第2章 性的マイノリティへの認識



第1節 性的指向と性自認


[1]同性愛とは何か?
性的マイノリティに関し欧米社会で最も有名なのはゲイ運動についてではないか。ゲイという言葉は、同性愛者全般の呼称でもあるが主に男性同性愛者の意味で使われ、対になる言葉は「レズビアン」(女性同性愛者)となる。
ゲイについて一番認識が高いというのは、アメリカなどで、ゲイの人たち自身がコミュニティを作り世論に対しゲイ差別をなくすよう抗議行動をしているからだろう。ゲイという言葉自身がそのような行動をも含む、生き方を表わす言葉として当事者の間から生まれた言葉なのである。このようなゲイの活動にはキリスト教社会が昔から同性愛を禁忌としていた背景がある。逆に言うとそのような抑圧があったからこそ、同性愛差別撤廃運動へ拍車がかかったのだと言えないこともない。幸か不幸か、日本には同性愛を禁止するような法律はなく、このような同性愛を禁忌とする考えは宗教的な思想が根底にあるようだ。また同性愛は精神異常、精神病と長い間捉えられていたが、1974年にDSM−W、1981年にICD−10の精神異常のリストから取り除かれている。それはどこの国へ行っても同性愛のサブカルチャーが存在し、彼らは性的指向以外のことでは全く健全であることからも妥当であると考える。しかし、依然として多くの人が、特に男性同性愛者に対し、嫌悪感を示していることには変わりないのである。(*注3)次に、同性愛者がなぜ同性を愛するに至ったのかを考えてみたい。
同性愛というのは性的指向(女性・男性どちらに性的魅力を感じるか、またどちらともに感じるか、それともどちらともに感じないか)が自分と同性の人に向いている人のことで、大多数の人の性的指向は異性に向けられている。しかし、大多数の異性愛の人に「どうして異性が好きで、異性だけが性交の対象となるのか」という問いを発したとしても、「(理由は分からないけど)それが当たり前だから」などの返答が返ってきて、大多数の異性愛者も明確な理由をもって異性愛をしている訳ではないのだ。すなわち、同性愛より異性愛という2つの選択肢の中から、自ら意識的に異性愛を選んでいる人などいないということなのである。同じように同性愛者とは意識的に同性愛を選び取っている訳でなく、「理由は分からないが」好きになる相手がたまたま同性だったというだけなのである。愛すること自体は本来無意識的に行っていることであるから、その点で性的指向は男なら女へ、女なら男へという二分法的分類はできないのである。医学の分野を始め、同性愛の原因を突き止めようとしている研究があり、さまざまな原因説が数多くあるのだが、未だそのはっきりとした原因を突き止めたという話は聞いたことがない。

[2]日本における呼称の違い−「ホモ」と「ニューハーフ」と「Mr・レディ」はどこが違う?
次に、一般に日本で通用している「ホモ」や「ゲイ」や「ニューハーフ」や「Mr・レディ」などの性的マイノリティを意味する言葉はどこが違うのか、はたまたどこがいっしょなのかという問いについて考えてみたい。「ホモ」というのは「ホモセクシュアル(同性愛者)」または「ホモセクシュアリティ(同性愛)」という語の侮蔑を含んだ表現である。。反対語は「ヘテロセクシュアル(異性愛)」である。ホモセクシュアルは文字どおり同一の(homo)性を性的対象に選ぶ人のことである。「ゲイ」も単に同性を性的対象に選ぶ人のことを指すが、「ホモ」も「ゲイ」も日本で一般に使われる場合は男性同性愛(者)を指して使われる場合がほとんどである。反対に女性同性愛者を指す言葉としては「レズビアン」がある。こちらは女性同士の同性愛にのみ使われる言葉である。レズビアンに対する侮蔑を込めた呼び方としては「レズ」という言葉がこれに当たる。「ホモ」「レズ」が同性愛者を意味する言葉の中で日本でいちばん使われている言葉ではないかと思うが、双方とも「ゲイ」「レズビアン」を侮蔑した表現であり、それが一般に使われていることは、日本社会が性に対してタブー視し、無頓着な態度をとっていることの表われでもあるような気がしてならない。
では「ニューハーフ」「Mr・レディ」という言葉についてはどうだろう。「ニューハーフ」と名付けられて彼女たちがメディアに登場したのは1980年代初頭だといわれる。始めは活字メディアが取り上げた。1981年頃から週刊誌は、北海道出身の銀座のホステスで男性から女性へ性を移行した松原留美子があまりにも女そのものの人物だと注目し、それまで流布していた「ブルーボーイ」とか「おかま」の呼称に代わり「ニューハーフ」という呼び名が彼女に与えられたのだ。
それ以来テレビでもバブル期と重なるようにしてバラエティ番組で盛んに取り上げられるようになった。「Mr・レディ」という言葉もマス・メディアがきっかけで広まった言葉と言っていいだろう。1989年、テレビ番組「笑っていいとも」に「Mr・レディの輪」コーナーができ、この後Mr・レディーブームに火が付いたようだ。Mr・レディという言葉は字面から「Mr」という男性冠詞と女性の意の「レディ」を組み合わせ、「本当はMrが付く男性なんだけれど、レディとして人前に出ている人」を指す言葉である。しかし、ニューハーフ、Mr・レディに共通する特徴は、どちらも職業的ニュアンスが強い言葉ということである。よってニューハーフと名乗る者の中には様々な人が存在し、ニューハーフとはこういう人のことと言える定義はないのである。
ともあれステージにて脚光を浴びるほどの存在となった彼女らにとっては表向きには、日の目を見る時代がやってきたのだろう。そしてニューハーフのショー・パブを中心とする水商売の店の客層も大衆化していったのである。しかしその結果日本の性的マイノリティの人に対する偏見は一層定型化していった。(注4)
その定型化とはニューハーフに代表される性を移行している人々は性別を反対にしたのだから性的指向はニューハーフなら男性に向くのだというものである。逆にオナベ・バーに働いている彼らは女が好きということになっている。今の日本にあってはマス・メディアまでもがこの間違いを犯したまま記事などを発表してしまう場合がある。この間違いは性を変えるとか越えるという事情がセクシュアル・オリエンテーション(性的指向)には全く関係しないということが理解されていないことに起因している。この種の間違いはなんと世間にあふれていることか。次に性を越えることと同性愛が何故混同されてしまうのかの原因を見ていくことにする。

