第一章 ヒーローとは

 ヒーローについての分析を始める前にまず規定しておかなければならないのはこの論文で言うヒーローとは、アニメやマンガ等に出てくるフィクション物ではなく、あくまでもノンフィクションの存在に対する呼称だと言うことだ。
 「ヒーロー」とカタカナで書くよりも「英雄」と表した方が重々しく感じられると思うがこの論文では後者の言葉の雰囲気で「ヒーロー」をイメージしていただきたい。

第一節 ヒーローの歴史

 人間の歴史には常にヒーロー達の活躍の実話そして寓話、ともに多数存在しその時代時代のヒーローとして尊敬されたり親しまれてきた。これを事実として捉えることに異論を唱える者はいないだろう。ヨーロッパであってもアジアであってもアフリカであっても、古代であっても現代であっても未来であってもこれは揺るがないことだと考えている。
 人間が人間として生きていく上で、時代や環境によるいかなる文化の違いがあろうとも人々はさまざまな感情をヒーローに抱きヒーローと共に歩んできていると言える。
 日本社会を例にとって見ても、古くは日本武尊の寓話から始まり、やがて戦乱の時代には武将の武勇伝・功績が伝えられ、近代においては大きく変化する時代の中で、その変化の旗頭となった人物がヒーロー視され、そして現代と呼ばれる数十年の中においてもヒーローと呼ばれる人々が存在してきた。
 分かりやすい例としては、今でも語り継がれる戦後の日本における典型的なヒーローとして、第二次世界大戦で焼け野原になり希望もない時代に登場し人々を魅了して復興に向けての勇気を与えた美空ひばり、体格のいい外国人相手に連戦連勝、しかも空手を使っての勝利で国民に活力を与えた力道山が真っ先にあげられる。彼らは見事にその時代において日本国民の心を的確にとらえ、とらえていたからこそ今でも代表的なヒーローとしてさまざまな特別番組等で取り上げられているのだ。
 ヒーローとは松尾弌之が言うように「ある時代に特有の考え方がそれなりの特色のある英雄を作り上げてきた。あるいは時代の考え方に沿うような業績を上げた人物が、その時代のヒーローとして祭り上げられてきた。」(松尾、1993、218)ためにその時代時代、そして人々を如実に表している。つまり時代の変化がヒーローの変化となるのだ。そうしたヒーローの歴史の中における変化の中でも、現代は特に顕著な変化を見せたと言えるだろう。以前はシンプルだった社会があまりにも精緻かつ複雑になってしまい、ヒーローもそうした社会の中でさまざまなタイプのヒーローが求められているに違いない。

第二節 ヒーロー不在の時代

 第二節ではヒーローとは何かについて現代と昔との比較で考えてみたい。
 先ず、ある人物がヒーローと定義される条件を挙げると、「偉大な行為、役割を果たした」ということが挙げられる。
 漠然とした現代と昔の比較は困難なので、ヒーローがヒーローと見なされるまでの人々への浸透の仕方という基本的かつ重要な視点でヒーローの条件を考えると、マス・コミュニケーションが現代と昔の区切りと考えられるためこれを現代と昔の比較の際の区切りとしたい。
 その理由として例をあげると、小此木啓吾は「既成概念における英雄は、いずれも、どこか現代人にピンと来ない、過去のもの」になったといいその原因として「現代は高度の情報化社会であり、マスコミ社会である。」(小此木、1984、179頁)といっている。また金山宣夫も「世が世ならばヒーローになるべき人物も、メディアにさらされ、それと妥協しなければならない」(金山、1993、19頁)と現代の特徴とも言えるメディアがヒーロー観の大きな分かれ目であることを述べている。これらから、マス・コミュニケーションの発達の度合いがヒーロー観の一つの区切りとなっているといえる。
 「偉大な行為、役割を果たした」というヒーローの条件はマス・コミュニケーションが発達していなかった時代においては、井上宏が言う様に「時代の英雄は、徐々に国民に浸透していったものであり、浸透していく力は、何よりも英雄自身の偉大な行為にあった。」(中村祥一編、1988、132頁)訳だが、この英雄=ヒーローの国民への浸透の仕方から、マス・コミュニケーション発達以前のヒーローがいかに強大で、人々から崇められるほどの存在になり得たかが容易に想像できるだろう。というのも、その人物の偉大な行為は国民から国民へと伝えられてはじめて広がるものなので国民全体への浸透は非常に長い時間がかかるため、ごく限られた最も偉大な行為を成し遂げた人物のみがヒーロー視されたと考えられ、また、その存在の希少さのために、さらに人々に語り継がれ、尊敬されていったと考えられるためだ。
 これに対して現代ではマス・コミュニケーションが発達し、我々もそれに頼っているためにマス・メディアに取り上げられたヒーローは瞬く間に全国に広まってしまい、マス・コミュニケーション発達以前のようなごく限られた数の、人々から崇め奉られるようなヒーローは生まれにくくなっている。というよりもマス・メディアに取り上げられたヒーローのみがヒーローとなっているのが現実だろう。そしてマス・メディアに取り上げられるヒーローが多いために世の中にたくさんのヒーローが存在している。
 このように現代ではヒーロー誕生にマスコミがなくてはならないものになっていることを理由に多くのヒーローに関する文献ではマスコミが生み出すヒーローはヒーローと認めていないため、現代はヒーロー不在の時代になってしまっていると考えている。

