第1節 塾の定義と分類

 第1節では塾とは何であるかということを説明するために、「塾」そのものについての定義・どんな種類があるかについて述べようと思う。

(1)塾の定義

 ここではまずこれからこの卒業論文で使う「学習塾」という言葉の定義をしておこう。(社)全国学習塾協会(注1)による規約では、「学習塾とは、主に教室での授業を中心とした学習指導を行なう事業形態であり、小学生、中学生および高校生を対象として補習または進学指導を行なうものをいう」と定義されている。ここではこの定義を使う。

(2)塾の分類

 塾」と一口にいっても、その目的・性格・規模などは様々である。この第一節では「塾」を四つの形態に分類し、それぞれの定義を行ってみようと思う。この4つの分類とは国立教育研究所の結城忠・佐藤全・橋迫和幸ら3氏が行なったものである。この分類が現在最も広く使われている。

<1>進学塾

 文字どおり、進学を目的とした受験指導を専門に行っている塾である。進学塾の特徴としては、入塾試験があることが挙げられる。つまり、あるレベル以上の生徒でないと入塾できないシステムになっているのである。目的はあくまでも受験に成功するところにあるので、当然授業の難易度は高く、進度も学校よりもかなり速い。さらに定期的にコンピューターテストを行い、能力別にクラスを編成しているところも多い。使う教材も学校の教科書ではなく、塾用の受験専用テキストを使ったり、その塾のオリジナルテキストを使って授業する塾が多い。その上先取り学習であることが多いため、授業内容が学校にあわせたものでないので広い地域から生徒が集まる。1クラスの人数は20名前後から100名以上まで様々であるが、大勢の生徒を一斉授業で引っ張る形態がほとんどである。そういう形態のため生徒個人個人への指導というのは難しい。つまり生徒本人の努力が必要なのである。生徒は少しでも気を抜くと追いついていけないことが出てくるので、生徒にとっては予習を欠かすことはできない。授業の後の復習ももちろん大切であるので、塾のための家庭学習はかなりの量になる。
 次に進学塾を規模的にみると、1000名以上の生徒を集めている塾が圧倒的に多く、中には1万人や2万人といった生徒が在籍しているマンモス塾もある。さらには組織的には圧倒的に法人が多いのも特徴の一つである。それらの中には自社ビルをどんどん建てて、拡大している塾も出てきており、一般の企業と変わらない会社組織をとっているところもかなりある。進学塾は一般的に、教育理念よりも経営理念を優先しがちである。その経営理念というのは、「いかに多くの生徒を有名校に合格させるか」ということである。この進学塾の性格は、大都市と地方都市とではかなり違うのですべてがそうであるとはいえないが概要をまとめるとこのようにいうことができる。

<2>補習塾

 先に書いた進学塾に対し、補習塾は学校の授業についていくのに不安を持っている家庭の子どもが通う所だといえる。学校の授業の補習が目的なので、授業は学校で使っている教科書に沿って行われることが多いため地元密着型の塾が多い。一般に進学塾よりも小人数で授業をするため、かなりきめ細かな指導をしているところが多い。進学資料などに関しては、進学塾の豊富さと比べるとやや見劣りする場合がある。
 組織的には法人よりも個人の場合が多く、規模的にも生徒数は200名以下であるものがほとんどである。しかし、補習塾最近5・6年の傾向としてF・C方式(注2)の補習塾も増加してきた。普通、補習塾では経営者と塾長は同じで、塾長自ら教えている場合がほとんどであるが、フランチャイズ方式の学習塾は、経営者と塾長が違っている場合があり、経営者は直接教えないことが多い。昔は大手塾=進学塾、地元に密着した塾=補習塾という図式が成り立ったが、今はそうばかりとはいえなくなってきた。現代の補習塾は次のように2つに分類される。
補習塾→地元に密着した塾・・小規模経営がほとんど
   →フランチャイズ方式の塾・・全国展開をしている大規模な塾がほとんど
以上が補習塾についてある。

