第1章 地域おこしの中の地域間交流


第1節 地域おこしに至るまで

 まず、地域おこしが盛んに行われるようになるまでの変遷について述べようと思う。
 地域おこし(地域づくり)は国土計画と密接な関係があり、国土計画の枠内で地域づくりが展開されてきた。というのは、これまで国が圧倒的な優位性を持ち、地方はそれに従属させられていたため、好むと好まざるとに関わらず、地方は国の全体的な動向に強く規定され、地域づくりにも制約がつけられるのは避けられないことだった。
 戦前は、個別の地域や事業を対象にした国土計画(例えば、北九州における炭鉱を利用した鉄鋼業の振興や関東大震災後の区画整理事業など)はみられるが、全国規模の総合的な国土計画はみられない。戦後は敗戦による資源の減少や戦災による産業の荒廃、失業者の増加などの打開のため、資源開発や産業基盤の整備が政策の中心となっていた。
 しかし、1950年に国土総合開発計画が策定され、国土計画の基礎ができた。地域開発政策の本格化は1962年の全国総合開発計画からで、それ以前は進まなかった。さしあたって重点が置かれたのは特定地域開発計画であった。この特定地域の指定の基準は、「資源開発、産業振興、国土保全、災害防除等につき高度の総合施策により経済自立目標達成の効果の大きい地域」であり、21地域が指定されたが、大部分は後進農村地域で、工場立地条件整備のための地域は3地域だけであった。この特定地域の開発は、アメリカのTVA開発を模範としていて河川の総合開発を目的としたものであった。この開発により、後進農村地域の住民の所得水準を引き上げたり、電化によって生活を改善したりして、地域格差の是正をはかろうとした。しかし、この総合開発の結果は、事業が計画通りには進まず、朝鮮戦争によって産業政策の重点が農林業や地方軽工業から重化学工業に移った。
  1954年 総合開発の構想
  1957年 親長期経済計画
  1960年 国民所得倍増計画
1957年の親長期経済計画は、公共事業の重点を産業基盤の育成に置いたため、公共投資は先進工業地域にまわり、特定地域開発には十分支出されなくなった。1960年の国民所得倍増計画は、京浜・中京・阪神・北九州の四大工業地帯を結ぶ太平洋ベルト地帯に新しい工業地帯をつくり、生産単位の巨大化と企業のコンビナート化に対する方針をうちだし、コンビナート中心の地域開発が盛んになった。この太平洋ベルト地帯の開発構想によって、工業地帯以外の所得水準が上昇し、地域格差が緩和すると考えていたが、実際は、大都市への人口集中が促進され、公害も大きくなっていった。
 また、東京一極集中との関わりを考えると、東京一極集中の原因は東京における市場性、情報化、国際性が抜きんでているためと考えられるが、それに至ったのは、国土計画において、公共投資先をハード面ばかりにし、人々に生活の豊かさを保障するソフト面、すなわち市民の生活論理に基づいた政策についてはほとんど触れていなかったため、東京がソフト面を独占する状況が続き、それを求めた人々や企業が東京に集中したと考えられる。このため、政府は大都市の過密化・過大化を防ぎ、地域格差の拡大の是正を目的にかかげた全国総合開発計画を策定した。
  1962年 全国総合開発計画
   基本目標)地域間の均衡ある発展
   開発方式)拠点開発構想
 拠点開発構想とは、重化学工業の臨海コンビナートの立地可能地点において、将来、地域の中枢主導的役割を果たしうる地方都市を開発拠点とし、拠点地域の開発効果を周辺地域に波及させること、重化学工業を拠点産業とし、開発効果を他産業に波及させることで、地域全体の所得水準をあげること、を狙いとするものであった。そして、この拠点地域が新産業都市と工業整備特別地域と呼ばれるものである。1962年に新産業都市建設促進法が、1964年に工業整備特別地域整備促進法が制定され、それらに基づいて、新産業都市として15ヶ所、準新産業都市ともいうべき工業特別整備地域として6ヶ所が指定され、大規模産業拠点が全国に分散された。しかし、大規模産業拠点を分散させることによって、資本と人口を分散させ、過大都市問題と地域格差を解消させることは、1965年の国勢調査で失敗が明らかとなった。三大都市圏に5年間で約550万人の人口が増加し、関東・東海・近畿以外の地域では、北海道・宮城・石川・広島の4道県でしか人口が増加せず、ほとんどの地方都市や農村では人口が減少し、過密化・過疎化が拡大し、地域格差が深刻となった。また、公害が激化し、農業や漁業などの第一次産業が衰退し、地方財政が悪化するなどの影響がでた。
