第2章               メディアと女性

学校教育や家庭における環境など様々なものが女性に対する意識やイメージを形成し、女性たち自身もその影響を受けている。しかし情報化社会の現代では、もはやメディアが環境化し、女性たちがメディアに接する機会も多くメディアが特にその役割を果たしていると考えられる。

そしてここでは、そのメディアが女性に対してどのような影響を与えているか、性役割の一つとして考えられる「女性は美しくなければならない」という社会規範はどのように形成されていくのか、ということについて先行研究に沿って考察していく。

 

第1節 メディアが描く女性像

 

1.メディアがつくり出す現実

マスメディアの発達とその普及に伴い、情報化社会が出現した。それによって女性に関する情報も年々その数を増し、女性たちはメディアからいろいろな情報を得、女性に対するイメージを自然と獲得している。

しかしメディアが描く女性は、ことにステレオタイプ化したもの、理想化されたものが多く、現実にある女性を映し出すことは少ないのではないだろうか。

村松泰子(1998、p10)が「マスメディアの読者・視聴者はしばしば、メディアの構成した「現実」を自分にとって現実とみなすから、メディアは人々の現実認識の基盤となり、人々にとっての現実を構成する働きをする。」と指摘しているように、メディアに対する人々の依存度は高く、マスメディアなどに映し出される現実を、現実であると思い込み、新しい理想化された現実がそこに生まれる、ということが起きている。

このような状況の中で特に若い女性たちは、幼いころからメディアに接し、そのステレオタイプ化した女性を現実の女性のあるべき姿だと自然と思い込むようになる。

 

2.メディアが描く女性像

井上輝子はメディアが描く女性像と現実の女性の関係について以下のように指摘している。

「メディアの描く女性像には、その時代のその社会が期待する、女性の姿形や生き方や、あるいは「女らしさ」といった、女性についての規範が表現されている。サンクションつきで表現される逸脱ケースも含めて、メディアは「あるべき」「あるはずの」女性像を提示するのである。〜(中略)〜女性たちは、メディアにすべて依存するわけではないにせよ、多少ともメディアを参考にしつつ、自分の生き方や物の見方をつくっていく〜(中略)〜、メディアの描く女性像は、単に「あるべき」「あるはずの」物にとどまらず、「現実」の女性像にもなっていく。」(1995、p2)

 

また鈴木みどり(1997)は、メディアの描く女性像に見るジェンダー・ステレオタイプから分かる、女性に関する考え方、価値観を3つに分類している。

1つ目は「『男は仕事、女は家庭』という伝統的な性別役割分業観」、2つ目は「『女は外見・容姿、男は中身』、つまり、女性は若さ、見た目の美しさ、セックスアピールなどで評価されるが、男性の価値は、教養、経験などの中身で決まる、というようなステレオタイプな価値観」である。そして、3つ目は「女性の性格や行動パターンに関する価値観」(優しさ、淑やかさ、思いやり、控えめな態度、感情的な行動、受動性などを、個人の資質ではなく、女性一般に見られる特性としてとらえて、定型化する傾向が強い。)である。

 

このようなステレオタイプ化した女性像、女性に対する価値観の中で、今回取り上げていきたいのは、2つ目に上げられた「女性の評価は、外見・容姿によって決まる」という価値観である。

鈴木みどりはまた「この価値観が無ければ女性雑誌の美容・痩身、ファッションなどの記事や広告は存在しえないし、テレビでも、ワイドショーや他の多くの番組が、こうした考え方を基本にして構成されている。」(1997、p192−193)と述べており、「女性の評価は、外見・容姿によって決まる」という価値観は、多くのメディアにおいて重要視されていることが分かる。

そして、特に今回研究の対象として用いる女性雑誌は、この価値観を最も明確に表し、女性たちにその価値観を植え付けやすいメディアであると考えられる。なぜなら、第1章の「雑誌の特性」でも述べたように雑誌というメディアは非常にセグメント性が高く、女性雑誌の場合は読者が女性と限定され、しかもその年齢層・属性までもが設定されているので、それに見合った形でそれぞれの年齢・属性に対して「あなたはこうあるべき」という価値観、「女性は若く、美しくなければならない」という価値観を植え付けやすいメディアであると思われるからである。

