<第1章 「日本の学歴社会」をめぐるいくつかの論争>


 この章では主に岩田龍子氏の「学歴主義の発展構造」の第1章「学歴社会の盲点」の内容と第4章「日本型学歴義の特徴」の内容を主体にして話をすすめていく。

(1)「学歴決定論」と「学歴社会思い込み論」

 人々が学歴を求める理由をわれわれはとかく、それが「いい就職、いい出世」につながるからと考えがちである。つまり学歴にはそのような効果があると信じているわけなのであるが、はたして本当に学歴にはそのような効果があるのだろうか。このことをめぐる論議が長い間、教育社会学という領域で行なわれてきた。それが「学歴決定論」(注1)と「学歴社会思い込み論」(注2)との対立である。
 まず「学歴決定論」について説明していこう。これは「学歴」がその人のその後の一生を決定してしまうという考え方であり、たとえばOECD教育調査団の昭和51年の報告書には日本についての以下のような報告がなされている。・・「雇用主の多くは卒業生を、彼らがどのような知識や能力をもつかでなく、入試の結果どのような大学のどの学部に入学したかによって判断する。十八歳のある一日に、どのような成績をとるかによって、彼の残りの人生は定まってしまう。」(OECD、1976、p92)と。また、日本人論者のあいだでも、このような意見はみられ、たとえば「学歴信仰社会論」で有名な尾形憲氏は、次のように論じている。「日本では、大学へ入ればともかくもトコロテン式に押し出してくれ、あとは官庁や大企業ほど「やすまず、おくれず、働かず」で定年までの終身雇用ということになるから、大学入試は文字通り一生を左右する関門となる。」(尾形、1976、p15)
 このように決定的な効果をもつ「学歴パスポ−ト」を得ようとして、大学への受験競争がますますエスカレ−トしていくのだというのが、学歴決定論者たちの主張である。
 対してそれを批判する「学歴社会思い込み論」の人々も存在している。すなわち学歴は「学歴決定論」者がいうほどに決定的なものではなく、したがって日本が「学歴社会」であるという考えは「思い込み」にすぎないと主張する人々のことである。この論派の主要人物である小池氏は「学歴社会の虚像」の「あとがき」の中で次のように述べている。
 「調べれば調べるほど、あまりにも実態が誤解されているという憂慮がつよまった。あまりにも事を調べずに「常識」が横行している、というおそれがあった。(中略)「学歴社会」は当然の事実として、すべての論議の前提とされ、どの学校をでたかで昇進が決まるかのごとく思いこまれ、学歴による所得差が大きいと信じられている。」(小池・渡辺、1979、p182)
 「思い込み論者」の人々は日本が学歴社会ではないということを、さまざまな統計資料により説明していった。たとえば彼らが声高に語る主張の1つとして、「学歴別の所得格差」があげられる。彼らは日本が学歴社会ではないことの証拠として、日本は世界と比較して学歴別の所得格差が最も小さい国に属しているということを指摘する。しかもその格差も大学の大衆化にともない、どんどん低下してきている。だから日本は学歴社会どころか、「まれにみる平等社会」なのであると彼らは主張する。
 また、所得面においてばかりでなく、「就職」、「昇進」の面においても、かつてのように大卒の知識がつよく求められ、しかもその大卒者の人数が少なかったころならばいざしらず、今のようにそれこそ“猫もしゃくしも”大学にいくような現在では、学歴の「力」は大幅に低減してしまっている。学歴による就職、昇進の差はたしかに認められるけれども、しかしその差は決定的と言えるほどのものではなく、学歴は単に1つの要因にしかすぎないといったことが、この論派の人々の調査(特に小池氏や渡辺氏の調査)によって証明されている。
 このように学歴のもつ「資格」としての機能は昔に比べて大幅に低下してきている。その意味で日本はたしかに「学歴社会ではない」(学歴社会だというのは、思い込みにしかすぎない)と言えるのかもしれない。しかし学歴の持つ機能が低下してきているにもかかわらず、逆にますます学歴を求める受験競争は激化しているというのが現状だ。たとえば1997年度のセンタ−試験受験者数は過去最高の多さだという(大学入試センタ−の12月9 日発表によると、1997年度の確定志願者数の総数は前年より2万5千8百4十7人(4・5%)増えて59万9千9百6十2人であり、高校卒業予定者に占める志願者の割合(現役志願率)も3・0ポイント上昇の27・4%といずれも過去最高となった)。これはい ったい何を意味しているのか。
 私が思うに、それはつまり、もし仮に学歴社会が「思い込み」にすぎないのだとしても、当の本人たちは明らかにそこに「何らかの意味(あるいは意義)を見いだしている」ということなのではないだろうか。大切なのは、事実、学歴に効果があるかないかではなく、人々が「学歴」にはなんらかの意味があると思っている(まさに「思い込んで」いる)その現実の方であると思われる。だとしたら日本はやはりある意味「学歴社会」なのではないだろうか。岩田氏もこの著書の中で、以下のように述べている。「学歴のもつ資格としての機能は、たしかにしだいに低下する傾向にある。しかし、現状はなお、このような傾向が進行する過程にある。それは、まだ学歴を軽視しうる段階にまでは到達していないというべきではないだろうか。」(岩田、1988、p23)
 学生たちの多くは、学歴を求めて今もなお多くの犠牲を払い、多大なる努力も惜しまない。こういった現実はやはり「学歴社会」と呼ぶしかないものなのではないだろうかと私には思われる。

