第5章 総括


 人間が生存する限り自然への働きかけが続き、この働きかけが「利用」と「隔離」なのである。現在、人間の「利用」が問題になっており、地域規模から地球規模へと問題は移り変わっている。人間の行為が、環境に影響を及ぼし、人体に影響がでてきて始めて環境運動が波及するようになった。反公害運動から自然保護運動へと移行し、自然保護運動による諸悪の根元である人間の排除がいろいろなところで展開されている。新しい社会運動として始まった自然保護運動は、目的を人間の排除におき、住民主体となって展開し社会メカニズムの変革を求めている。また、環境問題の中には社会的ジレンマという構成員一人一人の問題を含み、問題がかなり複雑化している。社会的ジレンマの解決の方策として、「隔離」を目指す運動から「利用」を目指す運動への変換が求められるのである。
 「利用」を目指す運動は、その「隔離」という行為の誤りの中で気づかれた運動である。一般的に負のイメージの強い「利用」を行うことによって、自然を守っていこうというものである。負のイメージが強いのは、「利用」による自然の破壊が大きく、社会システムの変革が求められがちであるからである。自然の「利用」を目指す運動においては、「自然」を「守る」というよりも、「つながり」の理解を目的としている。ここでいう「自然」とは、Yさんが言うように、生態系が存在している場所すべてである。里山トラストでは、自然環境という分類がない変わりに、自分以外のすべての事象を含んだ環境という言葉にすべてを集約している。そのような考えの中での「自然」は本来、「切れる」べきものではない。「切れず」に「利用」することで、自然との「つながり」を理解し続け、「自然」とつながっていくのである。そこには、第一章であげた自然の三つの価値が存在し続ける。逆に、三つの価値の理解は、自然の「利用」の仕方を学習することが可能である。
 このように考えると、「自然」を「守る」運動つまり「隔離」を目指す運動は、自然と「切れている」、「切れようとしている」人間が行う運動である。この運動の普及は、自然と人間の関係を曖昧にさせ、対象化された「自然」以外は軽視されることが多い。また、「自然と切れている」ことの認識不足は、人間同士の対立を招く。地域で開発をめぐって開発を支持する地域住民と開発を反対する都市生活者の対立が起きる例は多々ある。これは、自然と人間の「切れている」度合いの違いによるものであろう。
 「里山トラスト」には、矛盾が見られたが、他の団体に与えた影響は大きい。里山と都市生活者とを自然を「利用」するという形で関わりを持たし、自然との「つながり」の理解が、一般的に言われている「自然を守る」という行為につながるということを示唆したこと、また、「自然を守る」行為においての山村文化の重要性を説き、可能性を証明したことに里山トラストの存在の意義がある。「自然を守る」運動の行動自体が、自然を「利用」すると言う行為に結びつかなければ自然を維持していくことは難しい。人々にそのような意識がない限り、堂々巡りの自然の「隔離」が行われると考えられる。
 飯島が分類した第四のタイプは、現在においてほとんどが「隔離」を目指していると言っていい。しかし、平成九年版環境白書には、環境学習の重要性を訴える節を設け、自然とのふれあいを目的とした活動の重要性を述べている部分がある。(1997、p304〜p308、環境庁)。「近年は、植林などの実践的活動に加えて、環境保全活動を現地住民が主体的に行うことを目指した環境教育や環境学習を併せて行う事例が目立っている。」(1997、p322、環境庁)ように「隔離」から「利用」へと活動の目的を変換している団体が多く、「利用」の概念が全国に浸透していると言っていい。自然保護運動に従事している人にも自分の生活がある。その生活と自然との「つながり」の理解や自然を如何に「利用」することができるかが今後の課題であると思う。里山トラストのような団体は運動の現状はさて置き、今後の自然保護運動の試金石となるのではないであろうか。これからは、自然に対する意識の高揚を訴える啓蒙的な運動が増えていくことが予想される。人間の「利用」に対する認識が、自然を守ることへと繋がるからである。


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