 

メディアがつくり出した女性像に女性たちは縛られ、自身をその姿に近づけようとする。このような性質をリースマンが提唱した性格分類の「他人指向型」に照らし合わせてみることができる。「他人指向型」とは、期待や好み、願望といった、他者たちからの信号に敏感に反応し、それに応じて自己の生活目標を変えていく性格分類のことで、このタイプの人間は、茫然たる不安のために、マスコミや同輩集団が供給する同時代人による承認と方向づけを求める欲求が強いとされる性格である、とされる。そして産業の進展によって物質的豊かさが所与となった社会では、マスコミの圧倒的な影響のもとに、「豊かさの心理」に裏打ちされたこの性格類型が顕著に見出されるという。

女性たちは何もかもをメディアに依存するわけではないが、「女性の評価は、外見・容姿によって決まる」という価値観がメディアから大量に流され、その影響を少なからず受けている。このような女性たちはまさに「他人指向型」の人間ではないだろうか。

 

そして最近では、男性雑誌において若い男性向けのファッション誌がいくつか存在し、男性用化粧品が若い男性を中心にして売れ行きが好調であるということもあり、外見・容姿が問われるのはもはや女性だけではなくなってきたとも指摘することもできる。しかしそのように男性が美しく着飾ったり、化粧品を使ったりすることは、いまだメディアで物珍しく取り上げられたり、そのような男性を否定的にとらえる人もいる。それに比べ女性が美しく着飾ったり、化粧をすることは一般的に当たり前のことと認識され、それを否定する人はあまりいないのではないかと思われる。やはり社会において「美しくなければならない」とされるのは、女性のほうであることは間違いないようである。

 

3.メディアによる美しさの画一化

これまでも様々な時代、文化ごとに「美しさの基準」は変化しながらも存在し、それが強制されてきた歴史(纏足やコルセットなど)もある。しかし現代においてはメディアが発達し、様々な地域、文化を超えて伝えられ「美しさの基準」は一定のものとして多くの人が同じ価値観を持つようになる。そして「美しさの基準」も画一化されていく。

そして女性たちはその美しさの基準、美人像に一歩でも近づこうと努力を重ね、「美人コンテストが日常化し、女たちは、「一億総ファッションモデル」と化しつつあるのである。」(井上輝子、1992、p71)とも指摘されている。

 

4.メディアが作る女性像がひきおこす障害

メディアが描く女性像が女性たちに大きく影響をもたらしているのは事実である。そしてこの影響が最悪な結果を招いてしまう場合が「拒食症」や「過食症」といった症状の「摂食障害」にまで至ってしまうというものである。

「痩せている女性が美しい」という女性への価値観(痩せていることが称賛される社会)、このことを女性たちはメディアに接することで学び、ダイエットなどの「身体加工」に走る。そのダイエットが極端なものになってしまうとこのような「摂食障害」は起こることがある。1983年、極度のダイエットが原因の「拒食症」によって亡くなったアメリカの人気歌手、カレン・カーペンターの話はあまりにも有名である。(日本において「摂食障害」に対する一般的認識が広がったのは、この報道によるところが大きいとされる。)

 

「摂食障害」に陥ってしまう原因は、「痩せれば美しくなれる」と「ダイエット」にのめり込むものだけではなく、そのほか様々なもの(女性の社会参加を阻む社会に対するストレス、伝統的な女性役割に対する拒否など)がある。だがメディアがつくり出した女性像に自身の姿を合わせようとした結果、このような障害に陥ってしまうケースがあることは大きな問題であり、今後も起きるであろうと予想される。

 

メディア、特に女性雑誌のなかにはこのような「摂食障害」を取り上げ「ダイエット」の危険性を指摘する記事も見られる。そうかと思えば、その一方で「ダイエット」記事は一向にその衰えを知らない。また皮肉なことにも「摂食障害」の記事を読み、そこで始めて「嘔吐」などの危険な「ダイエット」の方法を学び身に付けてしまい、「摂食障害」の道へ陥ってしまう人もいる。このような矛盾に満ちたメディアの情報は女性をいっそう苦しめているのではないだろうか。