(2)「日本だけ論」〜日本に独特の能力観と人間評価のしくみ〜

 ここでも岩田氏の「学歴主義の発展構造」の中の第4章「日本型学歴主義の特徴」の内容を主体にして話しを進めていく。
 「学歴決定論」「学歴社会思い込み論」という論議だけでなく、学歴社会は日本の社会にだけはびこった病弊と考える、「日本だけ論」(注3)という論議もある。彼らは日本を「世界でも類をみない学歴社会」(尾形、1976、p170)だと言う。このような「日本だけ論」が事態を正確にとらえていないことは、過去すでに明らかにされている。(学歴社会が日本だけの問題でないことは、R・P・Doreの「学歴社会−新しい文明病」の国際間比較の実態例をはじめとして多くの学者によってしめされている。(注4))小池・渡辺両氏らもこのような「日本だけ論」に対しては、「他国は「学歴社会」ではなく、「受験地獄」もみられず、わが国のみが「学歴偏重」社会なのだ、といわんばかりの議論が横行している。それでは真の問題の発見すらおぼつかない」(小池・渡辺、1979、p2)とし、このような見方に批判の意をあらわしている。
 しかしそれでもわれわれの意識の中になんとなくそのような意識(日本は特に学歴主義が激しいという意識)があるのは、いろいろな情報、たとえば「juku(塾)」という言葉が(外国にはない概念なので)そのままjukuのかたちで使われているという話や、アメリカやフランス、イギリスなどでは高校へ進学する際に一般に入学試験は行なわれないという話(1部の学校を除く)や、就職や昇進に際して問題となるのは、その人の「何ができるか」という実力の問題であり、どこを出たかというようなことはあまり問題ではないといったような諸外国の話を聞くにつけて、他国には受験戦争という状況はほとんどなく、またいかにも「学歴偏重」ではない、「実力」重視の社会であるような印象をわれわれは受けてしまうからではないだろうかと思われる。
 他の国々でも、学歴によって給料がちがったり、官僚などへの成り易さがちがったり(ハ−バ−ド大学など)、どこの学校に進むか、そしてどんな国家資格をとるかで、就ける職が決まってきたり(とくにフランスなど)している。やはりどの国にも学歴主義というものはあるのである。
 しかし、それでも日本は他とは違うと感じ、その「特別感」ゆえ、「日本は「特に」学歴主義が強いのだ」と思ってしまうとしたらそれは間違いである。日本の学歴主義は他の国のそれとは質が違うのである。日本ばかりではなく、それぞれの国がそれぞれ独自の学歴主義を持っているのである。つまり「それぞれの社会でそれぞれの特徴的な正確を帯びた学歴主義(学歴意識)が形成されている」と考えるのが事実に最も近いのである。
 日本で問題になっている学歴主義とは、いわば「日本型学歴主義」とも言えるような、日本に特有の学歴意識なのだ。このような国による違いは、その国の文化や価値観といった「心理的なもの」、政治や産業界といった「社会的なもの」などに関係していると考えられている。このようなそれぞれの国の学歴主義(意識)の違いは、それぞれの国の大学観の違いにも明瞭にあらわれてくる。そこでまずこの「大学観」のちがいをみていこうと思う。例えば日本とアメリカをくらべた場合、以下のようなちがいがみられる。(岩田、1988、p99〜p108)
(1)日本の大学では「いい大学」とは、教員や教育内容が「いい」大学を意味するのではなく、「入試合格者のレベル」が「いい」大学を意味する。その結果多くの受験生たちは、教員の質や教育内容には目もくれず、少しでも難易度の高い大学へと殺到することとなる。
(2)アメリカでは大学のランキングはあくまでも「大学そのものの評価」でしかないのに対し、日本の場合大学のランキングがその卒業生の「人間評価」にまでつまがって行ってしまう。このことは例えば、就職の際に女子学生にとって4大卒ということが必ずしも有利に働くとはかぎらず(むしろ不利な場合があるにもかかわらず)、それでも年々女子学生の4大志向がふえてきているという現象になって表れてきているといえる。この現象は「よい就職」説によっては説明がつかない。人々が「自分自身に対する評価の確立」のために努力していることの明瞭なあらわれであるとみることができる。
(3)アメリカ人大衆のばあい、とかく大学を横にならべたがる傾向があるのに対し、(そして自分の土地の大学をひいき目にする傾向があるのに対し)、日本の場合は、わずかの差を基準に、一斉にタテにならべたがるという傾向がみられる。
(4)アメリカの場合、大学のランキングは大学関係者の間ではかなり意識されていても、一般大衆のあいだではそれほど意識されていないのが普通であるのに対し、日本の場合国民大衆の大部分が大学のランキングに関心をもっている。