  1969年 新全国総合開発計画
   基本目標)豊かな環境の創造
   開発方式)大規模プロジェクト構想
 新全国総合開発計画は、日本の国土を、三大都市圏を含む中央地帯、日本海側と東北・北海道で成り立つ北東地帯、四国・九州で成り立つ南西地帯の三区分にわけ、中央地帯には中枢管理機能や都市型産業を集積させて、都市的機能を純化させる。また、これに対して北東地帯・南西地帯は巨大産業基地・観光地として特化させ、地域的分業化をより徹底させようとした。そして、分業化された各地域を短時間で結合するために、大型の交通・通信ネットワークを張り巡らせようとした。これによって、過疎地域に住む人々は、簡単に過密地域に集積された都市機能を利用でき、格差意識が解消できると考えたのである。では、結果はどうであったのか。
 実は新全国総合開発計画は、そのスタート時から厳しい批判にさらされていた。すでに全国総合開発計画の拠点開発地域である茨城県鹿島や三重県四日市市では、コンビナートの進出により農業や地域生活が壊され、公害が問題となっているにもかかわらず、さらに重化学工業を中心にした開発が進められ、各地域で環境が壊されていった。そして、各地で地域開発に対する住民側の抵抗が強まり、新全国総合開発計画に対する批判も活発化していった。この頃、田中角栄氏の日本列島改造論が登場した。これは、1968年に自民党が発表した「都市政策大綱」が前身となっており、枠組みは新全国総合開発に基づいていた。内容は、過密に悩む住民には経済の集中にかえて分散をしめし、過疎に悩む住民には、内陸工業基地である25万都市構想を示すのである。25万都市構想とは、地域格差是正の拠点として、工業再配置によって中小規模の産業基地をつくり、そこに25万都市を建設することで、一見すると、従来の地域開発とは違う新鮮な感じを与えているのだが、開発の思想は従来の地域開発の思想に基づいていて、日本列島改造事業を国民の手ではなく財界の手にゆだね、総合的な開発政策ではなく産業政策なのである。そして、この日本列島改造論が土地ブームをあおり、異常な土地投機による地価暴騰を招き、各地で環境・生活破壊が進行し、新全国総合開発計画は大規模プロジェクトが具体的に動き出す前に見直しを迫られることになった。1973年に発表された「土地問題」の総点検では、地価の高騰が土地の資産価値を増大させた反面、所得配分の著しい不均衡をもたらしたり、公共用地の所得を難しくさせたこと、大都市でスプロール現象を進行させ、土地の有効利用を妨げていることなどが指摘された。続いて1975年に発表された「地方都市」の総点検では、過去の国土開発が、巨大都市と地方産業都市とのネットワークづくりに偏ったために、各地方都市が個性を失い、地方都市本来の良さがなくなってしまっていると反省しており、1977年に発表された「工業基地」の総点検では、環境問題や住民意識を無視して大規模工業開発を建設するのは不可能であるという判断で貫かれていて、新全国総合開発計画が掲げていた方向の大きな軌道修正を明らかにしていた。
  1977年 第三次全国総合開発計画
   基本目標)人間居住の総合的環境の整備
   開発方式)定住構想
 第三次全国総合開発計画は、新全国総合開発計画の反省の上に策定されたものなので、主要計画課題も新全国総合開発計画とは異なったところに重点を置いたものだった。第三次全国総合開発計画では、環境問題がトップに据えられ、次いで災害に対する国土保全と利用があげられ、国土開発においてようやく暮らしやすさや住み良さが見直されるようになった。開発方式である定住構想については、地域社会の活力が生かされるように、自然環境や生活環境、生産環境の調和がとれている居住環境を整備して魅力ある地方都市をつくり、地方での人口の定住を促進しようという構想である。そして、この構想を推進するために定住圏を設定する必要があるとした。定住圏とは、都市・農山漁村を一体として山地・平野部・海の広がりを持つ圏域で、地域開発の基礎的な圏域であるとともに、流域圏・通勤通学圏・広域生活圏としての生活の基本的圏域であり、この定住圏の実施主体は市町村であるとした。1979年のモデル定住圏計画策定要綱に基づき、40圏域がモデル定住圏の指定を受け、「地方の時代」が広くうたわれることになった。しかし、第三次全国総合開発計画は計画期間の途中で打ち切られることになった。というのは、産業構造の変化や人口動向の高齢化によって、第三次全国総合開発計画における想定が実態とずれてきたからである。また、東京圏への集積強化により、都市機能の一極集中と人口の再集中が顕著となり、第三次全国総合開発計画は実質的な成果を得ないまま、次の第四次全国総合開発計画へと受け継がれていった。