[3]トランスは同性愛じゃない!
世間一般によくある勘違いにトランスと同性愛を同じようなものとしてしまうことがある。かく言う筆者自身、トランスをテーマに選んでおきながらトランスと同性愛との違いを理解するまでにある程度の期間を要した。確かにトランスと同性愛はかなりリンクしているのも確かだが、この2つは別々の視点から見る必要がある。
一般に、「男である」ということは、女を愛するということをも含んだ概念であり、「女である」ということは、男を愛するということをも含むこととなる。故に、「男から女になりたい」ということを耳にした人は、無意識のうちに「男から<男を好きになる>女になりたい」と変換して考えてしまうのである。
では、トランスしている場合も考えてみたい。性別をトランスしているということはジェンダーの問題を含んでいる。MtFの場合を例に取ると、MtFのジェンダー・アイデンティティは女性である。ここではどちらの性が性的対象となるかという性的指向は全く別の問題として考えなければならない。そのMtFの人の性的指向が女性に向いていたとすると、女性として女性を好むのであるから、この場合はレズビアンと考えなければならない。この場合、MtFの感覚としては同性である女性を愛するというものだ。反対にMtFの性的指向が男性に向いている場合は、女性のアイデンティティでもって男性を愛する訳なので、こちらは異性愛の感覚となる。こうなってくると一般の人にはますます理解し辛い事態になるだろう。下に示すのは、身体の性と性自認と性的指向の関係を考慮した表である。ここに示すのは典型例であって、全てではない。身体の性にしろ、性自認にしろ、性的指向にしろ中間が存在するということを忘れてはならない。



表:典型的な性分類

身体の性別性自認性的指向
純男
両性愛型男性F/M
純女
両性愛型女性F/M
ゲイ
レズビアン
異性愛型MtFトランス
両性愛型MtFトランスF/M
レズビアン型トランス
異性愛型FtMトランス
両性愛型FtMトランスF/M
ゲイ型トランス
半陰陽中間型F/MF/M
M:男性 F:女性



[4]性の分布
ひとりの個人の「性」には少なくとも(1)sex=身体の性、(2)gender identity=性自認、そして(3)sexual orientation=性的指向/志向 の3つの軸があり、その軸一つ一つが連続的で、完全に女か男かに別けられるものではない。完全に女と男に分けられると考えられがちな身体の性でさえ例外ではない。軸それぞれが連続的だということはインターセックス(半陰陽、間性)などの例を見ても明らかである。このような性の分布はステレオタイプにはめられた女性の性行動と男性の性行動を両端とするスペクトル(互いに関連のある多種多様な行動が重なり合ってひろがる連続的な範囲、色のグラデーションの様にと切れ目がないと思えば分かり易い)上の点を示すものである。同性愛者やトランスを一般の人々はしばしば一塊にして考えており、なるほど点と点にはさまれた範囲内には重複した部分は多く仕方ないと言えばそれまでかもしれないが、一方、それぞれを別々に検討することで性の分化や多様性についてより深い知識を得ることもできるのである。
一般の人が混乱状態を引き起こしている原因の一つは、人間が比較対照によってものごとの理解を単純化してしまうことにある。おそらく二極的なものの考え方は、最も原始的な論理的思考法と言えるだろう。人はまるで明確な分割線があるかのように、明暗、暖冷、善悪、男女、生死などについて語っているのである。現実というものは、想像上の絶対的な二つのものの間に広がっているスペクトル上にある、測ることのできない僅かな変化から成り立っていることを誰もが知っているが、それでも二極論は便利なものとして使われやすい。このことは性についても言うことができる。セックスにもジェンダー・アイデンティティにもセクシュアル・オリエンテーションにも、男女を両端としてはいるが、その中間に無数の点が存在し、またその三つの軸があることによって性には無数の表現が可能であり、男女の二極分布で考えることのほうが実は困難なことであるかもしれない。

