<第2章 「投資」としての学歴>


 さて、1章・第2節においては、どちらかというと、「人間の評価や誇りの問題」といった「心理的要因(アイデンティティ−の問題)」の面からばかり、「学歴獲得競争」の加熱化を説明てしてきたように思う。そういったいわば「情動的面」からばかり学歴競争の加熱化を説明するのでは、やはり片手落ちだろう。そこで2章では、「よい就職、よい昇進(つまりよい賃金)」のため、という「投資としての学歴」(注6)の意味についても、あらためて考えてみたいと思う。
 このような「投資」としての学歴効果は、1章で述べたように「学歴思い込み論」の人々によって、さんざん「(決定的な)意味はないもの」と、否定されてきたことである。しかしそれでもこれ(投資としての学歴効果)が、「思い込み」だといって無視することができないほど、我々が、進路を決める際の大きな要因になってきたのは、疑いようもない事実である。(それは私が後に紹介する、質問紙調査の結果からも明らかである。)
 確かに昔のような「単純な」投資としての学歴意識(学歴がその後のすべてを決定してしまうほどの力を持つという学歴意識)では、今はもうない。そうではなく、投資としての学歴の効果がだんだんに低下してきたその過程で、徐々に変更をせまられ、再編された、いわば「新しいかたち」としての「投資としての学歴意識」が、今現在の私たちの考え方(進路の決定)に、影響を与えているのである。
 ここでは主に、竹内洋氏の「競争の社会学 学歴と昇進」の1章の中の「学歴志向の論理と心理」の内容を主体にして話を進めていく。氏はこの中の「投資としての学歴意識」の中で、現在のように学歴投資にそれほど「みかえり」を期待できなという状況にも関わらず、なぜ教育アスピレ−ション(個人がより高い目標に到達しようという欲求。向上心、野心。)(注7)が静まらずに、逆にますます高まっているのかという疑問に対して、ア−ル・キンモス氏(Earl H. Kinmont,The Self-Made Man in Morden Japanese Thought,From Samurai To Sarariiman,ch 6(MS.).)の言葉を借り て、「宝くじ付定期預金」としての学歴意識(学歴観)という考え方により、説明をおこなっている。
 竹内氏によると、「投資」としての学歴の視点から、学歴はそれほど収益をもたらすものではないという主張は、明治の終わりごろから繰り返し論じられてきたおなじみのテ−マだった。また昭和のはじめにおいても、大学卒よりも専門学校卒の方が、専門学校卒よりも、中等実業学校卒の方が就職率は良かったというのである。しかもこのような情報は、当時の新聞にもしばしば掲載されていて、周知の事実だったのである。しかしにもかかわらずそのことが、高等教育進学者を大きく減らすにはいたらなかった。
 この理由について竹内氏は、これこそ「宝くじ付定期預金」としての学歴意識が働いていたためとしている。「平均教育収益率は低くとも、上級学校に進学すればエリ−トになりうる「宝くじ」が付いている」(竹内、1981、p70)という理由から、教育アスピレ−ションは変わらずのびつづけたのである。当然これは「宝くじ」であるから、絶対に「当たる」というようなものではない。が、しかしここで重要なのは、上級学校に進学すれば、この宝くじの「枚数」が多くなり「当選率」が増大する(つまりエリ−トになる確立が高くなる)ということなのである。
 このような「投資」としての学歴意識は、現代の教育アスピレ−ションの深層に一層脈々と存在しつづけていると氏は言う。そしてこの状態を、「安定(定期預金)を確保した上での<もしかしたら>アスピレ−ションン」(竹内、1981、p71)と 氏は呼ぶ。それは単純な学歴万能観ではなく、「学歴有意観」といったものである。したがって平均教育収益率の低下が声高に語られ、常識的な知識となっても、それがほとんど教育アスピレ−ションの鎮静力にならないのである。
 もう1つ、この教育アスピレ−ションが下がらない理由として、氏は、厄介にもこのような教育アスピレ−ションが「実態」にほぼ即応しているという事実を指摘する。
 たとえば昭和53年の「賃金センサス」をもとにした矢野真和氏の計算によると、高校出は収益率(教育投資によって得られる収益の率)(注8)が13%と高いものもいるが、1 %未満のものもかなりいる。つまり収益率の分散が大きいといえる。対して 大卒の収益 率は、分散の中央に位置している。つまり、高校投資は不安定であるが、大学投資は安定的であるということがいえるのである。また従業員数5000人以上のビッグビジネスへの就職率も、大学グル−プによって大きく違っている(旧帝大卒の就職者の実に48%がビッグビジネスに入社。)以上のようなさまざまな実態は、人々の教育アスピレ−ションの「定期預金」の意識の部分に対応しているといえる。
 では「宝くじ」の意識に対応した実態の方はどうかというと、昭和51年の「賃金構造基本統計調査」をもとにした小池和男氏のデ−タによれば、上級管理職(部長)につく割合は大卒が圧倒的に多いという結果がでている。(50〜54歳の旧制大卒の49・8 %が部長に就いているのに対して、同年齢の旧制中卒の部長の割合は8・4%にしかす ぎない。)もちろん「宝くじ」は大卒だけに付いているわけではないのだが、1枚しか付いていない旧制中卒と、6枚付いている旧制大卒との格差は無視できないものがあると言わざるを得ない。また、同じ大学でも特定銘柄大学と非特定銘柄大学とでは宝くじの枚数に若干の違いがあることも、1955、1965、1977、1980の「ダイヤモンド会 社職員録」をもとにした「大学別中間管理職占有推移表」という竹内洋氏本人の調査によって証明されている。(ただし特定銘柄大学の占有率は徐々に減ってはきているが。)
 以上述べたような学歴観の変化、そしてそういった学歴観に即応した様々な諸事実の存在があるため、われわれの教育アスピレ−ションは、収益率の低下にも関わらず依然高まり続けているのである。
 「宝くじ付定期預金」としての学歴観とは、つまり、給料の安定や大会社への就職といった「安定した定期預金」を確保した上で、もしかしたらエリ−トになれるかもしれないチケット(宝くじ)までがついてくる(しかもいい大学ほど多く付いてくる)という、そういったもろもろの「お得さ」を持つものなのであると思われる。そういった「お得さ」が、「大学にいっておいて損はない。(あるいは大学までは行けなくても、できるだけいい高校を出ておいたほうがいいだろう。)」といった気持ちに人々をさせるのではないだろうか。

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