第1章 いじめの現状


(1)学校現象を越えたいじめ

 1994年11月、愛知県西尾市で、当時中学2年生だった大河内清輝君が自宅近くの工場で首吊り自殺をした。その後、遺書・旅日記が発見され、いじめを苦にした自殺と、大々的に報道された。この事件において我々に衝撃を与えたのは、遺書の中に書かれていたいじめの内容であった。総額100万円を超える金銭を脅し取られていたこと、近所の川で溺れされそうになったなど、いじめの詳細が克明に記述されていた。
 この事件後も、いじめを苦にしたと見られる子供の自殺が相次ぎ、いじめに関わる問題が、連日のように各メディア上で論じられた。年が明け、1995年になるとすぐ、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件と、大きな事件が立て続けに起きたため、いじめ問題のメディアへの登場機会は減ってしまった。しかし我々の間には、「いじめ」は大きな社会問題の1つであるという認識が確立されている。そうした「いじめ」について芹沢俊介は「いじめは学校現象である」と述べている。(別役実+芹沢俊介+山崎哲 1995 19頁)また、「学校現象だからといって、そのまま学校現象の中に収まる、つまり教育というカテゴリーの中に収まるかというと、今度の愛知の場合のように、社会現象へという発展の仕方、つまり自殺したり、傷害を相手から受けたり、金品を奪われたりという場合がほとんどなんですけれども、多くの場合、いじめは社会現象レベルにまで発展せずに、学校現象の枠内の中で収められてしまう場合がほとんどだというふうに言えるんではないかと思います」(同 19頁)というように、愛知の大河内君の事件は、学校現象である「いじめ」の、特殊なケースだという見方をしている。つまり、以前から学校内でいじめ問題は存在していたのだが、いじめを苦に自殺にまで発展するケース、恐喝・強要・傷害などが起きるケースが出てくるようになり、学校現象として捉えるのにはもはや限界にまで達したのである。

