第一章:大衆説得の武器


第一節: ある現代人の話

 あるビジネスマン田中さんの朝のひとときである。彼の家では、電化生活もしだいに進んでいる。朝は、まずタイムスイッチを仕掛けたラジオが七時の時報を知らせる事から目が覚める。もちろん、この時報にはスポンサーがついており、時計の広告(コマーシャル・メッセージ)をともなっている。
 やがて、彼は朝の食卓につく。ラジオやテレビからは相変わらずコマーシャルが流れ出しているし、新聞を見れば記事より広告の方が目につくページがある。
 会社へ向けて電車に乗れば、週刊誌の中吊り広告が目に付く。電車を降りれば、広告チラシを手渡される。このように、この田中さんの通勤までのひとときだけを見ても、まさに広告の世界に住んでいるようなものである。
 しかも、電化生活を楽しんでいる田中さんの家では、すでに広告によってさまざまな電気器具を買い入れている。テレビがそうだ。タイムスイッチも、電気カミソリもそうだった。
 このビジネスマンのように、現代の社会にいる人間の生活経験は、これまでの歴史に見られなかったほど、量的に増加している。このような増加のもっとも大きな要因は、近代的な技術の発達にともなうコミュニケーションの飛躍的な変化と関係している。
 コミュニケーションの問題自体は、決して現代にだけあるものではない。人間が歴史を作りはじめた時、つまり孤立した動物の状態から対人関係に入ると同時に「意味」と「了解」に基づく伝達作用が成立する。これがコミュニケーションである。特に言語、さらに文字が社会生活の手段となるにつれて、コミュニケーションは人類史の発展の上に大きな意味を持つようになる。
 なお、コミュニケーションの語源を訪ねると、これはラテン語の Communis から生まれ、英語の Common を意味している。人と人との交渉では、必ず何か「共通した」ものを交換しようとする。その共通したものが、情報であり、知識であり、あるいはアイディア、意見、態度なのである。
 このコミュニケーションは、つぎのような系列に分ける事ができる。
(1)一人対一人のコミュニケーション (2)中間的コミュニケーション (3)マス・コミュニケーション (4)ミニコミ (5)カスコミ(カスタム・コミュニケーション) (6)マチコミ  ところで、現代社会のコミュニケーションの形態を特長づけるのは、どのようなものだろうか?それはコミュニケーションが、上に挙げた系列のように一対一から一対多の関係に移った、という事情だ。
 数百人、数十人、そしてある時には一人の新聞記者のペンは、数百万人の読者を予想している。また商品やサービスを広告するコマーシャル・メッセージも数十万、数百万の視聴者を予想して制作される。これは「会話」のレベルでの一人の話して、一人の聞き手という関係とは、量的よりもむしろ質的な違いを持ったコミュニケーションが現代を支配していることを意味するものに他ならない。
 このような形態のコミュニケーションがマス・コミュニケーションと呼ばれる。テレビ、新聞、雑誌、映画、ラジオなどのさまざまな媒体から流れでいる情報は、人間が直接体験できない多くの出来事を間接に体験させてくれる。つまり、マスコミは社会生活の「意味領域」を拡大してくれるのである。こうして獲得された「意味」の上にたって、それぞれの出来事についての判断を下すものである以上、私たちはマスコミの世界に住んでいるといってもいい過ぎないだろう。

