<序章 なぜ人々はこんなにも必死に学歴を求めようとするのか>


 わたしがこの卒論であつかう問題意識とは、「なぜ人々はこんなにも必死に学歴を求めようとするのか。」ということである。
 のようなことに関心をもつようになったのは、私が塾で中学生あいてに講師のアルバイトをしてきたせいかもしれない。「何のために勉強するの?」と言いながら塾にくる子供たちは、それでも高校に行くことはつよく希望している。あまり頭の良くない子供たちであれば、とにかく高校に入ることを目標とし、わりとできる子供たちであれば、1つでも上のランクの高校を目指そうとして努力をしている。
 なぜみんなこんなにも「進学」ということに、あるいは「勉強」ということに躍起になるのか。そしてまた、私自身もなぜ過去においてそのようなことに躍起になってきたのか。自分自身に対する疑問も含めて、こういったことが私の問題意識の出発点である。
 まず最初に、この卒論の章立てを説明しておこう。
 1章ではまず、過去になされてきた日本の学歴社会をめぐるいくつかの論争について検討していく。そしてそのことを通して、「日本型」といわれる「学歴社会」や「学歴主義」についての考察を深めていき、ひいては日本に特有の「能力観」や「人間評価の仕組み」などの話にもおよんでいく。
 2章においては、「投資」としての学歴のもつ意味や、その効果について言及していく。特に「宝くじ付定期預金」としての学歴の効果について説明していく。
 3章においては、「学歴志向化のエイジェントたち」と題して、生徒本人の勉強に対する意識や、進路選択時の判断に、すくなからぬ影響を与えると考えられる「親」「教師」「友人」などの影響を考えていく。特に「親」の立場からの視点で「学歴獲得競争」を考えていく。
 そして4章においては、質問紙調査の結果を、5章においては調査結果からの考察をおこなっていく。また、蛇足になるかもしれないが6章において、4章で入れられなかったいくつかの分析結果を提示しておこうと思う。

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