第3章 事例分析<新聞記事から>


 前章ではマスコミのマイナス効果について論じてきた。というのも、いじめに関連した報道ではマイナスイメージの、事件性の高いものが圧倒的に多いからである。さらに、社会問題としていじめが認識されるようになった要因にマスコミの影響があることも述べてきた。本章では事例を挙げながら、実際にはいじめ自殺の報道にどのような効果があるのか、適切な報道であったか、特徴があるのかを分析していく。
 なお、調査の対象とするのは数あるマスメディアの中から新聞記事を選んだ。(理由として、映像資料は入手が困難であること、逆説的に言えば、新聞記事は入手が比較的容易であった。)

  調査対象:日経四紙・朝日・読売・毎日・産経・中日新聞(それぞれ朝・夕刊)
  調査方法:「日経ニュース・テレコン」による新聞記事検索
  調査期間:1985年〜1997年12月まで
  キーワード:「いじめ自殺」

 以上の条件で検索した結果、数百件の記事にヒットし、その中から同じ事件で、その記事内容がほぼ同じものは調査対象外とした。

(1)前期に見るいじめ自殺

 全般的に遺書を残した自殺の場合、紙上での扱いが大きく、識者のコメントも一緒に掲載される場合が多い。また、いじめの内容に特徴のあるケースは詳しい報道になっている。その代表的な例として、86年の鹿川君の例がある。その概要は以下の通りである。
 「昭和61年2月1日、中野富士見中2年の鹿川裕史君が、ツッパリグループのリーダー格2人を名指しして『このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ。もう君達もバカなことをするのはやめてくれ』という遺書を残し、首つり自殺した。通学当時追悼の色紙に担任や同級生が寄せ書きし、机に花や線香を添えた。『葬式ごっこ」』も行われていたことも発覚し、教育関係者らに衝撃を与えた。」(92年3月27日・東京読売・夕刊)
この事件の特徴として、
 @「葬式ごっこ」という教師も参加したショッキングないじめがあった。
 Aいじめた相手の実名を遺書に記している。
の、主に2点が挙げられる。さらに、この事件は他のいじめ自殺が起こった際、頻繁に例として取り上げられた。特にAの遺書にいじめた相手の実名を記す、「告発」的意味合いを持つ遺書が残されているかどうかの点において引き合いに出された。また、この事件は訴訟の過程でも大きな注目を浴び、一審、二審の判決が出るごとに識者のコメントが一緒に掲載されるなど、社会問題としての「いじめ」を強烈にアピールする事例であった。さらに、判決後の母親のコメントで、「涙声で語った」「両手に持っていたハンカチで目を押さえた」などの記述に見られるように同情的な表現が紙上にあり、これ以降のいじめ自殺報道に見られようになる「判官びいき」の流れを作ったといえよう。
 80年代の事例は数も少ないのだが、事件が起きた直後の報道が少ないという特徴が見られる。比較的報道量の多い鹿川君の事件も当初は「葬式ごっこ」の内容・それに加わった教師のコメントが主で、訴訟を起こす段階以降になってようやく報道が増えた。85年9月に福島県いわき市で起きたケース、89年10月に岡山県浅口郡鴨方町でおきたケースも、遺書がなかったせいもあってか、事件直後はあまり報道されず、訴訟を起こす段階になって注目を浴びるようになった。これらから、80年代はいじめが自殺の動機としては不十分で、新聞報道として適切かどうかの迷いがあったと受け取れる。
 そして、全体(85年〜97年)を通してみると、学校側が「自殺の動機がいじめにあった」とのコメントを出しているケースは非常に希である。その中で、89年4月に神戸市で起きた事件では両親が、「自殺の動機はいじめにあった」と訴えたのに対して、学校側はこれを認め、告別式で「救いの手を差しのべられなかったのは残念」と謝罪のコメントを出した。また、93年5月に福岡県行橋市で起きた事件では、少年が自殺後、家族が「いじめられたのではないか」と学校に調査を依頼、当初は「いじめなどは聞いてない」としていた学校側のその後の調査でいじめが判明し、校長が「同じようなことが2度と起きないよう今後、指導したい」と話した。この2つの事例から、いじめ自殺が起きても学校側の誠意ある謝罪、いじめ防止に対する姿勢を遺族に見せることで、問題がこじれないで解決に向かうということが分かる。しかし、前章で述べたように、すでに「いじめ」が社会問題として確固たる位置を占めるまでになったとの認識が広まったため、「いじめられる→自殺」というモデルに当てはまったのだから、「運が悪かった、仕方がない」と諦めている可能性もある。したがって、その心中を察することは記事を見る限りでは判断しかねるところがある。