  1987年 第四次全国総合開発計画
   基本目標)多極分散型国土の形成
   開発方式)交流ネットワーク構想
 第四次全国総合開発計画は、1987年に閣議決定する前、策定作業中に様々な経緯があった。1986年、当時の国土庁長官である綿貫氏が、第三次全国総合開発計画の定住圏構想を継承し、それに広域交流という微調整をほどこした第四次全国総合開発計画の事務レベルの原案を、当時の首相である中曽根康弘氏に報告したところ、中曽根首相が三つの指示を行った。一つ目は、第四次全国総合開発計画は官僚的な作文ではなく、実効性のあるものにすること、二つ目は、国土計画の基本は東京・大阪などの大都市圏問題にあり、特に国際都市東京の地位と機能を明確化にすることが計画の課題であること、三つ目は、多方面からの意見を聞くべきであることで、この発言を受けて国土庁側は再検討を行った。国土庁は、長官の私的懇談会として国土政策懇談会を発足させ、改めて検討を行い、1986年に中間報告である「四全総調査審議経過報告」を発表した。中間報告では、国土政策推進上の基本的視点として、(1)世界に開かれた国土、(2)生活の質的向上を支える国土利用、(3)適応性と活力に富む国土形成、を重視しており、特に(1)においては「東京は、環太平洋地域の拠点という地理的位置からも、世界の中枢的都市の一つとして、国際金融、情報機能の巨大な集積が予想され、世界的な交流の場としての役割が重大する。このような役割にふさわしい業務、居住環境を整備することは、21世紀へ向けての国土政策上の重要な課題である」と、東京を重視している。また、多極分散型国土の形成も指摘しており、「多極分散型国土は、生活の圏域(定住圏)を基礎的な単位とし、さらに、中心となる都市の規模、機能に応じて定住圏を越えて広がる広域的な圏域で構成され、それらは重層的に重なり合った構造をもち、ネットワークを形成する。この場合、東京圏をはじめとして、関西圏、名古屋圏、さらには地方中枢・中核都市を中心とする広域的な圏域が全国的に連携することとなるが、地方中心・中小都市圏の中でも技術、文化、教育、観光など特色ある機能に応じて、日本全国あるいは世界との関係を持つものが数多く出現する」と述べられている。しかし、この中間報告は多極分散型の国土を基調としながら、「世界の中枢都市としての東京圏」の整備を打ち出したため、1987年に国土庁が第四次全国総合開発計画に対する地方の意見を聞くために行った地方振興懇談会において、地方の反発が噴出した。結局、この地方の声を反映させて「東京重視」を後退させ、「多極分散国土」を形成することを目標にまとめ、予定より大幅に遅れてスタートした。そして、1988年、多極分散型国土形成促進法が制定され、都道府県、または政令指定都市が振興拠点地域基本構想を作成し、主務大臣に承認されると、税制上の措置や資金の確保措置、地方債の特別措置などの支援措置を国から受けることができるようになった。しかし、その後、第四次全国総合開発計画によって東京一極集中に何らかの歯止めがかかった形跡はない。
 このように、これらの計画は、過密化による都市問題や過疎化による農村問題を同時に解決しようという意図で立案されたにもかかわらず、産業化や工業化を基軸としているこれらの計画は、その反動として、公害問題や環境問題などの新たな問題をもたらした。その結果、地域開発は環境保全や都市アメニティ(都市の生活的快適性)の充実を目指した開発へと転換していくことになる。そして、地域開発計画への住民参加が求められるようになり、それによって、地域社会の住民の意思が反映され、地域住民にとって望ましい地域づくりが必要となっていった。
 1988年 自ら考え自ら行う地域づくり事業(ふるさと創世1億円事業)
