第一章 現状、概要

一、バイオエシックスとは何か

「日本社会と生命倫理」「医療とバイオエシックスの展開」を主に参考として、定義についてまとめてみる。
 バイオエシックス(bioethics)は、「生命倫理学」と翻訳される。その生命倫理、生命倫理学、という表記は、新興宗教のように誤解を招くことが時としてあったようで、好んで「バイオエシックス」とカタカナで表記されることも多い。
「バイオエシックス」という言葉を最初に(1970年)に使用したのはVan Rensselaer Potterで、もともとの示すところは、生物諸科学(biological sciences)を総合的に利用することによって、人類の生存と生活の質の改善を計る生存科学(Science of Survival)だった。
 この1970年代にアメリカ合衆国で生命倫理学が形成される。
生命倫理学は人間の快苦という現在の感覚が価値判断の原点で、また、生存権を人格に限定し、人格の範囲そのものを限定している。個人の自己決定権が中心的地位である。(ちなみに、同じくして生まれたのが環境倫理学で、それは、現在の世代が、未来の世代の生存と幸福に責任を持つとする考えを原理とする。自然物にも最適の生存の権利があるとする。決定の基本単位は個人ではなく、地球生態系そのものである。)
 しかしながら、学問としての生命倫理「学」の枠にとどまらず、バイオエシックスという概念は、日本科学史学会会員の戸田清によると、「医師の職業倫理にとどまらず、より広範な市民の参加を求めること、医療の問題にとどまらず、環境問題、次世代への責任、人間と動物のかかわり、などへも視野を広げていくことなどがある。また、従来の〔生命の尊厳〕の絶対性が強調されるのに対し、特に英語圏のバイオエシックスでは、〔生命の質〕概念による相対化がはかられている。健常な動物は、重度精神遅滞者や新生児にくらべて、理性的能力、自意識などのレベルが高いのだから、前者を実験の対象にするのに後者をしないのは種差別である、という問題のたてかたもある。なお、英語圏では重度障害新生児の積極的安楽死が提唱されることもある。」という。
また、米本昌平は、「接近のしかたによって、遺伝子組み換え実験を規制する立場であったり、医者・患者関係を哲学者が論じるところであったり、先端医療の社会的受容を考える立場であったり、市民参加によって個々の医療政策に修正を加えていく運動であったりする、変幻きわまりない」「混沌とした概念」とも述べている。
 なぜこれほどまでに生命倫理(学)とは多様なのか。
「20世紀後半に入ってからの科学技術の発達、生物学・医学の絶大な発達が、これまで人間にとっても「自然」のできごとであった誕生と死を技術的な操作の対象とする可能性をもたらし、科学技術に基づく現代文明が、人間の生存の基盤としての「自然」そのものを危機に陥れていることに気付きはじめたとき、そうした力を有する科学技術および科学技術を媒介とする人間の行為に、倫理的な問題を感じ出した」からであり、(日本社会と生命倫理)その倫理的な問題を解決し、社会を円滑に動かすために、倫理学という学問に欠如していた「決議」をあらたに導入する必要性がある分野だからである。       生命倫理学はアメリカで生まれた学問であるが、しかし、いずれにせよ、アメリカ型の生命倫理学の議論は、技術進歩主義(これまで長く妥当してきた死生観を乗り越えても、技術の開発進歩を進めるべきであり、倫理を技術の進歩にあわせるべきだとする考え方)が根底にある。
例えば、勧められている研究に、ヒツジに人間の血液を作らせて、血友病患者に供給する計画、また、ウサギに人間の核膜をつくらせる計画、豚に人間の臓器を作らせる計画、などがあるという。
人類の福祉のためには必要である(何をしてもよい)と大議名文が、技術開発と定着を促してきた。倫理は技術に対して限界規定を勧告、実行するだけのちからを、自立性を持っていないのが実情と言えるであろう。
