第四章 考察


 今回、日本は国際社会に適応するために、国内の動向より海外の動向に同調する特性を持つのではないか、という仮説をたてた。二章では研究者の立場、三章では反対団体の立場について調べた。そこで判ったことは、日本の科学界のシステムが同調せざるを得ない構造になっていること、そして反対団体も海外の方針を支持している傾向があること、である。バイオエシックスの表面的なシステムだけを導入し、それ自体の意味を理解するまでにはいたっていないこともわかった。以後、さらに詳しく考察してみる。

 第二章で気がついたことは、動物実験は生物を学ぶにあたって不可欠な教材とされつつその実験の意義についての解説は提示されず、どの動物でもよく、教科書を片手に体のつくりがどうなっているかを確認する程度の古典的な、慣習的なパターンの授業になっていることである。
 動物実験の授業では、実際に動物に対してあたえる苦痛、死といったものに、とりたてて配慮があるわけでもない。教授も学生もどこか割り切っている様子が伺える。義務教育過程における理科の授業と同様なもの、と考えるとわかりやすいかと思う。生命の尊さや犠牲にすることを考えるのではなく、知識として身につけることが第一なのである。
 しかしながら価値判断、倫理は保留にしたまま、知識として身につける授業が続いたあとに、動物実験について「人道的でない」と欧米の判定が下った段階で、文化のギャップについて考えざるをえない状況になる。この段階で初めて、動物実験の倫理について考えるきっかけを得るのだ。いわば、彼らにとっての「動物の福祉」概念は、学生のときから培うものではなく、研究者としての道を歩み始めた段階においてはじめて必要性が生まれるようである。
 動物の扱いが非人道的だとして論文の却下が行われ、「国際的活動をするために」、かんがえざるをえなくなった。しかし「日本の思想は欧米にはなかなか理解されない」ものとして、相いれないものがあることを感じている。欧米の動物思想を輸入というより、その意向に沿うような方法を導入することで落ち着いている。
 また、彼らは動物実験代替法に関してこうのべる。「愛護のため、経済的理由のため、そして何より科学的な根拠にもとづいて」である、と。これはつまり、こう述べることにより、哲学的、宗教的、文化的なことについて触れることを回避し、技術としての導入を納得しよう(させよう)とするものである。そして代替法は、動物実験でなくとも、安全性試験つまり毒物判定試験は、社会に必要であり、何かを犠牲にして危険性を確かめるという方法は保持したままである。
 このように、日本としては抵抗のある概念を持ったものを導入するにいたる理由は何であろうか。
 論文を発表してそれを自分の実績にする、というシステムが日本に成立していることは前に述べた。ここで私は、この日本的システムが、非直接的なパターナリズムを働かせる原因になっている、と考える。どういうことかというと、こうだ。同じ科学界とはいえ欧米の科学誌のほうが、ランクが高い。より高い実績をあげようと思えば、欧米の雑誌に投稿したほうがよい。そんな図式が成り立つ。しかし欧米の示す「人道的」な実験を行わないと、論文を載せることもできない。
 医療現場におけるパターナリズムとして、次のような説がある。
(1)対面的パターナリズム(医者と患者)
(2)社会的集団と集団のパターナリズム(医療専門家と非専門家)
(3)共同体内部のパターナリズム(統治主体と被統治者)
(「日本社会と生命倫理」小原信、森下直貴編、1993、以文社、p25)
 つまり、科学界において、日本は、欧米先進国という統治主体それに追随せざるをえない被統治者ということになる。ちなみに、日本において反対団体は非専門家として、地位が違う。科学者は「人類のために努めている」のに対し反対運動が新興宗教扱いなのは、(2)の専門家と非専門家としての力関係が、存在しているからと言えよう。このように、統治主体と被統治者、専門家と非専門家、の力関係が、動物実験に関するバイオエシックスの導入に作用している、と言るのではないだろうか。
 第三章では、反対団体について述べてきた。反対団体は、論理的かつ科学的であるために、科学的根拠に基づいた本を利用、科学者との交流、また「見習うべきところの多い」とされる海外との交流も行っている。それがもとで動物実験反対運動は、科学者の見解の枠内での発言になっているのではないだろうか。お互い科学という土俵の上での、反論である。
 また、海外には研究者と連携して書かれた動物実験反対の書物も多い。法律を変えることは難しいのをわきまえたうえで、反対団体は、まず「欧米並みの」規制や、審査機関、動物実験代替法などを要求している。
 動物実験代替法は、当初、動物実験代替法を、実験頭数を減らすものとして支持していた。しかしこの方法は結局、安全性試験つまり毒物判定試験は、社会に必要であり、何かを犠牲にして危険性を確かめるという方法を支持することになる。また、データベースを作るのに、また動物実験が必要である、という事実もわかった。団体の趣旨と食い違うものを支持していたのである。科学的根拠をもって科学に反論したところ、また科学にうらぎられたしまったのである。以下、詳しくまとめてみた。