1987年に策定された第四次全国総合開発計画においては、計画実現のための主要な施策の一つとして、「個性豊かな地域づくりの推進」が掲げられており、そのなかで、多極分散型の国土づくりを進めるため、「地域特性を生かした個性豊かな地域づくりを進める必要がある」との認識に立ち、そのためには、「各地域において、他地域とは異なる個性を創り出していくための戦略的な事業に取り組むことが有効である」としている。また、「各種施設の整備に加えて、イベント、交流、組織づくり、広報活動などのソフトな事業手法の活用や第三セクター、協議会などにより、地域の住民、企業、団体をはじめとする多様な主体の参加を図ることが効果的である」としている。このように、多極分散型国土の形成という大きな課題の中に、個性的な地域づくりの推進は中心的な役割を果すものとして位置づけられていた。また、当時の内閣総理大臣であった竹下総理は、「ふるさと創生」を政策理念として唱えていて、1987年の所信表明演説においても、「すべての人々がそれぞれの地域において豊かで、誇りを持って自らの活動を展開することができる幸せ多い社会、文化的にも経済的にも真の豊かさをもつ社会を創造することを目指す」ことを表明した。このような背景によって、ふるさと創生1億円事業は「自ら考え自ら行う地域づくり事業」として自治省から発表された。「自ら考え自ら行う地域づくり事業」は、これまでの「国が考え、地方が実行する」という在り方から、「地方が知恵をだし、中央が支援する」という従来とは異なった発想に基づいて、全市町村を事業の実施主体として、昭和63年度から平成元年度まで実施された。そして、それぞれの地域における多様な歴史、伝統、文化、産業などを生かして、独創的で個性的な地域づくりを行うために、各市町村が自ら考え、自主的に事業内容を決定することが出来た。財源としては、地方交付税で一市町村あたり一律1億円(昭和63年度補正措置で2000万円、平成元年度当初措置で8000万円)を措置した。これは、「自ら考え自ら行う地域づくり事業」が全国各地における自主的・主体的な地域づくりへの取り組みを支援し、「ふるさと創生」の起爆剤となることを期待したものであるから、小さな村も大きな市も同じスタートラインに立って、各地域が競って自らの地域づくりを考え、実践することを期待して、財政力や人口規模に関係なく一律にしたわけで、各市町村の人口や面積など様々な指標に着目して、それぞれに応じた財政措置をした従来の発想とは全く異なったやり方であった。しかし、当時はこの1億円事業に批判的な意見も聞かれ、例えば、「人口の多い市町村が人口の少ない市町村と同じ1億円ではおかしいのではないか」とか、「とにかく1億円を渡そうという発想は無責任」とか、「スローガンだけで中身のない政策」など様々な議論があった。また、配分された1988年度611億円、1989年2489億円、合計3100億円はもともと1987年度地方交付税剰余金1兆808億円から出されたもので、本来なら地方交付税特別会計に組み込み、財政調整的に各自治体へ配分すべきものであり、消費税導入やリクルート事件などで地に落ちた政府の人気取り政策として特定目的に使うべき筋のものではなかった。実施している間も、「自力ではアイデアが浮かばないためコンサルタントに依頼する自治体もある」などの声もあったが、実施した後ではほとんど批判は聞かれなくなり、むしろ継続すべきであるとの声が圧倒的となった。
  1990〜1992年 地域づくり推進事業
1億円事業を契機として、各地域で個性豊かな地域づくりへの取り組みが盛んになってきたため、自治省では1億円事業によって盛り上がった地域づくりをさらに永続的な取り組みへと発展させていくために、平成2年度に「ふるさと1兆円構想」を推進することとした。「1兆円構想」は、「ふるさと創生」のいっそうの推進を図るため1億円事業をソフト面とハード面の両方からフォローする「地域づくり推進事業」や、ふるさとづくり特別対策事業、ふるさと市町村圏、ふるさと融資事業などによって、総額1兆円を超える規模の支援策を展開するものであった。