[5]性自認(gender identity)
ではトランスの問題に欠かすことの出来ないジェンダー・イデンティティ、性自認とは何であるのか。マネーによる定義では
となっている。ここに出てくる性役割(gender role)についてもマネーの定義を提示しておく。
性自認と性役割のこの二つは一つのコインの表と裏であり、同じ物を違った側面から見ているのと同じことなのだ。つまり、性自認は性役割の内面的な経験であり、性役割は性自認の表現なのである。この事は言語が文化的で歴史的で社会的なものであると同時に、それを話す個人の肉体的な構造や、話すことを学習した状況、成長した場所や環境、そしてその人の人格をも反映しているのと同じことである。社会と個人の間の連続的な相互作用が、常に双方に修正をもたらしているからである。これと同じことが性自認と性役割にも言うことができる。人は成長する過程で、ある社会に適合するように発達する。これは極めて重要な過程である。なぜならば、どの社会の一員にもならずに生きていくことは誰にもできないからだ。生まれた子どもは「女/男はこういうものだ」とか「女/男らしくしなさい」などのジェンダーにおける社会のステレオタイプを両親などから提示され、その社会的に通用している性役割を果たすよう期待される。この性役割を行動し経験していくことが性自認にも影響を与えていく。それと同時に個性である性自認から表現であり、言動である性役割へもベクトルが向けられる。このような性自認と性役割の相互作用によって内面的で個人的な性自認と、社会的な性役割が形作られていく。
この性自認がトランスを語る上では欠かせない言葉なのである。


第2節 トランスを表す言葉


次にTS,TG,TVという言い方がどこから発生したのかを見ていくことにする。TS,TG,TVという言葉は同時に発生したわけではない。このこともトランス用語の理解を困難にさせている原因であると考えられる。

[1]トランスベスタイトの命名
トランスベスタイトとは異性装者の意味で、性役割の一つである服装を異性のものにトランスする人を指す。1900年初頭にドイツの性科学者マグナ・ハースフェルドによって作られた言葉となっているが、定かではない。TSたちが自分の身体と反対の性別でフルタイム過ごしたいと強く願っているのと違い、TVはパートタイムで男女の役割を演じている。TVの定義とは「強い衝動に駆られて異性の服装を身につけ、その態度を装うことである(マネー)」としており、脅迫的な衝動が存在するとされている。マネーが言う衝動とは決して性的満足のための刺激を求めることを意味しているのではなく、その点で本論文上でのTVはフェティシズム的な異性装者とは明確に区別されなければならない。
数多くの文化には儀式や習慣や年に一度のカーニバルなどでの異性装が存在したり、子供たちが俳優になったつもりでゲームとして異性装をし、異性の役を演じたりすることは多々あることであるが、TVはこれとも区別されなければならない。
世間の人達はTVが異性装をすることを趣味で楽しんでいるんだろうと思っているが、それはフェティシズム的な人の場合であってTVの場合決して性的な欲望を持って異性装をしていない。TVは普段、生得上の性で仕事も得て、経済上困らない生活をしているのだから、TS以上の悩みはないだろうと思われるが、恥からくる罪悪感を持っていたり、家族に秘密がばれることを恐れたりしていても、異性装を辞めることができない人もいるのである。その点でTGとの接点はかなり大きく明確な区別は付けられないと考えられる。(*注5)

[2]トランスセクシュアルの発見
トランスセクシュアルという言葉はアメリカ人の性科学者、ハリー・ベンジャミンによって1950年代に確立された。それ以前にもアメリカ人医師のD.O.コルドウェルが「自分は男のはずだ。」と主張する少女をPsychopathiatranssexualisと診断したが、1953年学会、すなわち公の場でトランスセクシュアルという言葉を定義付けたのはベンジャミンが初めてであった。
記録に残っている最初の医学的に監督、指導された成人の性別再判定手術は、デンマークの芸術家アイナール・ウェゲナーに対して行われ、彼女は1930年にリリー・エルブと名を変えた。
この種の手術で最初に世界的に広く公表されたのは、1952年にデンマークで行われた、アメリカの元GI、ジョージ・ジョーゲンセンの手術だ。彼女はクリスティーヌ・ジョーゲンセンとなり、その後エンターティナー、女優として活躍し、彼女を題材にした映画まで作られるほどとなった。