(2)いじめの定義から

 前述の大河内君の例は、脅し取った金額も多く、「いじめ」の枠を超えているとの声を多く耳にした。では、その「いじめ」とはなんぞや?との問いに対して、我々は有効な答えを出せるだろうか・・・・・文部省の調査の統計上の基準というものがあり、それによれば、「自分より弱いものに対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする」(文部省初等中等教育局中学校課「生徒指導上の諸問題の現状と文部省の施策について」平成6年12月)となっている。(なお、大河内君の事件後行った「いじめ総点検」では、「学校としてその事実を確認しているもの」という事項をはずしたため、いじめの発生件数は前年度の2、6倍に急増した)また、警察庁では、「単独または複数で、単数あるいは複数の特定人に対して、身体に対する物理的攻撃又は言動による脅し、いやがらせ、仲間はずれ、無視等の心理的圧迫を反復継続して行うことにより、苦痛を与えること(ただし、番長グループや暴走族同士による対立抗争を除く。)」(平成6年警察白書)としている。
 警察庁の定義は、具体的ないじめ行為についてまでもが例として含まれている。それに対して文部省のほうは、何をもっていじめとするかの具体例が示されてなく、学校・教師に判断を任せるものと読み取れる。また、両者の決定的な違いとして、いじめる側、いじめられる側、どちらに視点を置くかである。文部省のほうは、「相手が深刻な苦痛を感じている」とあるように、いじめられる側の立場に立っていじめかどうかの判断を下すこととされている。それに対し警察庁のほうは、「苦痛を与えること」とあるように、いじめる側の判断でいじめかどうかの認定をするものと読み取れる。かなり乱暴な例を挙げると、「どんな些細ないたずらも、相手が苦痛に感じればいじめになる」のが文部省の定義。「体格の大きな子が小さな子に痛いプロレスの技をかけていても、小さな子が苦痛に感じず、楽しいプロレスごっこと感じているので、いじめでではない」のが警察庁の定義ということになる。もっとも、このような極端な例は皆無であるといってよいのであるが、両者の違い、特に文部省の定義を見る限り、文部省のいじめ対策は「相手の立場になって考えれば、いじめなんてできない」といった印象を受ける。こうした文部省のいじめへの認識、指導のもと、実際の教育現場ではどうだろうか。「週刊少年ジャンプ」に送られてきた手紙の中からいくつか見てみる。(長いので、途中を割愛させていただく)
@人より太めで、ブスだったので、小学校の時、マンガ「ドラえもん」に出てくるジャイアンの妹”ジャイ子”というあだ名をつけられた女性(20歳)
「私はまた小学生時代と同じように”ジャイ子”と呼ばれ続けられることを危惧し、担任の先生に相談に行ったことがあります。その時の担任の先生の対応は一生忘れられません。廊下で、2、3分、私の話を聞くと、彼女はこう言ったんです。
『あなたも悪いのよ。私に話しても解決にはならないのよ』」
A捨て子で、気づいた時にはもういじめられていたという女性(24歳)
 「小学校1年生の時です。私は担任の女の先生からいじめられました。彼女はクラスメート達に、机やイスで私を殴らせたんです。また、いじめられても決して泣かなかった私に”サイボーグ”というあだ名をつけたのも彼女です。さらに、1番前の席にゴムで縛りつけられ、『サイボーグ!笑うなよ。お前の顔は醜いんだから。あ、そーか。だから、親に捨てられたんだな』と言われたことも。」
B高校生の時、背中に飛び蹴りを食らったという男性(21歳)
 「しかし、それにもまして未だに頭に来ているのは、学校の教師たちだ。僕がいじめられていると訴えると、ヘラヘラ笑って、『ああそうか』で片付けた奴がいたり、『私の知ったことではない』とひたすら逃げるだけの奴もいた。」
C転校生だったため、物を隠される、殴る、蹴る、泥をかけられるなどのいじめに遭っていた女性(18歳)
 「友人がひとりもいない私は、間もなくニッチもサッチもいかなくなり、担任の先生に相談することになりました。しかし、担任の先生は私に対するいじめをうやむやにしようとしただけ。クラス全員の話を聞き、『皆、悪気があってのことじゃなく、○○さん(私)の考えすぎな面もある』と結論づけたのです。」
 以上の例は、担任に相談を持ち掛けたが、いじめの解決どころか逆効果になったケースである。学校という閉鎖的な空間で、自分にもっとも力になってくれそうな担任に裏切られたという思いが、文面から伝わってくる。特にAの例では、担任自身がいじめていたという、通常の我々の価値観からでは到底考えられない。しかし、上のような教師ばかりでなく、親身になってくれた教師も中にはいるようだ。
D中学時代、物を投げられたり、隠されたりした女性(17歳)
 「私は女の子なんですが、いじめていたのは男の子たちです。それだけにいじめも乱暴なものでした。(中略)そんな日々の中で、なんとか私が生きてこられたのは優しく接してくれたクラス担任の先生、そして、色々と相談に乗ってくれた保健の先生がいたから。あと、”昔、いじめられたことがある”何人かの女子生徒たちに励まされたからです。」
E高校2年の時、暴行、金銭を脅し取られるなどのいじめを受けていた男性(19歳)
 「毎日が地獄でした。が、私に対するいじめはあっけなくジ・エンド。担任の先生にバレてしまったからです。日頃から”いじめなんて絶対に許さないゾ”と言ってた先生だけに、詰問は厳しいものがありました。その結果、私をいじめていた子は停学処分に。奪われた金もすべて戻ってきました。私に対するいじめがなくなったのも、いうまでもありません。」
 (土屋守・週刊少年ジャンプ編集部 1995 124〜189頁)
 D、Eの例のようにいじめに対して真摯に取り組んでくれた教師もいるようだが、やはり送られてきた手紙の総数から見れば、数少ない例と言える。
 以上に見られるように、文部省の目指すところのいじめ対策は理想と現実のギャップがまだまだ大きい。また、実際の教育現場の問題もさる事ながら、文部省の掲げる対策自体にも問題がある。
 愛知の大河内君の事件後、文部省は「いじめ対策緊急会議」を開き、その会議の報告で、「いじめる側に対し、出席停止の措置を講じたり、警察等、適切な関係の協力を求め、厳しい対応をとることも必要である」とある。この点について、村山士郎は「厳罰主義が安易に適用されることは真に問題を解決することにはつながらないばかりではなく、学校の管理主義的体質をいっそう強化することにつながり、いじめをとらえる目を曇らせ、いじめの新たな要因になっていく危険すらある。」(村山士郎 1996 112頁)と、場当たり的な対処で問題の本質にメスを入れていないと指摘している。村山氏は厳罰主義に対する批判を述べているが、私自身は文部省の示した対策が悪影響を招くばかりではないように思う。これまでは加害者への罰則が曖昧だったので、いじめ抑制の手段が皆無であった。抑制力を作ることによっていじめの発生、凶悪化に歯止めをかける可能性を模索する中での対策と私は受け止めている。
 しかし、ただ罰を与えることではいじめ問題の解決にならない。何より、罰を与えるということ自体、事後の対応である。誰かが被害を受け、その被害報告を学校に届ける、又は被害現場を教師が目撃する等、事実確認ができなければ罰則規定を行使することはできない。