第三節 ヒーローの役割の今と昔

 次にヒーローの役割について現代と昔を比較したいと思う。
 第一節でも述べたようにマス・コミュニケーションの発達以前においてヒーローとは、その人々への浸透の仕方の性格上、選りすぐられた非常に偉大なる尊敬の対象として存在した。そのため国民はヒーローを遠い存在として感じ、井上宏が言うように英雄は「人間でありながら、神のような”聖なる”存在と化していく。」(中村祥一編、井上、1988、132頁)ほどの存在だった。そして誰もが畏敬の念を送る対象として一人のヒーローを見ることで国家や集団に対する一体感と帰属意識が存在しておりそれがヒーローの役割と呼べるものだった。
 現代では数多くのヒーローがマス・メディアによって紹介される事を契機に誕生しており、そのようなヒーローの伝播方法ではヒーローと呼べないと言われているが、それも複雑化した社会に生きる我々が望んでいるために生まれてきたと考えられないだろうか。
 あくまでもこれはわたし自身の仮説だが、現代人は数多く生み出されるヒーロー全てを素直に受け入れている訳ではなく、ヒーローになるに値する人物を巧みに選択していると考えている。これはマス・コミュニケーション、マス・メディアの成立・発達以前のヒーロー観とは異なるもので、国民や集団に共通したヒーローを求めているのではなく、個人個人のヒーロー観を持ちそれぞれが数多く存在する”自分のヒーロー候補”から自分の希望をかなえてくれるヒーローを選択しているのであって、そのためヒーローの役割も多種多様になっていると言えるのではないだろうか。
 そして、数多くある社会の問題のなかで何が最も大きな問題を抱えているかがはっきりした際にはそこにヒーロー誕生を求める人が多くなってくるのではないだろうか。

第四節 仮説としてのヒーロー論 

 まず単刀直入にいうと私は今現在もヒーローがいると考えている。
 しかしその一方で現代をヒーロー不在の時代として嘆き、私に言わせれば「昔は良かった」的な発想で懐古している人がいて、現代はヒーローが生まれるのは困難な時代だと言い切ってしまっている。
 しかし彼らの多くは、時代によってヒーローの捉えられ方が変化してきたことを自分たちで述べながらも忘れがちになっている。
 第一節でわかりやすい例として美空ひばりや力道山をあげたがこの二人もそれぞれ当時の日本で人々が求めていた希望や活力を与え、欧米諸国に対する強い劣等感を緩和する役割を担っていたといえる。戦乱の時代には「強い」ヒーローが人々を魅了したことも事実だろうし、そのような中で平和を求めて立ち上がるヒーローもいたことだろう。平穏な時代には技術開発をすることによってヒーローになったものもいただろうし、人々を「楽しませる」ことでヒーローと呼ばれた人もいただろう。それがその時代に生きる人々の望むヒーローならば、なぜそれがヒーローではないと言えるのだろうか。
 彼らは既成概念から逃れられないままにヒーローについて語り、分析し、ヒーロー不在という結果までも導き出している。確かに彼らはヒーロー不在の理由として、マス・メディアによるヒーローの氾濫やスキャンダルを挙げている。
 何故、多くのヒーロー研究者たちは柔軟に素直に、新しい現代のヒーロー像を求めようとしないのか、何故過去のヒーロー像にこだわってしまうのか、それが私には疑問に感じられてならない。
 そこで私は大まかにだが、現代のヒーロー観を3パターンに分けてみようと思う。
 まず一つ目は、「近いヒーロー」と名付けるものでスキャンダルがあったり、人情味があったりと、ヒーローが自分たちと同じ人間であることを感じさせてくれたりと身近に感じるヒーロー。ただし身近に感じる理由は特には問わない。
 二つ目は、「遠いヒーロー」と名付けるものでマス・メディア発達以前のヒーローと似通った部分を持つヒーローだと言える。しかしこれも遠いと感じる理由にはこだわらない。 そして三つ目は「共同体ヒーロー」で、現代のマス・メディアによる多くのヒーロー候補の中でも、特にヒーローとして認められている存在がこれにあたる。近く感じるヒーロー、遠く感じるヒーローいずれにせよ、マス・メディア発達以前のヒーローのように実に多くの人々に認められたという点ではマスメディア発達以前のヒーローと似通っている部分もある。 
 以上の3つのヒーローのタイプを導くのが、単なるヒーローのイメージと並んでこの研究のテーマとなっている。
 ヒーローとはその時代における人々の求めるものと深い関係があると述べたが、そこにヒーローについて研究する大きな意味があると思われる。ヒーローには人々が求めるものを映し出す鏡としての役割を持っている。人々が求めるものがはっきりと映し出される。 複雑化した社会においてはさまざまなヒーローが現れるかもしれないが、「共同体ヒーロー」を求める声もあるだろうし、その先には日本社会全体の求めるものが存在しており、日本社会が含んでいる問題も映し出されることも考えられる。

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