 西欧においての「開発」の背景に、キリスト教が存在する。            キリスト教でこう記述されている。「神が自分に似せて人間を創造し、彼に全世界を支配するように任命した」、「全世界は主のものであり、しかも全世界のあらゆるものも主のものである。」そこで言えることは、人間は神の代理である。全世界のあらゆるものは神の栄光にあずかる人類の目的につかえる、という人間中心の世界につながる。
 開発、について、次のような説がある。
1.自然は人間の欲求を満たすために開発される。人間の自然開発能力が上昇するにつれて、これらの欲求はたえず再定義され拡張される。
2.自然資源開発はそれ自体が目的になっている。開発(exploitation)という言葉からマイナスの意味は失われている。資源を充分に活用することは進歩の一局面となり、利用可能な資源なら何でも利用する。そうしないのは無駄なことである。進歩や発展という考えを、疑うことはない。すなわち開発を制限すべきだという考え方はむしされる。
3.短期的には、開発によって最大限の可能な生産性がもたらされる。長期的には、自然は無尽蔵に資源供給ができ、いかなる衝撃からも回復できるという仮定にたって、自然を大切に扱う必要がある。どのような問題がおきても将来、テクノロジーによって解決されるだろう。
4.環境は人間の目的にあうように自由に変えられる。川は水力による電力源である。森は木材育成場だ。浅い入江は潜在的な不動産である。これらの資源の無制限の利用や制御は開発精神により正当化される。開発精神により、湖や川がつくられ、すべての土地が開発される。大規模な開発プロジェクトは、自然にたいする危険な介入というよりも、むしろ英雄的偉業とみなされる。
5.社会は、自然に依存しなくなるにつれて、テクノロジーに依存するようになる。近代農業は高産出のハイブリッド穀物や機械による耕作、収穫に適した新種を作り出した。この緑の革命により、第三世界諸国の食料供給量は、飛躍的に増大したが、新種は科学肥料と機械化された農業方法を必要とする。・・・テクノロジーは高価であり、いったん投資がなされると、その投資から最大限の効果を得るためにテクノロジー利用が拡大する傾向にある。その結果、自然資源開発にさらに開発がすすむ。
(「社会学」ブルーム、セルズニック&ブルーム著、今田高俊監訳、1987年、p370)

二、欧米での動物実験と反対運動の変遷

 以下、「動物実験を考える」(野上ふさ子著、1993、三一新書)と「動物に何が起きているか」(平沢正夫著、1996、三一新書)を参考にして、欧米の動物実験と反対運動のおおまかな流れを記述する。
 動物実験は定着して約一世紀の歴史がある。それ以前にも、動物実験が行われた事例はあるが、1865年に、クロード・ベルナールが実験医学を世に送り出した時から、科学的方法として地位を高めていったという。
前述したように、キリスト教の教義は、人間中心主義である。対照的なのが、アジアの宗教であるヒンズー教と仏教で、人間とそれ以外の自然との境界ははっきりしていない。いくつかの無文字社会では、人間は自然の一部だと思われている。人間は自然から分離されていないし、自然の上に置かれてもいない。植物や動物、岩でさえ、人間精神と同じくらい確かな生命力を持っているという信念である。
 その昔、動物と人間の関係を、次のように表した。アリストテレスは万物を整然とランクづけし、体系化した。人間が最高位を占め、その下に動物、植物、鉱物の順に位置づけられる。人間はさらに、男、女、奴隷に分けられた。キリスト教とアリストテレス哲学は中性のスコラ哲学の巨頭トマス・アクイナスによって融合され、「殺しても、その他どんな方法によってでも、人間は動物を自由に利用することができる。」とされた。