 地域づくり推進事業は、1億円事業を契機とする地域づくりを永続的な取り組みに発展させるとともに、1億円事業で出された構想やプランを実現するための支援策として、平成2年度から平成4年度までの3年間を対象として設けられた制度であり、ソフト面とハード面から総合的な支援策が講じられている。まずソフト面については、1億円事業を契機とした各種事業に必要な経費を総額3300億円の交付税措置で行うこととした。ただ、1億円事業のように、一律に措置するのではなく、市町村の人口規模などを考え、約6000万円から1億6000万円の幅を持って各市町村に配分した。ハード面については、地域づくりの推進に必要と認められる公共施設整備にかかる単独事業について、地域づくり総合整備事業債・地域づくり事業分を許可し、その元利償還金について、後年度財政力に応じて30%から55%に相当する額を交付税措置するとともに、事業費の15%を当該事業実施年度に交付税措置を講じた。なお、このハード事業の支援のやり方は、1988〜1990年の「ふるさとづくり特別対策事業」と類似しており、「ふるさとづくり特別対策事業」は、都道府県単位でみて必要があると認められる一定規模以上の面的整備事業が中心であったが、「地域づくり事業」は、市町村において1億円事業を永続的な取り組みに発展させていくための事業であるという違いがある。
  1993〜1995年 ふるさとづくり事業
地域づくり推進事業は、平成2年度から4年度までの事業として実施されたが、全国の地域づくりの取り組みに対する支援の要望は引き続き強く、平成5年度以降において、引き続き支援を行なうことが期待された。そこで自治省は、平成5年度から新たに「第二次ふるさとづくり」を推進することとし、その中核となる事業として「ふるさと事業」を創設することとした。ふるさとづくり事業は、平成5年度から平成7年度までの3ヶ年間を事業期間とし、地域づくり推進事業を踏襲しており、ソフト事業に対する地方交付税措置を行なうとともに、ハード事業に対しては、地域総合整備事業債・ふるさとづくり事業分による支援と地方交付税の事業費補正による財政措置を行なっている。
 以上のような流れによって、現在のような地域おこしを積極的に行なっていこうという気運が高まっていった。しかし、地域おこしと一言でいってもいろいろな形の地域おこしが存在している。では、地域おこしを分類するとどのような分類になるのだろうか。

第2節 地域おこしの分類

  • 地域産業振興型
  • 社会生活環境整備型
  • イベント型
  • 地域間交流型
  • 人材育成型  今回の調査対象である富山県山田村(詳細は第2章)は、最初、「地域間交流型」に属すると考えていた。というのは、第2章でも詳しく述べるが、山田村はインターネット導入によって全国的に有名になった地域である。そこで、インターネットがネットワークの輪を広げ、交流が生まれ、地域が活性化する(交流という字面だけを見る)と考えると、「地域間交流型」に属すると考えられるからである。しかし、上記の「地域間交流型」の定義から考えると、山田村の地域おこしは「地域間交流型」のカテゴリーからはずれているのではないか。というのは、「地域間交流型」は‘地域’と‘地域'の間の交流であるが、山田村の場合は、インターネットを使っているため‘個人'と‘個人'の交流になるためである。では、山田村の地域おこしは地域間交流型に含めるべきではないのだろうか。これについては、第3章の調査以降に述べるとして、ここでは地域間交流についてもう少し詳しく述べていこうと思う。

    第3節 地域間交流の系譜

     地域間交流が地域振興・地域活性化の手法として注目されてきたのは、次のような背景からである。
  • 昭和30年代
  • 昭和40年代
  • 昭和50年代  以上のような経緯で地域間交流が注目されてきたわけだが、次は具体的な事例をだして地域間交流の流れを見ていこうと思う。
     高度経済成長期のはるか以前から、日本では都市・農村・山村といった系統にはっきりとわかれて住み、農山村から都市への一方通行の人の流れがあるだけであった。この一方通行の流れは、農山村の跡取り以外の子供が労働力として都市へ入り込む流れであって、それらの間に交流はあまりなかった。多くの人を農村から吸収し、都市が順調に発展していく一方、集落を単位とする農村社会は強力に生き続けてきた。しかし、日本の社会は、高度経済成長期における都市周辺の都市化と地方における過疎化により、変化を迫られた。そこで、地方は事態を自力で打開することを考え、都市と農山村が互いに協力し、パートナーになるということに着目した。仕掛けをしたのは、過疎化に悩む農山村がわずかに早かった。