(3)潜行するいじめ

 現在のいじめは見えにくい。このことは、誰もが認識している。というよりも、メディアを通じて刷り込まれたともいえる現在のいじめ現象であろう。そのことを示すデータとしてよく引き合いに出されるのが、いじめ発生件数の推移である。『青少年白書』によると、ピーク時である昭和60年度の155,066件を最高に、平成5年度までずっと減少、又は横ばい状態が続く。ところが平成6年度には、前年度よりも約35,000件増えて56,601件となった。さらに平成7年度よりも4,000件ほど増加している。先ほども述べたように、平成6年度よりいじめの定義から「学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの」という部分を削除したため、発生件数は急増した。それまで、「いじめは沈静化にある」などと喧伝されてきたことが、実は学校側が把握していないだけで、生徒間では恒常的に行われていたという事実を我々は思い知らされた。
 見えにくくなったいじめの例として、山形県新庄市で起こった「明倫中マット死事件」を挙げてみる。この事件の概要は以下の通りである。
 「1993年1月13日夜。市内中心部にある市立明倫中学校の体育館用具室内で、1年生の児玉有平君(当時13)が、巻いて立ててあった体操用マットの中から遺体で見つかった。
 山形県警は5日後、事件発生当時に体育館内にいたとされる上級生ら7人を、傷害と監禁致死の疑いで逮捕、補導した。7人は以前から有平君に「一瞬芸」を強要するなど、「いじめ」を繰り返してきたが、当日も「芸」を求めて断られたため、有平君を用具室内に連れ込んで暴行、巻いたマットの空洞部分に頭から押し込み放置した、と発表した。」(朝日新聞山形支局 1994)
 この後、逮捕された少年たちの自白をもとに捜査が進んでいくのだが、山形家裁の少年審判では、少年たちが次々に事実を否認し、アリバイを主張し始めたため、裁判が長期化する事態となった。
 この事件に見られるように、「いじめた」という事実と証拠が一致しなければ、周囲の人間にはそれが「いじめ」と認定されにくい。いじめを受けている子が、その窮状を担任や親に訴え、加害生徒に指導しようと動く。しかし、加害生徒が「それはいじめじゃない」などと言い逃れようと思えば、いくらでも言い逃れはできよう。その際にどれだけ学校、教師が取り組んでくれるかが重要になってくる。それ故に、文部省を頂点とする教育界が、上意下達に終始する指導ではいじめ問題の解決にはならないのである。

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