  動物実験代替法とは何か、実験指導書をおもに参考にして、まとめてみた。
 ロシアや他のアジア諸国では、実験のガイドラインに「動物の福祉」を組み込むことについて、「金持ちの意見だ」としている。
 先進国では、動物を愛玩動物として飼ってからの歴史が深い。労働力というより友達、家族、という意識が強くその研究も成熟している。日本はまだ可愛いペットとして愛玩の対象になっているだけで、動物のよりよい生き方まで踏み込んではいない。
欧米諸国で要求されるるのは、「動物の人道的な取り扱い」である。人道的取り扱いとはなにか。よく引用されるものに、三つのRがある。実験動物にかわるものをさがすこと、実験動物の使用数を減らすこと、実験動物に苦痛を与えないこと、である。より詳しく述べると、不要な動物実験の廃止、極端に動物を苦しめる実験の中止、出来るかぎり麻酔の使用、積極的な動物実験の置き換え、などである。
そこには、さまざまな問題がかかわってくる。
(1)不要な動物実験の廃止:命を扱うからには、安易な動物実験をしてはいけない、とのことであるが、科学界の「業績を発表するか、それとも研究者生命を失うか」という体質がそれを許さない。「動物実験は、比較的結果がはやくでて、簡単に出来るので、魅力的なものです。既存の動モデルを用いて、質ないし少数の変数を変え、論文として公表できる成績を得るということは容易なのです。」(MRMC冊子より)
(2)実験動物の使用数を減らすこと:A実験動物仲介会社の一人に聞いたところ、興味深いことを聞くことができた。実験動物頭数は減少の傾向にあるということである。その理由に、動物実験は残酷であるという意識が人々の間に広まったこともあるが、何よりも減少に貢献したのは、実験動物の品質が向上したことによる、というのである。以前は、マウスを百匹使っても結果が明らかにならなかったことでも、品質が向上したことによって、極端な話、半数ですむということも可能になった。実験動物の品種は、日々「向上」していっている。マウス、ラットなどは特に、系統別にしてそれぞれ判るだけでも50種類以上は品質の差がある。しかも業者が扱っている動物とは別の疾患モデルを、大学教授など研究者が個人的に作っているということであるから、その分化した数ははかりしれない。また、その製造・保管・運搬も高度な技術を必要とする。A実験動物仲介会社に動物実験施設を建設するならどれくらいかかるか、見積もりを出したところ、総額10億円はするとのことだった。もとを取るには動物を売らねばならない。ピンからキリまでだが、マウスは安いもので400円から数万円、ラットも1000円から数万円の幅がある。安いものは安全性試験に、高いものは製薬会社、大学研究員の論文に使う研究動物として売られていく。しかし雄だけ需要があるため、残り半分の雌は廃棄処分になる。利益をもたらすのは半分の雄だけで、もとを取ることは容易ではない。現在の実験動物は無菌を保つために、最新の注意を必要とする。施設は往々に空気のきれいな山間部にあり、運搬には、空気清浄機能のついた特別トレーラーを使う。研究所に引き渡す際には、菌にさらされないように早急に移動させる。
 つまり、実験頭数を減らして、なおかつ正確な結果を出し、学会に成果を上げるためには、高品質の実験動物をつくる予算がなくては成り立たないのである。
(3)極端に動物を苦しめる実験の廃止:現在、残された未知の研究分野は、脳、神経系である。また、急ピッチで遺伝子解析が行われている。
脳、神経の解明には、ネコ、サルが使われている。人間の脳のことを知るには、サルが使われる。一般には、脳に電極をうめこんで観察する。日本では、農家の畑を荒らすサルが捕獲されて、数万円で払いさげられることもあるが、(ちなみに脳神経の解明は、安全性試験や臓器研究のように無菌にはこだわらない。サルは貴重なので、死ぬまで何度も同じ動物をつかう。)また、ある論文には、規制のゆるやかなアルジェリアからサルを購入することを勧める、と書かれていた。国内で不可能なことを海外に求めている現実がある。購入筋は、国際ルートで存在するのだ。一方、遺伝子治療の目的は発病要因となる遺伝子を正常なものに戻すことである。今需要があるのは、人間の核膜をもったウサギを作り出すことだという。かつてヒヒと人間の臓器移植が行われたが、人間の臓器を持つブタを作り、人間に役立てようということも考えられている。
最先端の医療研究をするには、どうしても動物実験は避けて通ることはできない。医学部の外科なども、手術の練習に、動物を使う。(愛護団体は、人体での経験しか役にたたないものだ、といっているが)臓器移植などは最たるものだ。しかも脳、神経にいたっては「やむをえず麻酔なし」で研究することが必須で、激痛を伴い、少なくとも「人道的」な配慮は期待できない。
 最先端でなくとも、外科などでは、手術の練習として動物が使われる。臓器移植などもそうである。(愛護団体は、結局役にたつのは人体での実地経験である、という)