<3>総合塾

 進学に重点がおかれているが、成績が中より下の生徒には補習も行う学習塾である。その中では進学コースと補習コースがあり、生徒たちは学力に応じてコースを選択できる。入会テストでクラス分けが強制的に行われるところもある。組織的には、小規模なものから大規模なものまでバラエティに富んでおり、個人経営のものもあれば法人組織のものもある。そしてその人数は小規模の場合は100名程度、大規模のものの場合は1000名以上であることが多いようである。
総合塾は、小規模の場合は補習塾の形態に似ており、大規模の場合は進学塾に似ている傾向がある。

<4>救済塾

 今まで述べた進学塾・補習塾・総合塾のどれにも当てはまらない塾で、成績はあまりよいとはいえない子供達、勉強のやり方がわからない子供達、登校拒否などの子供達を対象にしているのが特徴である。あまり一斉授業はやらないで、個別指導に重点がおかれている。
 規模的には100名以下が多く、ほとんどが個人経営となっているから、地元に密着している塾が多いようである。このタイプの塾は塾長自身が、ある教育理念のもとに子供と接しているから、塾長のカラーがとてもよくでているのが普通である。
以上のように塾を4つの形態に分けたわけであるが、私たちが塾に対して持っているイメージというのは、これまでの通塾経験にもよるのだが、@の進学塾に対するイメージであることが多いよう思う。塾にもいろいろあるのだという確認の意味で塾の分類をここで行ったわけである。

第2節 塾が発展してきた経路

 次は「塾」というものがどういう経過を経て今に至るのかを第一次ブームが起こった1960年代からの歴史をみていくことで考えていこうと思う。

1960年代 成長期 

以上が1960年代の主な動きである。1960年は、先ほども述べた通り、「第一次塾ブーム」が起こり塾の数が急激に増えてきた時代である。
 1960年代はベビーブーム世代の受験があったため、高校の進学率も1950年が42.2%、1960年が57.7%、1965年が70.7%、1970年が82.1%と5年毎に急激にのびている。そのため、1963〜1967年の5年間に進学者数(合格者数)と志願者数のギャップも約10万人ほどと大きくなっている。この頃「受験地獄」、「受験戦争」という言葉がマスコミに出始める。つまり、進学したくても競争が激しいため行けない、人に勝たねばならない、人よりも勉強しなければならない、そういう要求から塾が増えてきたのである。
 この背景には経済の動きが密接に関係している。1960年は、年表にもある通り、高度経済成長が始まった年でもある。1960〜1965年までの経済成長率をみてみると、1960年が13.4%、1961年が14.4%、1962年(不況)が7.0%、1963年が10.4%、1964年が13.2%、1965年(不況)が5,1%と、年平均11.64%の成長率である。この経済成長は、日本の産業の中でも第一次産業(農業や漁業)を衰退させ、第二次産業・第三次産業の労働者層(ブルーカラーやホワイトカラーなどのサラリーマン)を大量に生みだした。このことは塾にどのように関係しているのであろうか。この労働者層というものに「学歴」が大きく影響しているという現状がそこにあったのである。企業に入る段階から賃金にまで「学歴」というものが影響してくるという独特な「日本型学歴社会」(注3)の中で、労働者層の人々は日本においての学歴の重要さを痛感したのである。そのような人々が、自分の子供になるべく高い学歴を身につけさせようとするのは当然のことであると思われる。それが進学率上昇の大きな要因になり、受験戦争がますます激しくなったことにつながっている。これは1970年代にひきつがれている。
 そして高度経済成長は、人々を豊かにした。そのことも塾がが発展した背景の1つであるといえる。これがどういうことであるかを説明していこう。高度経済成長により人々の生活は安定した。そして経済的余裕も生まれてきた。つまり、生活費以上の賃金をもらえるようになったのである。これは国民総生産(GNP)が増大してきたことからもわかる。そのため、労働する時間以外の時間、「余暇」というものが発生してくる。これが先ほど述べた「豊か」ということである。自由に使える時間・お金ができた時、人は何に価値を見出し、それを使うのか、、、日本の労働者層の多くの人が考えたのは、子供への投資だった、というわけである。子供に高い学歴をつけさせるため、よい学校にすすめさせるために子供を「塾」に通わせる親がでてくるというわけである。
 しかし、次々と開設される塾の中には世間から「子供に寄生する害虫」などといわれるものもあった。これを問題視した塾側の対応が年表でいう1960年の全国私塾連盟(注4)、1963年の杉並私塾会(全国私塾協会の前身)の結成であったのである。塾側も連携をとることでこの状況を乗り越えていこうとしたのである。これらの動きは1970年代に引き継がれていく。