17世紀はじめの思想家フランシス・ベーコンは「自然(動物や女性も含まれる)を支配するためには、それを拷問にかけ、尋問し解剖しその秘密を暴きださなければならない」と主張した。近代合理主義の夜明けとなったルネサンス期は、また同時に「魔女狩り」の時期でもあり、女性や動物、そして自然に対する暴力と殺戮がふきあれた時代だった。
 デカルト(1596−1650)は人間は、不滅の魂を持つが動物には魂がない、肉体と動物はたんなる物質である、という人間機械論の立場にたった。彼は麻酔薬なしでイヌを解剖している。デカルトは医物理学の考えによって人間機械論の立場にたち、人間を精神と肉体に分離し、(動物には精神がないとみなされた)肉体及び動物はたんなる物質であり機械であるという説を出した。それ以来、生命体を物理、化学、数学の方法で解明しようとする試みが展開され、「生命機械説」が医学研究の土台となった。例えば、血液循環と心臓の作用について実験生理学を創始したウィリアム・ハーヴェーなどは、少なくとも80種類の動物を生体解剖したと言われる。デカルトは、自然界の出来事を研究するには、それをできるだけ細かく分類して、理解し得る範囲内で考察するように、と勧めた。この方法は、現在、自然化学のすべての分野でこのような採用されている。
カント(1724−1804)は、「動物には自意識がない。動物はたんに目的のための手段としてのみ存在する。その目的とはにんげんである。」といった。生命体を物理、化学、数学な方法で解明しようとする試みが展開され、「生命機械説」が医学研究の土台となった。今でも、「生物といえども化学物質から成り立っていることを考えれば、生物現象自体が、化学反応としてとらえる時代がくる」という研究者も存在する。それでも、18世紀に啓蒙主義が台頭し、奴隷や監獄や児童労働の悲惨が批判をあびるなか、デービッド・ヒューム(1711−76)は動物の虐待に反対して、人間は「人倫のおきてにより動物をやさしくあつかう義務がある。」と説いた。1859年に、チャールズ・ダーウィンの「進化論」が刊行された。人間と他の動物に絶対的な相違はなく、進化の結果、人類が誕生したという考えであったから、動物との距離が感覚的にもちぢまった。虐待への批判に拍車がかかった。
 そして19世紀は、西欧社会が世界中に植民地を増やし、人の移動が激しくなるにつれて、各地の風土病が本国に持ち込まれて蔓延したり、過酷な労働条件と劣悪な環境のもとで様々な疫病が発生し、伝染するようになっていた。これに大して西欧社会は、労働条件の改善や社会福祉制度の充実などによって高まる国民の圧力をかわそうとしてきました。そのような動きのなかに、動物にたいしてもまた保護と福祉が必要だ、という考えが生まれてきた。
 ところが、1865年にはクロード・ベルナールが「実験医学序説」を世に問うた。 19世紀に、クロード・ベルナールが提唱した初期の実験医学においては、動物実験は専ら生体解剖が主流で、麻酔もなく、動物に激しい痛みと苦しみを与え、非常に残酷なものでった。
これは、動物実験にもとづく医学研究を確立した著書で、近代医学の方法論の基礎を築いた。ベルナールはみずから多数の動物実験をおこなったが、すでに力をえつつあった動物虐待禁止の風潮と激突した。ベルナールは、研究上の功績をたたえられて、アカデミー会員に推され、上院議員に選ばれ、国葬までおこなわれたが、最愛の家族は、実験動物の悲惨な取扱に耐えられずに別居した。彼の死後、妻と娘は動物実験反対協会をつくった。
動物実験について、賛否二つの潮流がはっきりと動き出した。はじめのうち、反対派のいきおいがつよく、ジョン・ラスキン、バーナード・ショー、ビクトル・ユーゴー、ロマン・ロラン、C・G・ユング、リヒャルト・ワグナーなど当代の有名人が動物実験反対の陣営に参加した。
 ちなみに、1876年には、イギリスで動物虐待防止法がつくられた。
反対派が多かったのは、有名人を結集したからではない。動物実験を盛んにおこなったにもかかわらず、医学研究は見るべき成果が上がらず、動物実験は無用の長物とみなされたからであった。