(2)いじめ自殺後の対処

 これまでの事例は、事件が起きた直後にいじめの内容(主に遺書の中身に触れる)を集中的に報道したり、または訴訟などの新たな動きがあった場合に、判決の内容に対して識者のコメントを出す、といった報道が多かった。それが94年以降の事件では異変が見られるようになった。いくつか事例を見てみる。
A「昨年5月、総社市井出の組合立総社東中学校で、3年生の菅野昭雄君(当時14)がいじめを苦に自殺した事件で、同中学校は1年を迎える29日に全体集会を開き、昭雄君の死を無にしないために思いを新たにする。(中略)
 総社東中学校では事件後、毎月29日に集会を開き、校長が『思いやりの心を持つこと』や『命を大切にすること』をテーマに、話をしている。」(95年5月21日・朝日・朝刊)
B「4月16日、豊前市立角田(すだ)中学2年、的場大輔君(当時13)が、自宅で首をつって自殺した。(中略)
 登校時間には、必ず校門で生徒を待ち受け『おはよう』『元気になったか』と声をかける。連絡事項を伝えるだけだった毎日のホームルームでも、時間を長く取って1日の反省を話し合うようになった。」(95年12月16日・朝日・朝刊)
 この2つの事例に共通している点は、事件後しばらく時間が経過した後、いじめに対する取り組み、正常化に努める学校の姿を追っている点である。「○○中学校でいじめを苦にした自殺がありました」と、ただ単に事件性として追いかけるのではなく、「いじめ自殺を出した学校では事件後こういった取り組みをしています」と、今もって幸運にもいじめ自殺者を出していない学校へ啓発の意味が込められているのではなかろうか。
 こうしていじめ自殺報道は、その事件性としてだけではなく、事後の経過への関心をも喚起させるものへと変化の兆しを見せていたが、94年11月、衝撃的な事件が日本中を駆け巡り、事態は急変した。愛知県西尾市で起きた大河内清輝君の事件である。報道それ自体はさきほどのA,Bのように事件後の学校の取り組みを取材する点では類似している。しかし、連日の取材により学校はパニックに陥り、遂には「今回の事件に関して関係生徒及びその家族への取材攻勢が連日深夜にわたり激しく、憔悴(しょうすい)しきっています。このままでは、二次災害が心配されますので、取材活動をひかえてください」(94年12月10日・朝日・朝刊)との通知を出すに至った。事件自体はBの例よりも数ヶ月早く発生していたのだが、社会へ与えた衝撃があまりにも大きかったので、報道姿勢がまた以前のような、その事件性を強調する記事となっていた。
 こうしたパニック状況下では状況説明だけに止まらず、センセーショナルな報道に終始することになる。そのため、識者のコメント、読者の投稿もほとんどが被害者擁護にまわる。そして、事件に関して「ひどいいじめ→自殺」という短絡的な風潮を生み出すことになるかもしれない。大河内君の事件の場合、その例として担任の手記が新聞紙上に掲載された。「今、わたしは清輝君の元気なころのことを思い出しては、自分を責める毎日が続いています。清輝君の苦しみ、ご両親の悲しみを考えるとたまらなくなります。(略)」(94年12月14日・朝日・夕刊)
 こうして、A、Bの事例に見られたように、過ぎてしまった事件を教訓として、次への対処へとステップするスタートが大河内君の事件の場合、なかなか切れなくなってくるのである。地震などの災害が発生した際、すぐに次の行動を起こさなければ、二次災害に巻き込まれる可能性があるように、いじめ自殺が起きた際、建設的な対応をしなければ、似たようないじめ自殺が連鎖的に起きる状況を招くのである。

(3)新たな変化

 大河内君のような衝撃的事件が起こると、その後は人びとのいじめに対する関心は急激に高まる。第2章で述べた「神経過敏化」がこれにあたる。「客観報道」「公平・中立」の立場を貫くマスコミも、こうした状況では読者の知りたい、興味のある点へと取材の力点を動かすことになる。次の事例を見てみよう。
 「いじめを訴える遺書を残して自殺した城島町立城島中3年(当時)大沢秀猛君の一周忌を前に、田島寛之・町教育長と須崎正光・城島中校長が21日、町役場近くの会議室で記者会見し、この1年間の町教委と学校の取り組みを報告した。須崎校長が報道機関の取材に応じるのは約10ヶ月ぶり。
 町側は1年前のできごとを、自殺ではなく『生徒死亡事故』と切り出した。(略)『親、家族、教師、地域のうち、だれかが気づいて手を差し伸べていれば、こういう事態にはならなかった』『事故がありましたから、・・・・(略)」(97年1月22日・朝日・朝刊)
 この例では、町側が自殺ではなく「事故」と表現している点を、取材にあたった記者がチェックしている。これは明らかに町側の姿勢を記者が批難している表現と受け取れる。「客観報道」という立場においては矛盾する点が見られるのだが、世論の後押しもあってか、このような表現になったのだろう。
 また、取材の対象も以前とは異なってきている。その事例を見てみる。
 「2年生の女子生徒が言葉のいじめを苦に自殺した愛媛県八幡浜市松柏、松柏(まつかや)中学校(二宮康輔校長)は・・・(中略)
 クラスメートのひとこと
●いじめている人は知っていたが、注意できなかったことを後悔している。
●12月に指導されてやめたが、心がそんなに傷ついていたことに気がつかなかった自分が悔しい。・・・(略)」(96年1月30日・朝日・朝刊)
 「『あの程度で死ぬなんて理解できない』『死ぬのは本人が弱いから』___。千葉県香取郡神崎町の町立神崎中学校に通う、一部の生徒たちの声である。2年生の鈴木照美さん(13)は6日、『学校でいじめられた。口のいじめだった』という遺書を残して自殺した。
 ●口ぐらいなんともない
 照美さんと同じクラスの一人は『口で言われたくらいじゃ、いじめとは思わねえな。もっとひどいこと、あるもんな。なんで死ぬのか、分かんねえ』と話す。・・・(略)」(95年12月22日・朝日・朝刊)
 以上の2つの例はともにいじめの加害者に取材し、コメントをとった例である。それまでは、いじめ自殺がおきた際、被害者の遺族、校長、担任、いじめに加わっていない生徒のコメントが報道されることはあったが、加害者のコメントというのはなかった。それだけに、この2つの事例はきわめて異例といえる。特に後者の場合は自分たちが「いじめ」をしていたという意識が薄い。自分の主観によってしていた「いたずら」「からかい」が、相手は「いじめ」と感じていた。いじめ論議の際によく言われる、自分ではたいしたことではないと思っていたことが、相手にとっては苦痛で、「いじめ」と受け取られていたケースである。しかし、こうした取材ができた背景を考えると、学校側がマスコミに過敏に反応し、いじめ自殺に関わることを話さないようにという「緘口令」を強いてなかったともいえる。

戻る