第二章 研究者の意識と対応

一、学生の実験への意識

「動物の福祉」「動物実験代替法」について、学生はどのくらい認識しているのだろう。12月に、3人の学生に、電話による聞き取りを行った。
対象
・Aさん(某国立大学の医学部4年生)
・Bさん(某国立大学の理学部生物専攻4年生)
・Cさん(某国立大学の教育学部生物コース3年生)
方法
・電話によるインタビュー
主な質問内容
・(1)どのような動物実験を行ったか。どんな内容か。
・(2)その際、実験の倫理について触れたか。
・(3)それ以外で倫理の授業は受けたことはあるか。どんな内容か。
・(4)動物実験代替法について知っているか。
・(5)その他

その結果は次の通りである。
 Aさん:(1)犬猫は経験なし。カエルやラット、モルモットなどの解剖があった。生きたモルモットと麻酔を染み込ませたガーゼを、一緒にビニール袋にいれて、口をしばる。麻酔の過剰吸引による窒息死を図るのである。こんな実験を、なぜするのか、とその時医学生は皆とても嫌がったという。また、動物実験を行うにあたって、毒物を投与されたり、治ることのない動物に関しては、苦痛を取り除くためにも、「殺してあげなければならない」必要性も生じるという。外科は性格上大型の動物を使わざるを得ない。(小型動物では縫合の練習ができないから)
(2)解剖にあたって、動物実験の意味、倫理問題についての話しもとくになかった。(3)特別講義のなかで、インフォームドコンセントやプライマリケアについてのレポートをかかされたりはした。しかし動物実験について講義を受けたことはない。(4)動物実験代替法、ということばは聞いたことはあるが、具体的な内容は知らない。
 (5)医学問題は、講義で内容をおぼえこんでも仕方のないことで、現場と向き合ってから自ら体得するものである。/犠牲になった動物の命と、検体に協力してくださった命に対して、年に一回、慰霊祭が行われる。それには極力参加するように、と知らせが来る。/最近は、動物実験は縮小の動きになってきている。というのも、愛護団体の反発もあるからだという。問題をおこしてまでその動物を使わなければならない理由もないことも事実である.
Bさん:(1)ヒトデ、ウサギ、ラット、モルモット、ヒトデ、カエル、魚類などの解剖。犬猫など大型の動物は使ったことはない。近くのペットショップからメダカを定期購入しているそうだが、実験という用途は話さずに購入しているという。(2)倫理について講義はなかった。臓器の位置の確認が目的で実験を行っただけ。(3)動物実験の意義について、一度も倫理の授業をしたことはない。そもそも動物実験を一つの科目として取り上げることがない。(4)動物実験代替法のことは、友達との会話のなかで小耳にはさんだ程度。学校で習ったことはない。(5)愛護団体の講義はあるとのことだが、詳しいことは知らない。
Cさん:(1)鼠の解剖をしたのだが、学生たちはそろって山に登り、捕獲しながらも、いったん教授に鼠を渡し、殺すのは全て先生の手に委ねられた。その後剥製にした。(2)倫理の講義はなく、こういう手順で、次これをして、という手技を教わっただけ。(3)動物の福祉について習ったことはない。実験に関しての倫理の授業はしたことがない。(4)代替法については知らない。