風向きは、1880年代にかわった。脳腫瘍の外科手術が成功した。これはイヌなどの生体解剖でわかった知見にもとづいていた。90年代になると、情勢はさらに急展開した。狂犬病やジフテリアのワクチンが、動物実験の結果を利用しながら開発された。ところが動物実験反対派はイヌへの虐待が狂犬病の原因であると言う考えをすてきれなかった。動物実験推進派からのキャンペーンもあっただろうが、反対派は、人間の苦しみよりもイヌやウサギのほうを気づかっている、などと非難され、支持を失うにいたった。
19世紀後半に、ルイ・パスツールは、「すべての病気」について病気を引き起こす病原微生物の分離と培養を考案することを試み、ロベルト・コッホは、病原体を純粋培養で分離して継代培養し、其を感受性のある動物に摂取すると、その動物に病気をひきおこさせることができ、さらにその病気になった動物から再び病原体を純粋培養で分離する、という方式を考え出した。このような実験室における研究では、原因と結果の因果関係がよく表されたために、一躍脚光をあびるようになった。
パスツールやコッホの特定病原菌説は、どうすれば人を病原菌に感染させて病気にすることができるか、という研究を、異常なまでに開発させた。どうすれば、その人を病死させることができるだろう、という思考は、軍事兵器の開発と結びつく。かつての関東軍731部隊は、ペスト菌、コレラ菌、炭疽菌などの様々な病原菌を無実の捕虜たちに投与したり、接触させられたり植えつけられたりした。19世紀のドイツの細菌学者パウル・エールリヒは最低致死量、体重二百五十グラムのモルモットを、4日以内に殺す最小の量を決定する、という方法を考え出した人物である。このような方法による急性毒性試験LD50をはじめとする幾多の動物試験動物が、数知れぬ動物を犠牲にしてきた。また彼は特定の病原菌のみを標的とし、それ以外には害を及ぼさない化学物質を探し出す研究を行い、600以上のヒソ化合物を作りだし、効果を実験動物に試してみたという。
 なぜこのような研究がなされるのか。それは、このような研究は、ある特殊な、異常な状態では非常に有益だからであり1914年からはじまった第一次世界大戦から第二次世界大戦までの戦争時には、それは生物、化学兵器の開発に直結するものとなった。現に、この二つの大戦をはさんで、動物実験の数が飛躍的に増大している。
20世紀になってから、動物実験にもとづく医学上の発見が、さらに相次ぎ、反対派は壊滅したかにみえた。
実験動物の使用頭数が増えたのは、1940年代からで、がんや心臓病の研究がさかんにもちいられるようになったためである。その後、さらにLD50やドレーズテスト(いずれも安全性評価試験)が普及し、ますます需要がたかまったと思われる。それにつれて、下火だった動物実験反対運動も息をふきかえした。アメリカでは、日本よりもだいぶはやく、動物保護施設に収容された捨て犬や捨て猫が、研究所で動物実験に利用されることを問題にしはじめた。動物実験批判が激化し、66年に実験動物福祉法が制定された。60年代は、公民権運動がアメリカをゆさぶった時代でもあった。戦後の高度経済成長のひずみが噴出した1960年代になると、様々な科学批判や社会運動がおこり、環境や生命そのものを根本的に考え直そうという新しい思考法や運動が、世界的に登場してきた。その流れのなかで、動物実験反対運動もこれまでの穏健な人道主義の運動から新しい展開を迎えることとなる。
 60年代には、植民地支配の原理としてのレイシズム、人種差別や、女性への抑圧セクシズム、性差別への反対など、様々な社会運動が起こった。その中で、人間が動物に大して一方的に加えている搾取と暴力もまた問われるべきであるという主張が起こり、人間という種による人間以外の種に対する支配や抑圧、搾取、差別はスピシーズム(種差別)であるという言葉で表現された。種差別とは、「他の種の動物の利益を無視し、みずからの属する種の利益のみを重んじること」である。人間中心のエゴイズムは、偏見であり、動物への差別であるという認識が生まれた。