[3]トランスジェンダーの登場
ではトランスジェンダーという言葉はいついか様に生まれたのか。1987年、アメリカ人でトランスジェンダーの性科学者でありセクソロジストでもある活動家、ヴァージニア・プリンスが自らを称し、トランスジェンダリスト(Transgenderist)と呼んだのがきっかけだと言われている。彼女はこう言っている「わたしたちのような者、すなわち生得上の性別と反対の性別/性役割でずっと暮らしたい者にも何か呼び名が必要です。だって、わたしはトランスセクシュアルではなく・・・、性器レベルの性別を超えたい訳じゃないのだから」今ではトランスジェンダーという言葉には性別という壁の超越に挑戦するすべての者を一つの傘に入れるようにして多彩な人々の代名詞としての意味もあるが、ヴァージニア・プリンスの言葉を細かく解釈し、トランスセクシュアルが自分が生まれ持った身体の性別をも反対の性に変えたいと思うのに対し、性器レベルの性別を超えたい訳じゃないという点を区別した考え方が狭義のトランスジェンダーの定義となっているようだ。

[4]トランス
先にも記述したように性とはスペクトル上にある点ので連続体である。よってTS,TG,TVの分類も、このような人達を語る上での便宜上の言葉に過ぎない。スペクトル上の性に境界線を引くことが出来ないように、TS,TG,TVにも明確に境界線を引くことは出来ない。しかし、このような言葉によって性のカテゴリーを作り出すことには次のようなメリットもあると考えられる。

(1)トランスのアイデンティティ(自分が何者であるか)確立の手助けとなっていること。
(2)トランスについて語るときに必要不可欠だということ

(1)については、トランスは既成の女性・男性のように明確に自分のジェンダー・アイデンティティを言い表わすことが困難である。それはトランスとは社会からの性別ステレオタイプの押し付けに適応できない人たちで、たとえ完全な女性の性自認を持つMtFTSでもその人が社会に求められるのは戸籍上の男性としての性役割なのである。自らの性自認と社会から求められる性役割の間で苦しんでいるのである。このような時にTS,TG,TVのような言葉があるとその言葉に自分を同一化することによって、仮にではあるものの、自己のアイデンティティを安定させることにつながるのである。トランスは自己のジェンダー・アイデンティティが不安定なために悩み苦しむことが多々あるが、その苦しみは自分が何者であるかが分からないことから来ることもしばしばである。アイデンティティとは簡単に言葉にして表わすことができるようなものではないが、それを自己認知するためには言語化して考えてやることが不可欠なのだ。そのためにTS,TG,TVといった言葉が果たす役割は重要であると考える。

(2)については、トランスについて語る場合、その個人の状態を語る適切な言葉があることは、それについて語る時に、より詳細に語ることができるように手助けしてくれるのである。トランスへの認識が一般に浸透していない一つの原因として、言語の不足という要因があると考えられる。先にも書いたように人間は世の中のスペクトル上に分布している現実を単純化することによって、それについての議論を行いやすくしている。単純化することには危険も伴うものの、それによってより複雑なことを簡単に多くの人に理解させることができるというメリットもある。トランスについて語るということは、セックス、ジェンダー・アイデンティティ、セクシュアル・オリエンテーションの3次元の空間上に無数に存在するセクシュアリティについて語ることで、必然的にたくさんの定義された言葉がなくてはならない。しかし、性を超えること、すなわちトランスすることは禁忌とされてきた。それは少なくとも近代の歴史をひも解けば明らかである。その歴史的背景から学術的研究にしろ、ジャーナリズムにしろ、トランスについて語られることはほとんどなかったのである。それは「トランスセクシュアル」という言葉の名付け親でもあるベンジャミンのチームの研究が、当時のアメリカの医学会でかなり異端視されていたことでもわかる。
しかし、このように言葉を作ることによって典型的なTS,TG,TV像が作りだされてしまうことが懸念される。それは世間一般に男女の枠で考えられているのと同じように、性的マイノリティの中にも境界線を引いてしまうことにもなる。しかし、言葉を作ることの真意はスペクトル上の性に境界線を引き、性の分離を行うことでなく、あくまでも上記の2つ目的のためであり、このようなトランス用語を使う場合には常に性の分離の危機を頭の片隅において語らなければならない。