第二節: マスコミとしての広告

 マスコミは、さまざまな性格の情報を提供する。そのなかには、政治、経済を素早く知らせる情報もあるし、またその情報を受け取ることによって、受け手を楽しませる情報、つまり娯楽としてのコミュニケーションもある。さらに、これらの機能と並んで「広告」という機能を考えることができるのである。(広告機能についての説明は第二章に述べる)
 新聞を開けばスペースの三分の一程度は広告が占めているし、ラジオ・テレビの番組の長さの一割くらいはCMに使われる。そして1444社1583局もの商業放送局が広告収入によって営業している。このように考えると、現代のマスコミのなかの相当多くの部分を広告が占めていると言っても差し支えない。
 しかし、マスコミの一環としての広告は、必ず企業のマーケティング活動と結びついているということに注意しなければならない。つまり、広告コミュニケーションは、個々企業体のマーケティング活動を活発化するための手段に他ならない。逆に個別企業の利潤追求を指導原理とする資本主義社会が存続する限り、広告コミュニケーションもまた存続しなければならない。いわば、広告は現代社会の基本原理と直接結びついたマスコミの機能形態なのである。
 この点について、G・ダイヤーは『広告コミュニケーション』のなかで、広告の描き出す「リアリティ」が、既存の、特にスポンサーにとって好ましい価値や理想に沿うものであり、「社会における資源と力のより公正な再配分を行なうような代替となる価値をほとんど考慮しない類のものである」ことを指摘している。スポンサーが提示する商品そのものに関する主張については、消費者の意識的な抵抗が可能なのに対して、その商品とともに描かれる人物の姿や行動や生活様式については、抵抗することが困難である。その結果として、今日の消費社会に支配的な価値や理想であるところの「誇示的消費・富・性的魅力・性的パワー・競争相手に一歩先んじること」といったものを消費者個人の価値や理想としても受け入れさせ、すでに受け入れている場合には、それを強化する。このようにして、広告メディアでもあるマス・メディアは、既存の価値や理想を維持・強化するのに寄与すると考えられる。
 さて、最初に挙げた田中さんと同じように、私たちは知らず知らずのうちに広告に触れ、その結果として、さまざまなものを買い込んでいるのである。この立場を逆にして見ると、広告というものがひとりでに意味づけられてくる。
 「広告とは企業のマーケティング活動を促進するために使われるコミュニケーション活動である」。また、より社会心理的には「商品やサービスを大衆に広く知らせて、買うように説得するコミュニケーション技術である」とも言えよう。

第三節: 広告は大衆を教育する

 よく考えて見ると、広告は教育とよく似ていることがわかる。教育というのは一定の目的に向かって、人びとの態度を作り上げ、あるいは現在持っている態度を強めることである。先生は生徒のこころに影響を与えようと努める。まず、あるテーマに対して注意を引かせ、関心を持たせる。それから、のちに思い出させるように、関連のある数字や事実を記憶に印象づける。こうして、田中さんは算数の九九を覚え、ワーズワースの英詩を暗しょうしたのである。これと同じように、広告の専門家は、まず自分のメッセージにたいして大衆の注意を引き付けさせ、広告商品の特色に大衆の知覚を集中させようとする。商品名の暗唱も含めて、反復ということが、さまざまなセールス・ポイントを大衆に消化させる助けをするのである。
 しかしながら広告は、そもそも消費者に商品を買わせることを最終的な目的としており、人びとがこれまで買ったこともないような新製品を買わせることも行なう。そのような購買行動のレベルでは、新しい行動を生み出すことがあるわけである。これも、広い意味で社会変動と呼ぶことができる。また、たんに新しい商品を買わせるだけでなく、そのような商品の購入あるいはサービスの利用が、しばしば新しいライフスタイルの提案をともなって広告される。むしろ、そのような提案がなければその商品を受け入れにくいこともある。たとえば、深夜でも利用できるスーパーマーケットは深夜に活動する都会的なライフスタイルとともに広告される。もっとさかのぼって、日本の高度経済成長時代のいわゆる「三種の神器」(*注1)などの耐久消費財の広告は、豊かで便利な文化的な生活の提案とともになされたというべきであろう。
 もう一つ、最近NTTの広告例を挙げて見ましょう。
 「いくさは飽きた」と家へ帰ろうとする男優内藤剛志さん扮する信長。家臣がとりなし「フェニックスミニでピッポッパッ」とダイヤルすると、画面には愛するお濃の顔が。「アナタ、ワガママ言っちゃダメ」の一言に、内藤さんがデレデレ顔で「ウン!」と返事する登場篇である。
 お茶会篇では、信長にお茶を所望された秀吉が、慌てて別室へ駆け込んでフェニックスミニで千利休に教えを乞う。「お茶の心とは・・・」とのんびり構える利休に、「かいつまんでお願いしたい」と焦っているところへ「お茶!」と信長がやって来てしまう。でも結局、フェニックスミニのおかげでおいしいお茶が入れられて、信長も大満足というわけ。(雑誌CM NOW 70号、pg.112より)
 二台で19.8万円という価格で、ついて発売されたテレビ電話の便利さをわかりやすく印象付けるために、時代劇の設定に行なった。
 この場合、テレビのCMがはたした役割は相当に大きな物であった。このように、マスメディア、とくにテレビは、広告を通じて人びとのライフスタイルを変革するのに寄与しているのである。
 このように、広告は商品やサービスが欲しくなるように大衆を教育する役割をはたすものである。広告が教育であれば、教育の分野にある教育心理学と似た者が広告の分野でも重視されなければならない。

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