 この概念は、医学者として動物実験の実態を明らかにし批判したイギリスのリチャード・ライダーが「科学の犠牲者たち」のなかで使用し、オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーの「動物の解放」(1975)論に受け継がれた。彼は、苦痛という感覚には人間も動物も区別はないはずであり、抑圧され搾取されている人々が開放されるべきであると同様に、苦しみを受けている動物たちもまたその苦痛から開放されるべきである、と主張。
 また、人間に権利が有るようにほかの生物にも本来的に固有の生存の権利があるという考えから、アメリカのトム・レーガンはアニマル・ライツ(動物の権利)という概念を提唱し、その後の動物解放運動に大きな影響をあたえている。スイスの作家ハンス・リューシュは「罪なきものの虐殺」(1978)という著作で、動物実験の科学的あやまちの側面を強調し、動物実験は誤った科学の方法であり、それは人間の健康や福祉に寄与するどころか逆に人類に危機をもたらしている、動物実験を必要とするのはそれで莫大な利潤を得ている産業界にすぎない、として研究者と癒着した医薬産業界を激しく批判し、スイスやイタリアの動物実験反対運動におおきな影響力をあたえた。
 このような思想的展開とともに、直接行動も盛んになり、1972年にイギリスではじめて動物解放戦線(ALF)が登場、動物達を実験室の檻の中から連れ出して保護し実験室の実態を暴露し告発する活動が、たちまち欧米各国に広がった。頭をハンマー状の機械で殴られているサル、頭に電極を差し込まれ電気ショックをうけているネコ、前身に電気コードをうめこまれた犬など、動物たちの姿が、写真やビデオで明らかにされ、多くの人々の知るところとなり、世論に大きな怒りを呼び起こした。
 このALFの目的は、直接行動により動物を虐待する企業を衰退させることであり、彼らの抗議を受けて、動物実験の研究所、家畜の飼養工場、毛皮工場、毛皮品店、屠殺場、食肉店などが、倒産や閉鎖に追い込まれた。活動家の数も増え続け、同時に直接行動は月に5回くらいから、週に40回以上に増加することになる。
 彼らは、「毒にも薬にもならない政治的キャンペーン」をしている、と規制の動物愛護団体のことを言う。
 そして、これと同様の活動をする団体がアメリカ、カナダ、オランダ、ドイツ、スウェーデン、スペイン、ニュージーランド、オーストラリアなどにも現れるようになった。
また、エコロジーの流れも無視できない。もともと生物学の一分野としての「生態学」で高度に専門化され、その内部でも多様に細分化されている専門科学であるが、他方で、政治的、社会的な運動としてのエコロジー(エコロジズム:人間は自然の対立物ではなく、自然の一部として生きていくほうがよい、という認識。)が存在し、主にヨーロッパでしばしば用いられる「エコロジー的倫理(学)」という表現がされるようになった。環境への憂慮が深まるにつれて、人間は自分のことばかりに眼を向けていてはいけない、という意識が生まれて、「動物の権利」が支持されてきたという側面もある。
 動物に関する思想にもいろいろある。ここで、その種類を大まかに説明する。(「実験動物入門」参考による)
動物保護又は愛護
 社会の責任において動物を保護しようという考え方。
動物の福祉
 保護、愛護が高い立場から下に向けて手を差し延べることとすれば、福祉は、相手の立場を認めて対等の立場で手を差し延べること。動物を単に可愛がるだけでなく、動物の修正や行動を理解して保護する対象とみなす。
動物の権利