     昭和49年、オイルショックの翌年、福島県三島町が「ふるさとのない人にふるさとを」・「過疎の町に光明を」というスローガンをかかげ、特別町民を制度化した。たとえ町に住んでいなくても、特別町民ということで三島町を自分のふるさとと考えてもらおうというこの提案は、都市に住むゆとりとうるおいを願う人たちにとって魅力となった。この特別町民制度は、やがて「ふるさと運動」として全国各地に広がった。都市に住む人たちにとって、この呼びかけはゆとりとうるおいにつながったが、一方で、人口の少なくなったところには、にぎわいとか活力をもたらすという意味が生じた。「ふるさと運動」は、一見すると「地域間交流型」の「地域間交流」とは異なるような気がするが、農山村という過疎に悩む地域が、都市という地域と、特別町民制度という独自の手段を用いて交流を行い、活性化を図るという意味で地域間交流に含めている。そして、「ふるさと運動」は50年代半ばになるとさらに一段と盛んになり、提供するメニューも多彩になり、はじめの頃のねらいだったゆとりとうるおいを求めることから特典のメニューに関心が集まり、地元もそれを競うようになった。しかし、この運動が都市と農山村との橋渡しをし、地域間交流の新たな展開につなげた意味は極めて大きい。
     「ふるさと運動」は、ふるさとを持たない都市の人に新しいふるさとを提供するのがねらいであったが、その一方で、財産というものを持たない都会に住んでいる人たちにそれを提供しようという運動も、50年代初め頃から始まった。昭和52年、島根県隠岐島の布施村が「ふるさとの森づくり」の運動を始めた。都会の人に村有林である山村に投資してもらい、30年後に伐採し、売却代金を村と折半しようとしたのが村のえがいたアイデアであった。村は、投資をした人たちに「特別村民証」をつくって渡し、村の特産物を送り届け、それに応えて投資をした人たちも村を訪れ、村の人との交流が深まった。この事業(正式には特定分収契約事業)も急速に全国各地に広がり、いろいろと工夫を凝らすところも増えた。50年代半ばになると、農山村では、地元の特産物を積極的に都会に向けて売り込む機運が高まり、自力で販路を開拓し、それによって特産物だけでなく、町そのものをPRし、イメージアップにつとめ、都会の人たちの関心を引き付けて、過疎の町に新しい活力をもたらそうとするところが多くなった。そのきっかけとなったのは、山形県西川町が57年から始めた「ふるさとクーポン販売事業」だった。前金制で会員を募り、四季折々の特産物を年に数回届けるだけでなく、四季の集いを企画して会員を町に誘った。地域間交流は都市と農山村の間だけにとどまらず、そのワクを越えたところでも盛んになった。特に、都会から離れ地方の町や村同士の間でも、互いに連絡を取り合い、交流し、ときにはいっしょに力を合わせて活動するようにもなった。57年、広島県総領町に「過疎を逆手にとる会」が誕生した。「過疎のマイナスイメージといわれている廃校や廃屋などを逆手にとって、都会ではできないまちづくりにチャレンジしよう」と呼びかけたこの会は、過疎化に悩む町や村の人たちには新鮮なアピールと映り、全国各地から人々が参加した。この会は、また、新しい地域間のネットワークを生み出す契機にもなった。同じ町名の縁を活かした交流が盛んになり、例えば、全国の池田町が集まった「全国池田町サミット」が開催されたりした。地域間交流は、このように都市と農山村との間から、都会を離れた地方と地方のネットワークへ広がった。また、地方の都市、町村が独自の分野でリーダショップを発揮し、そこに全国各地の芸術、文化、作品などを集め、にぎわいと活力を再生させる運動も盛んになった。
     現在は、「地域を訪れたり、何らかの形で地域とつながりを有する人口・機会の増加が、その地域の雇用の創出、特産品の発見、販路拡大などの経済効果をもたらすほか、人的ネットワークが形成され、地域の活性化にも寄与する。さらに、交流が様々な分野で積み重ねられることにより、多様で特色ある国土・風土が成り立つ」ということで、交流を通じて得られる効果は大きいことから、国土庁地方振興局では交流を支援する施策を講じている。
     では、次の2章では山田村についての概要を説明する。


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