティに起こっていることも見えてくるのではないかと思っていたが、トランスの語ることに耳を傾けよくよく考えてみれば「普通」の側に含まれていると思っていた自分は、トランスのように性自認も性的指向も一度も深く意識したことがなかったことに気付いた。本当に分からないこととは性的マジョリティのセクシュアリティであるのかもしれない。性的に深く考えたこともないのに、自分はマジョリティだと思い、「普通」だと思い込んでいる。わたしはトランスのように自分の性自認や性的指向についてきちんと語ることができるのだろうか。わたしは本当に性的に「普通」なのだろうか。そのようなことを考えた時、自分に幾らか性についての知識があっても、自分の性について語るという機会がほとんどなかったことに気が付いたのである。

「性を語るということ」

トランスや同性愛者に起こっている性的マイノリティの問題に限らず、日本の性事情は多くの問題を抱えている。それは性についてのすべてのことをタブー視しているからだと言っても過言ではない。「性についてはなるべくなら、語らないに越したことはない」というのが大人達の本音だ。特に日本では、誰もが持っている性的なことに関する健全な好奇心までをも、闇雲に隠す傾向がある。日本人は性に関して非常に抑圧されているのだ。大人達は子供が性に探りをいれることを、まるで危険は伝染病に触れることのように遠ざける。
男性と女性の性器の違いを文字通り知らない子供、生殖について誤った情報をたくさんかかえこんで混乱している子供、さらに十分な知識があってもひどく抑圧されているためにそれについて語ることのできない子供は非常に多い。そして、手に入る性についての情報とはとても偏ったものばかりであるのが現状だ。このような偏った情報が「普通の女/男とはこういうもの」「普通のセックスとはこういうもの」「普通の結婚とはこういうもの」などという性的マジョリティを作りだし、それに当てはまらないものを外に追い出そうとしているのである。そんな人間に多様な性を受け入れることができるのか。トランスを知ろうという気持ちが出てくるだろうか。そしてそのように育ってきた大人が自分の子供にきちんとした性の知識を与えることができるのだろうか。
今、日本のトランスが置かれている立場は非常に辛いものだ。トランスの人間として生きる権利を法的に確立していくことが必要なのはもちろんだが、わたしは世間の認識があって始めて行政を動かせるのではないかと思う。そのためにはトランス自身が語っていかねばならないし、その橋渡しをする人々も不可欠だろう。またそれと同時に、性的マジョリティも自身の性というものを意識していく必要がある。トランスの性を理解するにはそれと比較検討することができる自らの性についての知識が必要だからだ。 性について語ることは長い間行われてこなかった。みんなが自分は「普通」だと思い込んでいるのである。健全な性教育とは画一的な性を刷り込むのではなく、子どもにいろいろな情報を与えてやることなのではないか。 百人の人間がいれば、百通りの性のあり方があるのだ。
最近になって、幾らか性についての情報が、内容はどうあれ、表に出てくるようになり始めた。まだメディアもどこまで触れて良いのやらと手探りの状態を脱していないのが現状だ。しかし、このように少しずつであれ性について語られていくことは、性的マイノリティを理解し得る土台となっていくはずだとわたしは思う。その性についての知識という土台があれば、「普通」である男女と、「異常」である性的マイノリティという枠組みでしか考えられなかったものが、自分の個性と性的マイノリティの個性のどこが、どのように違っているのかを比較し合うことができるようになるのである。それは同時に、理解しがたいものとしての「差別」から、自分とは違うものという「区別」に変わることを意味している。それは自分と他人とを比較し、「区別」しているのと同じで決して蔑みを含みはしない。
理想論ではあるがそうなった時、TV,TG,TSの間で、トランスと同性愛者の間で、性的マイノリティと「普通」の人の間で、女と男の間で、互いに区別し合い、互いに理解し合い、互いに協力し合える社会が来るのではないかと思う。