 ヒトに生きる権利があるのとおなじように、動物にも生きる権利がある、とする立場。1970年に動物福祉活動家の一部に急速に広がった思想で、能力や民族、性によって人々が差別されてはならないことと同じで、ヒトを含む動物は種によって差別されてはいけない。動物からの搾取のなかには、食料、医療、労役のみならず動物園やサーカスにおける展示、研究のための動物実験なども含まれている。

三、各国の動物保護法例

(引き続き「動物実験を考える」「動物に何が起きているか」を参考、また表1、2を参考にされたい)
動物実験の実態が明らかにされるにつれ、動物実験の廃止を求める声が高まり、そのような世論の圧力をうけ、各国で動物保護法の制定や改定が行われるようになった。
1986年イタリアの南チロル地方、ボルザーノ州で制定された動物保護法は、この法律は動物実験反対論者のペティリニー博士によって提唱され、全ての党の支持を得て成立した。同法では、いかなる理由によるものであれ、動物実験は全廃、動物を不当に取扱、虐待したものは罰金、動物の習性に反する飼い方への罰則、飼育動物の檻の広さの規定、小鳥や魚の保護、などを定めている。また、この法が有効に実施されるように、議会に動物保護詰問会を設置し、且つ動物保護警察隊も組織し、更に一般国民に動物保護の関心を高めるための教育費用も拠出されることとされている。
 これに続いて、1988年にヨーロッパの小国リヒテンシュタインも「新動物保護法」を制定し、動物虐待を全面的に禁止するとともに、動物実験を全廃することを定めた。
 イギリスのビクトリア女王は、動物実験を「神と人道に反するもの」として、動物実験の規制を含む「動物虐待防止法」を、1876年に成立させている。この法は、人間による動物虐待行為を法で禁止するとともに、動物実験についても、厳しい規制をもうけた。例えば、すべての実験者および実験動物施設にはライセンス(許可)を必要とすること、実験内容を内務省に報告する義務、また内務省による立ち入り調査が行われること、実験に関しては麻酔を行うことを規定しており、違反者には、最高6か月懲役刑を科することとなっている。また、王立動物虐待防止協会(RSPCA)が創立され、動物虐待を監視する制度もつくられた。この法律は、その後の欧州各国の動物保護法の制定に大きな影響をあたえたと言われる。
 イギリスでは、前世紀の動物虐待防止法を100年ぶりに改定する「動物実験規定法」が、86年に超党派の国会議員の支持で制定される。この法の主な点は、@旧法にもれていた新しい実験分野(化学物質の毒性試験など)への規制の拡大A実験者の資格許可条件を更に厳しくし、特定の実験は事前の許可制にする、実験によって得られる成果と実験動物の苦痛および使用と動物数が正当であるかどうか個別に審査する、Bすべての実験施設に獣医をおき、虐待に関する立ち入り調査に応じられるようにする、C違反者は二年以上の懲役と上限なしの罰金に処す、というもの。
 このような基本法の他に、様々な関連法がその都度つくられており、例をあげると、次のようなものがある。スウェーデンでは、にわとりをケージで飼うことができない。スイスやオランダでもそうなりつつある。スウェーデンは飼育動物福祉法を定め、牛には草をはむ権利が与えられた。ぶたをつないで飼うことも禁じられて、寝る場所とエサ場を別々にしなければならなくなった。95年朝日新聞に、イギリスの裁判所が食用の子ウシの輸送中に水やエサや休憩も与えないのは動物虐待に当たる、として家畜業者に罰金を課したという記事がある。
 いずれ犠牲になる動物である、と、これらの家畜の生活の質をまったく無視し、経済動物としての効率だけを追求してきた。だが、種差別(人間という種による人間以外の種に対する支配や抑圧、搾取、差別)反対の波がおしよせた。餌食になってもならなくても、動物の権利は平等にある。生活の質を少しでも快適にしなければならない。というわけで子ウシの輸送や飼育の環境が槍玉にあげられ、自由食品が売れている。

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