 これらの「ちがい」を手がかりとして、「日本人の学歴意識」というものを考えてみた場合、岩田氏が「能力アイデンティティ−の確立」とよぶ成年期のある重要な問題が日本人の学歴意識に大きく関係しているのではという考えがみちびきだされてくる。
 ここでいう意味の「能力」とは「今後の錬磨によってきたえられるべき潜在的な可能性としての「能力」」のことである。氏は、「今なにができるか。」という「実力」を重視するのがアメリカ社会であり、対して、「将来のびるであろう力」という「潜在能力」の方を重視する社会が日本の社会なのだとしている。
 上で述べたような「実力重視」のアメリカ社会では、「ある領域においては高い実力を発揮する人も、他の領域においては人の下に立つことになる」という意識が人々のなかに根強いので、「実力」の評価は一般に人間そのものの評価とはむすびつきにくい。
 対して能力(潜在能力)の方を重視する日本社会では、「すぐれた能力をもつ人、すなわちできる人は、なにをやらせてもできるのであり、逆に駄目な奴はなにをやらせても駄目なのだ」という一種の信仰のようなものが、ひとびとのなかの深いところに存在しているので、一元的な能力評価が深く人間評価にむすびついてしまう。岩田氏はこのことをまた別の言葉で、「このように一元的な性格を持つ「能力」は、いわば「生命の質」の高さとしてその人物の人間評価と密接な関わりをもってくる」とものべている。
 そして、現在の日本では「大学入試」がこの人間の「質」にかかわる「能力」を証明する重要な機会とみなされているのだ。難関校の突破は、その人物の抜群の潜在能力を証明する証しとなる。だからこそさきほど「大学観」のところで述べたように、日本の大学の格付けは、教員の質ではなく受験生の質でなされる必要があり、受験生の能力を証明するための“ものさし”として、大学はヨコにではなくタテにならべられる必要があり、そして受験生たち自身は、自らの能力を証明するために少しでも偏差値の高い大学へと殺到する必要があったのである。
 つまり日本の社会における大学への激しい入試競争は、単に「よりよい就職」や「よりよい出世」への期待感によってのみなされているわけではなく、「人間の評価や誇りの問題」(アイデンティティ−の問題)のほうへと大きくからんでいることがいえると思われる。(アイデンティティ− =自己の価値証明・存在証明)(注5)
 日本の社会で受験戦争が加熱化する基本的な原因の1つが、この「大学入試における成否や出身大学のいかんが人間の分類(評価)につながりやすい」ということなのである。 潜在的な「能力」はもともととらえどころのない、判定しにくい力である。であるからこそ、なんらかのかたちでその能力の存在を、他人に対してまたそれ以上に自分自身に対して「証明」しておくことが重要になってくる。特に日本ではそれが「人間評価」にまでつながるのだからなおさらだ。「入試」に成功し、世間が自分の能力を「承認」することは、自分自身にとっても能力を「証明」したことになる。つまり「能力アイデンティティ−の確立」がなされたことになるのである。
 このように学歴の機能が低下してきているにもかかわらず、進学競争が激化しているというパラドックスについて、岩田氏は、上で述べたような「能力証明説」や「能力アイデンティティ−確立説」などによる説明以外にも2、3の説が考えられる(考えられてきた)ということを述べているのでそれらもここで紹介しておこうと思う。(岩田、1988、p89〜p90)
(1)エントリ−説(機会効果説)
 なにはともあれ大卒の資格ぐらいは持っておかないと、そのスタ−ト時点でエントリ−をすることさえできなくなってしまうから、という説。大学に進学するものの数がふえると、大学の卒業資格だけで成功へのチッケトを手にすることはますます困難になるのだが、同時にそのような高学歴社会ではそのような資格を持っていない人々は「より厳しく」排除されることになる。したがって「いい就職、いい昇進」への道を望むのなら、なにはともあれ、大学卒の資格を身につけておいたほうが得だからという説。(この説は後に2章「投資としての学歴」で述べる、「宝くじ付定期預金」としての学歴意識の話と、通じるところがあるように思われる。)
(2)社会的圧力説
 進学率が高度に高まると、進学しない者にはなんらかの欠陥があるとみなされがちなために、これが社会的圧力としてはたらき、不本意ながら就学するものが増加するという考え。
(3)惰性説
 学歴別生涯賃金などの格差の大幅な縮小にもかかわらず、従来の傾向の惰性として、あるいは、「みんなが行くから自分も行く」といった惰性によって進学がおこなわれるとする見方。

戻る