第4章 総括と今後の課題


(1)総括

 これまで私が述べてきたことは、視点が二転、三転してきたように思うので、ここで整理して論点をまとめることにする。
 まず第1章では、「いじめ」が学校内部ではごく当たり前に起こっている現象である、という視点で論じた。つまり、「いじめ自殺」という事件が起こって様々ないじめ論議が生じているが、メディアで大きく取り上げられたその時期のみ問題になっているのではなく、その事件と事件の間の、社会的関心の薄れている時期(「いじめ潜伏期」と呼ぶことにする)も、学校では「いじめ」が起こっていたのである。それは「万引き」の例を考えてもらえばわかりやすいだろう。「万引き」は中高生の間ではそう珍しいことではなく(厳密な調査をした訳ではないが)、ニュースとして取り上げられることはほとんどない。「被害額が大きい」「死傷事件があった」などの我々が通常予想しうる「万引き」の限度を超えた場合のみであろう。
 したがって、「いじめ」においても同じことがいえ、発生件数や社会の関心の大きさだけではいじめ問題を論じることはできないのである。
 第2章では、学校現象である「いじめ」が、なぜ社会問題として位置づけられるようになったかという点で論じた。社会問題としての「いじめ」の特徴に、その内容に犯罪行為に該当する点が見られることが多い。つまり、それまで学校・親・生徒の間で許容範囲にあった「いじめ」行為が限度を大きく超えてしまったためというのである。(生徒の許容の限度がそれまでより低くなった可能性も考えられるが、これを示すデータがないので今回は対象外とする。)そこで、下村の「いじめ=犯罪」論を出したのだが、これにも疑問の残る点がある。「昔もいじめはあったが、今ほどひどくはなかった」という大人の意見が聞かれる。しかし、このような意見は「今」のいじめを語るには無意味なように思う。その理由として、第1に何十年も前の記憶を頼りにしている点である。第2にその昔に経験した「いじめ」を、大人になった現在の自分の価値観で論じている点である。この2つの点からでも、昔のいじめを美化していると言われるのも無理はない。したがって、昔のいじめに下村の指摘したような犯罪行為にあたるいじめがなかったとは言い切れない。むしろ、あった可能性が高いのではないだろうか。
 以上のように考えると、「いじめ=犯罪」論というのは「昔と今」の比較不確定要素が大きいと言わざるをえない。したがって、次に考えられるのがマスコミの情報操作、イメージ形成である。徳岡の指摘するように、我々はマスコミに対して過剰に反応している。オイルショック、グリコ・森永事件、輸入米騒動など、マスコミの流す情報によって我々が振り回されてきた事例は数知れない。そのマスコミの影響を事例を通して検証したのが第3章である。
 いじめ自殺が報道される時、遺書の有無がまず大きなポイントになっている。いじめ自殺の場合、「告発」的内容の遺書が残されることが多いため、マスコミに公開されることが多い。しかし、遺書がなかった場合、「家族が普段の生活の様子からいじめがあったと思われる」、又は「すでにいじめについて学校側と相談していたが、改善されてなかった」などの状況があれば、家族は自殺の動機がいじめにあったのではないかとの見方を示し、学校に真相究明を依頼したりする。また、学校側の調査不足、家族の依頼への対応自体が納得いかない(示談が成立しないなど)事例では、民事裁判を起こしたりしている。
 以上のような事例、特に裁判が絡んでくるケースになると、マスコミの報道が大きな影響力を帯びてくる。例えば、大河内君の事件のように学校で暴力・傷害・金銭を脅し取るなどのいじめがあったと報道される。そうした場合、我々のいじめ認識からすると、「いじめが彼を死に追いつめたのだろう」といった論調になってくるだろう。しかし、こうしたいじめと同時に、家庭内で勉強のことを激しく叱責されていたり、邪険にされていたとしよう。そのような家庭状況をマスコミが知らず(家族がそういった状況を黙秘してたりなど)、学校だけに責任があったという報道をしたならば、学校への批難が集中するだろう。また、これとは逆に学校の状況があまりわからず、家庭のことばかり報道し、「いじめがあったのは事実だが、自殺の動機は家庭にあった」という世論を生み出すことも考えられる。したがって、マスコミの報道にはより慎重かつ綿密な取材が不可欠で、さらに取材によって得た情報に対しては客観的で、中立な報道が求められる。

(2)今後の課題

 私は今回新聞というメディアを用い、いじめ自殺報道について検証を試みた。その中で、最も気になったのは「客観主義」の難しさという点である。結局のところ、民間企業によって新聞は発行されているのである。営利を求める民間企業は業績を上げることを第1の目標に掲げる。したがって、「新聞の客観主義は、何より、その営業的な目的、つまり発行部数を増やすことのために設定されたことであることは周知の事実である。特定の党派に属さないことは、何より多くの読者を獲得するために不可欠の要請なのである。」(渡辺 1989 195頁)と言われるように、建前としての「客観主義」は存在しているが、紙上に現れているかどうかは別問題なのである。これは新聞だけのことではなく、マスコミ全体に言える傾向がある。自社がスポンサーを努めるスポーツチームに対しての記事と、自社に関係のないチームの記事には差が出てくるケースがあるのも当然である。
 以上のようなマスコミの特徴を認識した上で我々が考えなければならないのは、マスコミの「いじめ自殺」などに見られる強い状況規定の性質を持つ表現を受け取る側の、我々自身である。多様な表現による報道の内容を本質的に見抜き、解釈する多角的な視野が求められる。報道の中に見えている事実を、実際に起きている事実だと誤認する危険性がマスコミの中に潜んでいる。だからこそ我々はマスコミの報道方法・表現・内容などに対する監視の義務があるのである。

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