1970年代 拡大期

以上が1970年代の主な動きである。1971年の「義務教育改善に関する意見調査」では、子供が授業を半分しか理解していないとする教師が小学校で65、4%、中学校で80、4%に達したことが判明し、「落ちこぼれ」が社会問題になる。その結果、第一節で分類した中の「補習塾」・「救済塾」がこの時期に多く設置された。そして1970年代の前半は、現在大手の進学塾が誕生した時期でもある。それまではほとんど個人経営だった塾業界に企業が参入し始めた時期でもある。いろんなタイプの塾が激増してきたこの1970年代を「第二次塾ブーム」という。企業が参入してきたことで、F・C式の塾というのもでてきた。当然、多くの生徒に対し一斉授業を行うというスタイルが多くとられた。現在私たちが持っている「塾イメージ」はこの頃に形成されたと思われる。そうした中、1976年に初めて文部省が「学習塾全国実態調査」に乗り出す。これは社会的に「塾通い」というものが目立ってきたためであろうと思われる。この結果は、通塾率は小学生では12%、中学生38%であった。1977年には、新聞に初めて「乱塾」という言葉が登場する。1960年代は、先ほど書いたように学歴を必要とする風潮がある中、塾数は少なかった。つまり、需要と供給のバランスでいえば需要の方が上回っていた時代だった。しかし、1970年代後半に入るとこのバランスが供給の方が上回りそのバランスが崩れてきたのである。これがいわゆる「乱塾時代」である。この状況はこの後もしばらく続く。

1980年代 定着期

1980年代は、いわゆる「塾の定着期」といえる。1970年代に起こった塾ブームは1980年代にも引き継がれ、1980年代も学習塾は増加し続けた。それを証明するのが、『事業所統計調査』のデータである。1981年は18683ヶ所、1986年では34367ヶ所、1991年では45856ヶ所と年々増えていった。この比率を都道府県別にみると、1981〜86年の5年間の地方における学習塾の増加率は100%を超える都道府県が26ヶ所と過半数を超えた。この増加には、1979年から実施された共通一次も少なからず影響している。つまり共通一次対策として、大手の塾や予備校は進学情報の蓄積と正確さを武器に生徒の信頼を獲得したのである。それに伴い中学生対応
の進学塾の進路指導も社会的に評価を得ることになった。さらに当時公立中学では校内暴力が問題となり、親達は公立校に対する不信感を抱くようになった。そのため首都圏では私立志向が強まった。こうした状況が塾の第3次ブームにつながっていくことになる。さらに、1980年代の後半には、生徒数の増加とともに塾や予備校が増え、塾の第4次ブームとなった。その大きな要因は、第1次べビーブーム世代の子供達が塾年齢に達し、塾に通う子供の数が 増加したことにある。
 1985年には、文部省が『児童・生徒の学校外学習活動に関する実態調査』を実施した。1976年の調査と比較して、小学生の通塾率は12、0%から16、5%へ、中学生は38、0%から44、5%へアップし、特に塾通いの低年齢化と地方での通塾率が上昇する傾向がみられた。この時期、公立校ではようやく校内暴力は収まったが、新たな問題としていじめがクローズアップされていった。このため、公立校への不信感がつのり、私立校への期待が大きくなっていった。その結果、有名私立への合格実績が高い進学塾はさらなる成長をとげることになり、店頭公開をする塾も出現するとともに、市場規模も1兆円となるなど、経済的な認知を受けるようになった。1980年代の塾ブームの背景には、民間活力の導入をバックアップする社会の風潮があったこともあげられる。こうして塾業界の拡大に伴い、その一方では塾に関する契約上のトラブルが年々増えた。このため学習塾の健全な発展と消費者の保護を目的とし、1988年に通産省の外郭団体として(社)全国学習塾協会が設立された。このあとも塾は私たちが知っているように成長を続けた。
 第1章では今までの塾というものについての概要をみてきた。この状況は1990年前半頃まで続いていた。この状況が目まぐるしく変わり始めるのは1990年後半からである。このころから塾に関する状況は変化し始める。第2章では1990年後半からの動きを「塾の現状」としてまとめようと思う。
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