みな総じて、実験をするにあたって、特に、倫理の講義を受けたことがない、ということがわかった。

二、研究者の実験への意識

富山の動物愛護団体、北日本動物福祉協会にインタビューをお願いした。大学等でさして必要性のない動物解剖実験がおこなわれる背景には、実験動物供給業者と学内の指導者とのつながりがある。実験動物供給業者としては、大学に納入されればされるほどよいわけで、製薬業者が医者におこなう営業活動と同等のことがなされているとみてもいい、と。そういった人と人とのつきあいがあって、解剖の授業が存在するのである。
 動物実験をしている教授と、実験動物を仲介することで交流の深いA実験動物供給会社に聞き取りをお願いした。その関係者は、大学内部のシステムのことをこう語る。・・・本格的な動物実験が始まるのは、院に入学してからのことである。まず研究員として教授の下でチームをくんで働く。行うことは、自分がついた教授の研究の動物実験をすることで、はじめは与えられた仕事をこなすに過ぎない。その後博士、修士号を取るための論文を書く。教授にいたっては製薬会社から委託されての研究のための論文もある。それらはいずれも動物実験を使って立証しなければならない論文である。・・・
 動物実験反対の動きがあっても、動物実験の意義に基づいて、実験をして論文を書く、という論文の作成のシステムが出来上がっているので、実験は不可欠なものなのである。 そういった論文の掲載先は欧米であったりするので、動物実験に厳しいガイドラインがひっかかってくることを、その時に知るケースが頻発している。
・・・日本の研究者は、動物実験をおこなって論文にまとめ、海外の医学雑誌などに投稿して、はじめてカルチャー・ショックをうけることがある。「この研究は動物虐待ではないか」とのコメントがついて、提出した論文が投稿先からもどされてくる。(「動物に何がおきているか」平沢正夫、1996、三一書房、p149)
・・・欧米誌に投稿した日本人の科学論文が、その実験が必要とする以上の苦痛を動物に与えている、あるいは動物の苦痛軽減についての配慮が足りないとして再投稿を求められたり、不受理となった例が散発している。残酷な動物実験の論文を掲載したときの責任は雑誌の編集者にあり、欧米においては、編集者の社会的責任はきわめて重い。(「実験動物入門」中野健司ほか共著、1988、川島書店、p20)
 しかし、人道的な動物実験をしたのだと説得出来れば通るケースもある。
・・・北大医学部のある研究者がラットで動物実験をして、論文を投稿したところ、こんなことを言われた。「この実験がラットをつかわなければできないこと、ラットの使用数が必要最低限であること、実験がきちんと管理されたものであること、以上三点について倫理委員会の公式文書をつけてもらいたい」。・・・最近は、脳死臓器移植にそなえ、どこの医大や医学部にも「倫理委員会」はあるが、当時はなかった。・・・幸いにも、動物実験施設長が、医学部長をしていた。倫理委員会のかわりをつとめ、実験の担当者が動物実験技術者の初級ライセンスをもっていること、施設がきちんとした動物実験をおこなうためにもうけられたものであることを証明し、なんとか切りぬけ、論文は掲載された。(「動物に何が起きているか」p149)

三、日本の規制

 日本にも、動物に関する法律がある。昭和48年に、「動物の保護および管理に関する法律」が制定された。「しかし、この基準ができた当時は、研究者にも行政担当者にも、そして一般にも動物実験に反対する空気は強くなく、むしろ逆に健全な科学の発達を阻害する、という批判が非常に強かったのでした。そのため、総理府は強硬手段をとらず、これは動物についての基準で、動物実験そのものにたいしては将来別のところでおこなうべし、として」いる。(「日本動物心理学会特別講演、実験動物の福祉」1987年、前島一 、JAVAニュース5号)
 そして87年「大学などにおける動物実験について」という文部省学術国際局長通知と「動物実験に関する指針」が日本実験動物学会から出されている。おもしろいことに、その昭和62年(1987)年に、日本実験動物学会で作られた「動物実験に関する指針」というガイドラインは、昭和55年(1970年)の実験「動物の飼養及び保管等に関する基準の解説」(実験動物飼育保管研究会〔編〕ぎょうせい)と、1988年の「実験動物の管理と使用に関する指針」(アメリカNIH、1985版、ソフトサイエンス社)をもとに作られている。実験手法は70年でも、指針は85年版のものなのである。
 しかし、これらの規制の内容がどこまで浸透しているのかは疑問である。
動物実験犬シロを執刀した医師の発言はそれを表している。法律のことに関しては知らない。知らないが、動物実験は必要である、ということは理解して(もしくは思い込んで)いる。(事例1 参照)
「欧米では規則を規則として遵守するが、日本は、規則よりも運用を優先する」と言われている。たしかに、大学では倫理を特に扱わない。また動物実験の手法は、自分が所属する研究チームに左右される。このように動物に関しての規則を知らずに実験を行えることがわかる。その理由に、これらの規則は処罰を与える類のものではなく、自主規制を促すにとどまっているにすぎない、ということがあげられるだろう。