 

第2節                           男性がつくり出す女性像

諸橋泰樹は、「美の基準はメディアが培養・レッテル貼りをし、その基準は男性のまなざしに等しい。」(1994、p139)と述べ、女性を「美しくなければならない」という意識に追い込んでいるのは、男性のまなざしであるとも指摘している。

 

1.男性支配のメディア

井上輝子は、「メディアが男性によって支配されているとき、メディアの描く女性像は、男から女への要求と期待の表現であり、その要求と期待を女性が内面化することで、女性自身の現実も男たちの要求と期待に沿うように方向づけられてしまう。」(1995、p2)と指摘している。

 

また鈴木みどりは「メディアからの情報に女性の真の現実を伝えるものが少なく、メディアが描く女性像が多様性を欠き、性差別にみちているのは、女性が男性と平等にメディアにアクセスできないからである。」(1997、p195)と指摘している。

 

実際にメディア産業界で働く女性の数は、ここ数年増えてきているとはいうものの、男性に比べ非常に少ないというのが実情であり、このようなメディアにおける女性の送り手の数の少なさも女性の対して偏ったイメージや理想像をつくり出してしまう原因でもある。

また出版社は新聞社や放送局などほかのマスメディア産業と比べ女性が多い職場である。それにも関わらず、やはり女性に対して偏ったイメージを送っている。このことは女性自身が男性の作り出した女性像をそのまま受け入れ、「あるべき女性像」として認識していることを意味しているのではないだろうか。

 

2.内面化

メディアが男性によって支配され、男性がつくり出した女性像が提示され、女性たちはその女性像を内面化する。つまり女性たちは男性が見るように自分を見るようになってしまうのである。そしてまた女性がほかの女性(または自分)に対して美しいと思うときそれは一度自分自身の視点を男性の視点に置き換え「彼女(あるいは自分)は男性から見ると美しいと思われるであろう、よって彼女は美しい女性である」と認識するのである。このように女性は男性の目を内面化してしまっているのである。

言い換えれば、常に女性は選別される側で、男性は選別する側なのである。そしてそれと同時の女性は女性自身を選別する側でもある。

 

第3節 女性と消費至上主義(コンシューマリズム)

1970年代以降、世界的に拡大した「消費資本主義」は日本において企業の側が「消費者」を徹底的に利用し利潤の拡大につなげるという形でより強まったと考えられる。「消費者」に対する高度な情報操作と情報管理により、同質性の高い日本社会にあって、人とのわずかな差異を強調する「消費者の欲望」を生み出したのである。

そしてマスメディアはそのような「消費資本主義」社会において、人々の欲望を促進する中心的な役割を果たすようになった。

とりわけ女性は、「消費者」として産業界とマスメディアの格好のターゲットとされ、消費社会化の能動的な担い手となっていった。

そして現在では「日本のマスメディアは、消費社会の欲望の創出に寄与すると同時に、自らもそのメカニズムに強くからめとられ、より「魅力的」であることを選択基準とした情報の提示に傾斜している。」(松村泰子、1998、p33)と指摘される。

 

今日私たちは、日常生活の中で多くのマスメディアに接している。テレビのCMや新聞、雑誌の記事や広告など普段何気なく見ているメディアには、多くのメッセージがこめられている。

特にその中でも女性雑誌のメッセージは、「美しさ」というものは生まれ持ったものでなくとも、消費によって入手可能であり、誰もが美しくなることができるというものであるといえる。

諸橋泰樹は「「美しいカラダ」や「結婚」や「素敵な生き方」といった新しいタイプの性役割や女らしさの演出は、消費によって可能であるというのが、女性雑誌の放つほとんど唯一のメッセージである。」(1993、p15)と述べた。

 

メディアによって提示された、男性から見た理想の女性像(若くて、スリムで「美しい」)に女性は同調するように仕向けられ、女性同士でお互いに競い合うようにけしかけられている。そして女性たちは、そのようなメディアに描かれる女性が、女性のあるべき姿だと思い込み、自身の姿をそれに近づけようと努力する。

