第2章 社会問題化する<いじめ>


(1)社会問題の定義から

 いじめが社会問題の1つとして様々なメディア上で論じられるようになってから久しいが、何をもって社会問題とされたのか。真田是は社会問題について、こう述べている。「人間の社会の維持を介して諸個人の生命・生活を維持する場合、社会の維持と特定の諸個人の生命・生活の維持とが矛盾し合い背反し合うことからくる諸問題・諸結果ということもできるかもしれない。社会問題の正確な認識の第一歩は、人びとの生命・生活の危機・破壊を、社会の維持を介して諸個人の生命・生活を維持するシステムに生じている矛盾関係としてとらえることである。」(三谷・大山・中川 1988 30頁)この、「生命・生活の危機」という点に着目すれば、いじめが社会問題として捉えられるようになったのには、いじめをめぐって傷害・恐喝・強要、そして自殺といった事件が生じたことに起因するだろう。
 元来、傷害などの事件で世間の注目が集まっていたのは、いじめではなく「校内暴力」であった。徳岡秀雄が「校内暴力は1972〜73年頃からぽつぽつ現れ出し、1976〜77年頃から全国に広がり、とくに1978年頃からは、中学生によるそれが顕著な増加傾向を示しはじめた。」(徳岡 1997 128頁)と述べているように、社会問題として認知されたのは「校内暴力」のほうが歴史は深い。その「校内暴力」も、「学校側の生活指導の強化(管理教育)と警察の積極的介入措置、などによって封じ込められたかに見える」(同 139頁)と、1980年代半ばには鎮静化に向かった。しかし、思春期の子供たちが持つ、情緒不安定、心の葛藤などの様々な「いらだち」のエネルギーは、管理教育や体罰などによって抑え込まれるはずもない。「校内暴力のうち、対教師暴力や学校機器の損壊が鎮圧されると、残るのは生徒間暴力ということになる。この生徒間暴力と『いじめ』とは、類似性が高くなる」(同 139頁)と、「校内暴力」→「いじめ」への変質という形で、生徒たちの行き場を失った「いらだち」のエネルギーと「いじめ」が関連付けられることになる。学校側の管理の強化に従い、学校内部での目立つような喧嘩や暴力などがなくなる代わりに、生徒間での軋轢、不満の解消として「いじめ」の形をとることになるというのである。
 ここで先ほどの「社会問題」の定義に再び戻るが、真田は「社会問題というからには、自然でも個人でも個別の偶発事でもなく、まさに社会が中心的にかかわっている問題のことである。」と述べている。(前掲 30頁)「社会が中心的」という点にいじめ問題を当てはめるならば、いじめが学校(学校の内、外といった空間的意味ではなく)、もしくは学生の間で発生しているということであろう。我々は義務教育で小・中学校を経験する。また、自分の子供たちも同じように義務教育を受けるだろう。そして、国民の大部分が学校生活を経験し、社会へと巣立っていく。この現状を考えれば、老若男女を問わず、国民が広く関心を持つ問題となるのも不思議ではない。また、真田は「すべての社会問題は、すでに見てきたように、そのときどきにある特定の社会の基本矛盾が露呈したものである。したがって、具体的な社会問題から出発してこれを深く正しく解明すべく辿っていけば社会の基本矛盾に立ち至り、その社会の基本性格に立ち至るはずである。」(三谷・大山・中川 1988 34頁)とも述べている。これによれば、学校社会において基本性格にあたるのは、もちろん「教育的役割」である。その役割の矛盾には学校が抱える様々な問題があり、そのうちの1つが「いじめ」にあたるといえる。つまり、生徒の人格形成・人間的成長を目的とする教育方針のもとでは、人権侵害といわれる「いじめ」が、学校としての役割を崩壊させてしまう危険性をはらんでいるということになろう。