(4)積極的な動物実験の置き換え:現在考え出されている動物実験代替法は、まるごとの動物実験ではなく、コンピューターシュミレーションや、変温動物、無脊椎動物、微生物あるいは培養組織での判定、などがあげられる。例に化粧品会社のレブロンがウサギの目を使った安全性試験のドレーズテストのかわりに「アイテックス」という代替法を導入し、動物実験反対団体は、それを推奨しているが、そのテストも、動物実験との相関関係を調べるために、多くの動物実験がなされた結果、できたことである。そして代替法研究には相当な費用がかかり、共同利用できるデータベースが必要である。「アイテックス」は試薬を使って判定する。試薬は海外でも販売される。もし、試薬形式の方法が義務付けられたなら、その試薬を購入しなければならない。そして、コンピューターシュミレーションにしても、機材、そしてソフトの共同利用が必要になる。結果、代替法にはやくからとりくんできた国が利益をあげて、他の国は追随することになる。購入資金がないことには不可能である。しかもそのデータベースを作るには、皮肉なことに多くの動物実験が必要とされる。動物実験との関連性がなければ意味がないからである。
 研究者が世界にでる一歩は、欧米の科学雑誌に論文が載せられることから始まる。欧米の科学雑誌には、実に多くの国からの論文が寄せられる。まさに科学には国境は存在しない。しかし文化の国境はある。その条件には、動物愛護という欧米の思想が根底にある。それを習って、パスしなければ国境を越えられない。
 このように、欧米の愛護精神が端を発し、各国におなじものを要求する構造ができている。が、最先端技術の開発と、それに並行して実験動物の向上が勧められている限り、数は減っても絶対に無くならない構造と、経済格差が実験結果につながる恐れがあること、また、福祉国である欧米自身が動物の輸入を海外に求めていることの矛盾に、世界の不満や疑問が存在している。
 彼らは、まず動物の福祉概念が広まっている「欧米なみの」基準、審査機関などを要求している。再三のべるが、法律など、根本から即変えることを、無理だと理解しているからである。その点で、動物実験のガイドラインに「動物の福祉」なる条項ができたのは、ある意味でその意志にかなうといえるだろう。しかし、その実情は各自の自主規制にまかせる、論文は説得出来れば受理も可能、ということである。
 日本の、動物実験に関する変化の事例として、ガイドラインに動物の福祉について書かれたこと、代替法が正式に研究されはじめたこと、などをあげた。それは、偽りの妥協点と言えるのではないだろうか。
研究者側はそれらを導入することで、海外にたいして歩み寄った形になるし、反対団体に対しても譲歩したポーズをとることができる。しかし研究者側は、支障なく、そしてより発展的な研究をおこなうために、適応したという形である。動物実験の意義はそのまま、そして全廃ははなから考えていない。反対団体の意図するところはまったく違う。動物の福祉概念、代替法の導入から、徐々に動物実験の全廃をはかろうとしているのである。 そういう意味では、研究者は反対団体に、形では近づいたかに見えるが、じつは彼らの意図するところとはまったく違う方向にいたのである。

 動物実験反対団体はマイナスの先入観を持って見られることが多い。パネル展で、残酷な実験の様子を展示すると、動物実験反対団体の行うことに対して、「そんなおそろしいもの見せないでくれ」「見たくなかった」という感想もないわけではない。研究室という密室の中でそれを行っているのは科学者であるのに、暗い、重い、といったイメージを、なぜか反対団体に抱いている。暗く恐ろしいものを私達につきつけるからであろう。事実を見せる反対団体のほうが、科学者よりも私達に不快を与えるのである。
 今回調べてみて、動物実験反対運動側は、感情的だ、という誤解を招かないためにも、論理的な運動展開を心掛けていることがわかった。たしかに、会報をみると、動物実験の全廃を目標としているが、直接行動は行わず、活動は地道なものが多かった。少しずつ社会の変化を促して、急激な変化は期待しない。科学者の意識が変わることを、話し合いによって促そうとしている。そして科学者に対して抗議をするときは感情を押さえるように心がけていた。肉を食べない生活も勧めているが、選ぶ自由はある、として無理な強制はしていない。日本人に合うよう、徐々に変わればよいのだ。
 科学界は、「人間のため」なら動物の命の尊さについて考えなくてもよいという下地ができていた。しかし考えなければならない事態になってしまった。が、まだ考えないでよい時期と、考える時期とが極端に分かれている。欧米の「動物の福祉」といわれてもピンとこないのは当たり前である。自分のなかで倫理が根づいていないからだ。
 なにも、それは「動物の福祉」に限定して変化する必要は全くない。何が一番大切か、を根本的に問い直すことを、日本から、日本なりに提案できないものか、と思う。
 今まで、科学は命を犠牲にすることに注意を払う必要がなかった。そんな空間に「倫理がある」と言われても、その倫理は違和感を持つものだろう。日常と研究室は違う。科学という空間以外で動物実験をしたら、それは異常行為である。すでに「科学」という専門分野にしか適用できない何かが存在する。それは、「科学は人のためになっている」という大義名分で、まずそれを取り除かない限り、日常社会と科学界の隔絶はなくならないだろうと思う。

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