そしてその努力を産業界は見逃さない。産業界は女性たちが美しくなろうとすることを支援する形でいろいろな製品・サービスを作り出し、メディアはその製品・サービスの宣伝を容姿の美しい女性のモデルつきで流付する。女性たちはその理想像にすこしでも近づこうとあらゆる製品を買い求め、その製品・サービスを買いさえすれば、自分もそのモデルのように痩せて、美しくなれると思い込む。

このようにファッション、化粧品、エステティック、美容整形などの産業界は、広告産業を媒体とし、雑誌などのマスメディアと相互に作用しあい、拡大しあっている。そして産業界とマスメディアの二重構造によって女性たちは“すべて消費によって解決される”「消費至上主義」(コンシューマリズム)の格好の対象とされている。

しかしマスメディアによって提示される女性像は、いつの時代も一定であるわけは無く、時代とともに、流行とともに移り変わる。その新しい女性像に、女性は自分自身を重ね合わせ、自己とそのモデルとの違いを発見する。違いを発見してからは、その違いを埋めようと努力する。そしてそれにあわせた商品・サービスも新しく作り出され、女性たちはそれを買う。またそのためには何か一つ買えばそれだけで美しくなれるわけではないとされ、化粧品であれば、ファンデーション、そしてその化粧下地、口紅、アイシャドウ、マスカラ等すべてがそろってはじめて美しさは満たされるのである。

この繰り返しが続けられていき、女性たちは知らず知らずのうちに「消費社会」(ボードリヤール)の中にとりこまれていく。

諸橋泰樹はこのような(メディアと女性のおかれている)状況を「「美しくなりたい」「痩せたい」ニーズが先にあるのではない。「美しくあれ」「痩せてあれ」「欧米的=進歩」の普遍主義、「太い脚は嫌いだ」「スリムな女性が好き」という基準と男性意識、商品・サービスが先にあってニーズが作られるのだ。」(1989、144)と指摘し「現代のジェンダーは、マス・イメージの水先案内人としての広告文化、消費文化によって作られるといって過言ではない。」(1993、p44)と述べている。

 

第4節 メディアに対する女性たちの動き

これまで見てきたように、メディアにおける女性の描かれ方、一般的な女性の価値観はステレオタイプ化し、女性を型にはめる傾向がある。

しかし女性たちがそれを鵜呑みにしているわけではなく、改善を求める運動などが行われてきてもいる。

 

1985年、ナイロビで開かれた「第3回世界女性会議」で採択された『女性の地位向上のための2000年へ向けた将来戦略』(The Nairobi Looking-Forward Strategies for the Advancement of Women)には「定型化された(ステレオタイプな)女性像の除去、女性の情報アクセスの容易化、コミュニケーション政策とその意思決定・メディア内容の作成・実施・評価などあらゆるレベルへの女性参加に、早急に取り組む必要がある。」(「開発・発展」の章)と記された。

 

そして日本でもメディアにおける女性への差別や偏見を無くそうと取り組む組織が出来てきている。その動きは1980年代中頃から起こり、「女性雑誌研究会」(1983年)、「コマーシャルのなかの男女役割を問い直す会」(1984年)、「女性と新聞メディア研究会」(1985年)、「出版女性の会」(1989年)、「放送を創る女性の会」(1989年)、「メディアの中の性差別を考える会」(1989年)などがその代表として挙げられる。

 

また放送メディアへの直接的働きかけの具体例としては、1989年、鈴木みどりら3名が世話人となった「マスメディアと人権」ネットワークによる、日本放送協会会長・日本民間放送連盟会長・民間放送各社社長に向けて提出された「放送に男女平等を実現するための要請書」がある。

その要請書の中には3点の措置をとるよう要請されており、そのうちの1つは「一、男女平等を推進するために、NHK番組基準、民法連放送基準に、次の内容を持った女性の人権に関する項、章を新たに設けること。/1.女性の人権を侵す表現、女性に対する差別を助長するような表現はしないこと/2.女性差別撤廃条約の基本方針の沿った女性の関心・意見を放送に反映させること。」とされている。そしてこの項目の中には「女性の価値として、若さや外見的な美しさをことさら強調すること」も含まれていた。