(2)いじめを超えた<いじめ>

 「いじめ」が単なる子ども同士でのコミュニケーションの一形態、いわゆるロールプレイング(役割交代)の遊び、戯れなどと、社会問題としての認識されるようになった「いじめ」は、それまでとはどう違うのか?文部省のいじめに関する調査では、「言葉での脅し」「冷やかしやからかい」「持ち物隠し」「仲間はずれ」「集団による無視」「暴力」「たかり」「お節介・親切の押しつけ」と、いじめの態様を以上のように分類している。下村哲夫は、これらをその形式、内容によっては刑法に抵触するだろうと指摘する。「『言葉での脅し』→脅迫罪(刑法222条)、『冷やかしやからかい』『仲間はずれ』『集団による無視』→侮辱罪(刑法231条)、『持ち物隠し』→窃盗罪(刑法235条)、『暴力』→暴行罪(刑法208条)・傷害罪(刑法204条)・傷害致死罪(刑法205条)、『たかり』→恐喝罪(刑法249条)・強盗罪(刑法236条)、『お節介・親切の押しつけ』→強要罪」(下村 1997 174頁)こうした、いじめは犯罪行為だとする意見が「加害者=悪」と考える人たちの間では一般的となっており、「今のいじめは昔のそれとは異なり、悪質化している」と懐古的に昔のいじめを語る人たちの意見にもなっている。すなわち、犯罪として立派に通用する行為に変化している、もしくは昔も今も犯罪にあたる行為が、今では周囲の観察の目が厳しくなり、「いじめ」と呼称されるようになってきたのである。
 しかし、刑法に抵触するようないじめが増えている、いじめが変わってきているなどの意見が聞かれる中、実はこれまでいじめ事件が刑事処分の対象になったことがない。これまでのいじめ関係の裁判では、損害賠償請求の民事裁判がほとんどである。いうなれば、いくら悪質ないじめが発生し、世論が声高に刑事処分を求めるようになっても、現状ではいかんともし難い。それはもちろん少年法(*1)の適用があるからである。いじめ問題の多くが中学生に集中しているが、15歳以下である中学生にはすべてこの少年法が適用される。
 前述の大河内君の事件の際、与謝野文相は「法に照らして処断する厳しい措置が必要」との考えを示した。下村も、この事件については「100万円を超えるという現金の強奪は当然恐喝罪に該当するだろうし、いじめの発端となった川遊び事件は暴行罪、使い走りをさせられたのは脅迫罪、強制的に髪を染めさせられたのは強要罪、母親のネックレスなどを盗んだのは窃盗罪に当たることになる」と述べている。(下村 1997 175頁)
しかし、子供たちを保護するための少年法が、いじめ問題においては、図らずとも見直しを問われることとなっている。また、1997年に大きな話題となった「神戸少年頭部切断殺人事件」で、この少年法について多くの論議を呼んだのは記憶に新しいところである。
 これまで述べてきたようないじめの内容では、「自殺するのも無理はない」、「いじめではなく犯罪だ」などの声が多数派になるのも当然かもしれない。実際、社会問題として社会に衝撃を与えた事件、例えば1986年に東京都中野区で起きた鹿川裕史君の事件(この時は教師たちもいじめに加担していたと報じられた)や、冒頭でふれた愛知の大河内君の事件、その1年後に新潟県上越市で起きた伊東準君の事件などでは、マスコミがこぞって取材、報道し、新聞各紙でいじめに関わる特集を組んだりもした。しかし、結局のところ、いじめ自殺をする子どもは後を絶たず、文部省の数々の取り組みも、どのような効果を挙げているかは疑問の残るところである。

