第6章    総括

今回の分析を通して、やはり現代において「美しさ」とは「身体加工」によって作り得るものだという意識がメディア、その中でも女性雑誌によって女性たちに植え付けられていることが分かった。

そしてそのような「身体加工」へと導くメディアの意識操作は若い女性に向けられたものだけではなく、「主婦」といった年齢が上の女性たちにも同じように向けられていた。しかしそれぞれで異なる点がみられ、それは「身体加工」を促す情報は若い女性向けの雑誌では表に出ており、主婦向けの雑誌では隠された領域として扱われているということである。そして年齢が低くなるにつれ「身体加工」に対する抵抗感も薄れて行く傾向にあり、実際に「身体加工」に成功している若い女性が多いことも事実である。

だが女性は「美しさ」というものを年齢に関係なく求められていることも事実であり、「美しくあること」をメディアによって強制されていることには変わりがない。女性にとってもはや「身体加工」をせざるを得ない状況が作り出されているのである。

 

そしてそのような状況をつくり出し、女性たちが「美しさ」を求めて「身体加工」に走る背景にはやはり女性雑誌における美容広告があり、特にそのなかでも今回分析したコピーや体験談においては女性たちには過剰な「身体加工」をあおるようなものが多く見られた。

それらのコピーや体験談は女性たちに対して「美しい」とされる基準に自らが達していないと思わせ、「身体加工」のよってその「美しさ」の欠如性は埋めることができる、そして身体加工によって埋められる欠如性は身体そのものだけでなく、現在の生活に対する何らかの不満や不幸せな気持ちといった精神的な欠如性まで「身体加工」は埋めてくれると語っていた。

このように現代では「美しさ」は「身体加工」によって容易に手に入れられるものとして女性たちは思い込まされている。しかしそれはやはりメディア、ここでは女性雑誌によってつくり出されたイメージであり、「メディアがつくり出す女性像」これが実際の女性たちの女性像として認識されていく過程には多少の歪みが生じている。そしてその女性像を実際に女性たちが体現しようとすることによって歪んだ理想が現実になっていく構図が見えてくる。

 

今日、女性が「美しくありたい」と思うこと、これは批判されることではなく、むしろ自然なこととして一般的に考えられている。そして今後もメディアによって「身体加工」に関する記事や広告はその量や(身体に対する)加工度を増し、女性たちもそれを自然なものとして受け入れていくのではないだろうか。しかしメディアによって提示された女性像をそのまま鵜呑みにし、その女性像に少しでも近づかなければいけないと「身体加工」に走ってしまうことは避けるべきことである。もしも「身体加工」が本当に精神的なことなど様々にプラスの作用をもたらすならばそれはそれでよいことなのかもしれない。しかし自分自身が何のために「身体加工」をし「美しさ」を求めているのか、それは限度を超えていないか、ということを再度確認し自己の身体、精神を見つめなおすことが必要なのではないだろうか。