四、動物の福祉と動物実験代替法についての発言

動物の福祉の流れを受けて、動物実験の内容が変わってきている。簡単にまとめると、次のようになる。
 実験対象は、動物(哺乳類であることが多い)から微生物、さらに培養組織、非生物、試験官内での実験をすすめる。実験の代替の定義としては3つのRが言われている。即ち(1)Replacement、代替(2)Reduction、数の削減(3)Refinement、苦痛の軽減、である。また、動物をほかのもので置き換えることは完全には無理、ということで、二重三重の実験をしない、精度を高める、エレガントな実験計画をたてる、動物を苦痛から解放する、麻酔を使うだけでなく、狭いところに押し込めることもやめるという方法をとる。実験動物学会では、この方向で多くの会員が了承しているという。
 では、どこまで納得しているのだろうか。動物実験指導書を見てみよう。

「残念ながら、国際学会の評価が国内の評価を左右するという「文化的」伝統を持つ日本においては、欧米誌に研究論文が受け付けられることが大切である。この問題に対して、理性や論理を無視した素人の感情論に左右されるべきではない、とか日本的な倫理観を欧米に堂々と主張すべきだというレベルの意見では対応できない。重要な点は、欧米においては、動物実験反対運動に、研究者が過敏に反応しているのではなく、動物福祉運動に賛同する医学研究者が決して少数派でないことである。研究者をも包含した欧米の幅広い動物保護活動の実態を理解すべきである。西は西、東は東、とする硬直した考え方では、国際活動はできない。」(「実験動物入門」代表中野健司著・川島書店p24)     
 動物実験代替法ができた理由を、3つに分けて書かれた記事がある。
 動物愛護の運動を考慮してのこと、安全性試験にかかる経費削減を考慮してのこと、動物実験そのものが矛盾を持つので高い精度を持つ試験の必要性があったこと、の3つである。「遺伝」(6月号)という雑誌には、次のように書かれている。
「最近活発になったエコロジー運動の一環として、欧米諸国では動物愛護の立場から、動物実験禁止運動が繰り広げられ、研究者と一部市民とのトラブルが伝えられるようになってきた。」
「多数の動物を殺すことは、動物愛護との関連で、一般の人々にかわいそう、残酷、という不快感を抱かせることにある。とくに、最近は、欧米諸国を中心に、動物の権利という概念が生まれ、動物愛護運動も無視できない状態である。」
しかし加えて、
「人間を含め生命に関する考え方は、それぞれの民族や地方で育まれた文化的背景の違いによって大きく異なり、動物愛護という言葉の解釈にずれを生ずる。そして、日本人の感覚は、欧米人にはなかなか理解されないのは事実である。」としている。(「遺伝」1993、6月号、渡辺正巳の担当記事)

 そして、動物実験代替研究のもっとも重要なポイントは、「こうした動物愛護とか経費削減などの問題とはべつにあることを忘れてはいけない」、という。動物実験自体が矛盾を持つからだ、というのである。動物実験を否定することは、今までの業績も否定することである。また、その「根本的な間違い」は、動物実験反対のグループが、長い間主張してきたことである。専門家による発言と、非専門家の発言の重みの差に、力関係が反映されている。
 また、研究者の間でも根本的な意見の食い違いが見受けられる。以下、賛成・反対派の発言を抜き出してみた。「動物実験で得られるデータがヒトのモデルケースになりうるのか」という問いに対して、
代替法推進派:
*生体は個体差がおおきく、動物の飼育環境や飼料など、様々な要因で反応はかなり多様化し、試験実施施設間の結果に統一性がみられない場合が多い。影響因子が複雑に絡み合うまるごとの動物を使った研究は、まったく不適格である。(動物実験にひそむ不確実性要素を排除し、結果をヒトへ適用するための新しい技術と概念を作りだすことが求められる)生体反応のメカニズムを明らかにすれば、まるごとの動物実験でなくてもよいのである。(「遺伝」)
代替法疑問派:
*(上記のような発言は)実験科学とはなにか、を理解しない者の発言以外のなにものでもない。ヒトが遺伝的、環境的に雑多であるからこそ、それらの要因が均一な動物を実験に用いるのである。(実験動物入門)
犬のデータは所詮犬のものでしかないが、倫理上人体実験をするわけにもいかない。自立した生命体という点では同じであるため、動物実験をするのである。しかも、その他の原因、生活環境のちがいなどを排除しなければ厳密な結果がでない。(実験動物学総論)

このように、専門家の間でも意見は一致しておらず、「科学的根拠」の解釈がかわることがわかる。

戻る