(3)マスコミといじめ

 これまで「いじめ」について論じてきたが、社会問題として扱われるのには、もう1つ重要な点がある。それが「マスメデイア」である。さきほどの真田の社会問題の定義の中に「社会が中心的にかかわっている問題」とある。識者によって社会問題として認識された問題も、識者個人またはそのグループ内でのみ論じられているだけでは、社会に伝わるすべもない。何かしらのメディアを通じて我々に、問題に対する認識を生み出させたり、掘り起こしたりもする。ある日突然、我々一般市民全員が「いじめ」を社会問題として認識することは到底ありえない。何かしらの手段を通じて、社会問題の観点から「いじめ」を捉える認識を得るのである。そうした場合、情報伝達手段としてのメディアに不適切な点がないかが論じられなければならないはずである。「社会の分化・異質化が極度に進んだ現代社会では、われわれの態度や行動は、直接的・対面的接触ではなく、マスメディアを通じて得られた二次的情報に依存せざるをえない。しかし、マスメディアが提供する情報は、ニュース価値のあるものに限られる。」(徳岡 1997 69頁)と述べられているように、マスメディアの性質がニュース価値のある「特異なもの」、「通常の予想を超えたもの」などを扱うものである。また、「マスコミは、異常な出来事を選び、型にはまったやり方で提示し、日常性との対比を際立たせる。したがって、人が直接的接触のない領域については、その人がもっている全情報は、きわめて異常なものとなってしまう。また人は、感情を刺激し、偏見に合致した情報を貪欲に求める。こうして、歪められ、画一化された逸脱者イメージが、ごく平均的な市井人と比較される。」(同 69頁)と述べられている。我々が普段体験できないことを、「情報体験」できるというマスコミの、いわば特権が逆に盲点として内在するというのである。
 実は、このマスコミに内在する危険性がごく最近の日本でもあった。1997年に日本海で座礁したロシアのタンカーによる重油流出事故がそれである。この事件が起こった際、日本海沿岸が重油で汚染され、その近辺でとれる魚介類が食べられないのではないか、などという噂が広まった。実際はそれほど影響のない海域も、そういった噂が流れた。真実かどうかわからないこと、気にもとめないような些細なことも、マスコミを通じると混乱を招いたりする。そうしたことはそう珍しいことではない。
 以上で述べたことが「いじめ自殺」をめぐる報道にも当てはまる。例えば、1995年2月、茨城県の町立美野里中学校の2年生が「いじめ」を訴える遺書を残して自殺した。この事件でのマスコミの報道姿勢について美野里町の青葉(ときわ)祐太郎教育長が次のような発言をしている。「新聞、テレビを通して、県民の関心を集めてしまい、申し訳ない。両親と会って訴えを聞き、収まったと思っていたのに、マスコミがぶり返して問題を大きくしてしまった」(95年2月28日 朝日新聞・夕刊)事件直後の教育長と両親の話し合いではうまく収まったと思っていたが、マスコミの取材によって両親が激怒したのだという。
 この例のように、混乱を引き起こしてしまうマスコミもある。したがって、事件を報道する際に報道のルールを遵守していたかなどの、マスコミ側のモラルが問われなければならない。
 また、マスコミの問題点として、その時の社会状況の影響を受けやすい性質を持つ。例えば、オリンピックの開催中は選手の活躍を逐一報道し、選手の生い立ち、家族、故郷の様子までも我々の知るところとなる。その際、著名人の死、政治家の不祥事などが起きても「日本人初の金メダル獲得」のほうが我々の関心が強いため、マスコミにおける扱いは小さくなるだろう。このようなことは、大河内君の事件後に連続して起こったいじめ自殺が、年明けに阪神・淡路大震災が発生した後はマスコミでの扱いが小さくなったことでもわかる。すなわち、いじめ自殺が連続して起こっている間は、人びとの関心も高く、我々もいじめに関するニュースに過剰に反応するようになる。徳岡は、このようなマスコミの影響によって人びとが「神経過敏化」に陥ると説明する。「神経過敏化ということがなければ、いじめとは解釈されなかったであろう些細で曖昧な出来事までが、潜在的な、あるいは現実のいじめとして再解釈される。過敏になった人びとは些細な出来事を、あるいは事実を誤認して、いじめ事件として顕在化させる。」(同 151頁)この「神経過敏化」によって、人びとのいじめに対する認識が歪められ、正常な判断力を失うのだろう。少年の自殺事件において、遺書の中に「いじめられた」という言葉がなくても、学校で殴られていたこともあった(実際にはそれが喧嘩であっても)との証言があれば、「神経過敏化」に陥った人びとは、「いじめ」と認識してしまう。

 注(*1):
 少年の健全な育成のため、非行少年に対して保護処分を行ない、また少年の福祉を害する成人の刑事事件について特別の措置をとることにより少年を保護することを目的とした法律(1948)。家庭裁判所は司法警察員あるいは検察官からの送致を受けるほか、犯罪少年(14歳以上20歳未満で罪を犯した少年)、触法少年(刑罰法令にふれる行為をした14歳未満の少年)、虞犯(ぐはん)少年(性格または環境に照らして、将来、罪を犯し、または刑罰法令にふれるおそれのある少年)についての一般からの通告や裁判所調査官からの報告に基づいて事件の調査を行い、審判手続きを経て、原則として保護処分とする。現行少年審判をめぐっては、弁護士側から@証拠採用の厳密なルールがない、A国選付添人(弁護士)制度がなく多くは弁護士抜きで審判が行われている、などの不満が述べられている。また捜査側からも@検察官が関与できずどのような審判が行われているかわからない、A非行事実なし(刑事裁判で「無罪」に相当)となっても、検察官に抗告(上訴)の権限がない、などの意見がある。少年法の改正の必要性は30年にわたって指摘されてきている。(imidas 1997 集英社)

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