1. ジョン・ケージが1952年に発表した<四分三十三秒>は、ピアニストが登場してピアノの前に座り、四分三十三秒(二百七十三秒)の間、何の音も出さずに帰っていくという作品である。小川は、この作品は二十世紀を前後に分けており、二つの意味で画期的であると述べている。「第一に、音楽の素材を一気に拡張した、つまり、四分三十三秒の間、個々の聴衆が聴きとった音すべてが音楽なのである。これは、後にカナダの作曲家マリー・シェーファーが作った言葉サウンドスケープ(音の風景)に相当する。ピアノやヴァイオリンだけが音楽の素材なのではない。耳を開いて聴きとれる音はすべて音楽の素材になるのである。第二に、音楽のコミュニケーションのあり方を根本から覆した。通常の古典音楽に対しては、聴き手は「完成された作品」を作曲家の意図を汲み取りつつ聴く。それに対してケージの作品においては、聴き手は今まさにここで「生成されつつある過程」に参加するのである。摂氏零下二百七十三度は、それより低い温度は存在しないという意味で絶対零度と呼ばれる。ケージは「音楽の絶対零度」と提示することにより、たとえ無音であっても、聴き手が聴く耳さえ持てば音楽を発見することができると主張したのである。」(小川、1993、1 5頁)
  2. もともとはゲシュタルト心理学の、部分と全体との関係を示す用語である。我々が世界を見る時、あるものは前景(図)として浮かび上がって見え、他のものは背景(地)として後方に広がっているように見えるという意味。(小川、1993、17頁参照)
  3. 3アドルノは、音楽の聴き手を次のの七つのタイプに分類している。
    (1)どんな曲でも音楽の構造がわかる「エキスパート」
    (2)音楽をきいてはっきりと構造がわかるというのではないが、なんとなく音楽のまとまりをわかったり感じたりできる「良い聴取者」
    (3)色々な情報にくわしく、作曲家の伝記もよく読んでいるし、ちょっとフレーズを聴いただけで何の曲かがすぐわかる「教養消費者」
    (4)抑圧された現実から逃避するためや、欲求不満のはけ口として音楽を求める「情緒的聴取者」
    (5)商業主義におかされた音楽への抗議として、わざと古めかしい音楽のコンサートを聴きに行く「復讐(ルサンチマン)型聴取者」
    (6)「音楽を娯楽としてしか聴かないひと」
    (7)音楽に無関心なひとや音楽嫌い
    (北川、1993、61−63頁参照)
  4. 1981年10月3日、4日の2日間、全国の300地点から無作為に抽出した7歳以上の国民3600人を対象に、個人面接法で実施された。有効数(率)は2,841人(78.9%)。
  5. (1)青年期特有の側面 (2)近代化にともなう側面(3)メディアの発達にともなう側面
    「アイデンティティーとは、もともとはアメリカの心理学者エリック・H・エリクソンが提唱した概念で、「自己同一性」と訳される。それは自分が自分であることの確からしさとい った意味で、青年期には生理的にも社会的にも不安な状況が現れて、青年期にはアイデンテ ィティーの危機の時期なのだというのである。しかしこの言葉は、現在ではもっと広い意味で使われている。アイデンティティーの危機は何も青年だけに限らない。近代社会に生きる ものは青年でなくとも自分が何者であるかを見失いがちになる。ひとりの人間がひとつの共同体の中で一生を終えるのならば、自分は何者なのかと悩むこともなかった。アイデンティティーの危機はなかった。ところがこのような「安住の地」を失った人々の集まりである近代社会においては、人々は根源的にアイデンティティーの危機にさらされている。…さらに、現代社会では、メディアの脅威といえるものがある。かつてカナダのメディア論者マーシャル・マクルーハンは、メディアは人間の感覚の延長であると主張した。例えば、私たちがラジオを聞く時、私たちの耳がはるか遠方にまで拡張されているのだというのである。その時、私たちの身体の外部と内部の境界は非常に曖昧になっている。頭の中では、自分がラジオというメディアを利用して遠くの音を聞いていると理解しているが、実際にはメディアを利用している確固とした自分の身体などないのである。ラジオ以外 にも様々なメディアと接触していかねばならない現代人は、常に外界と内部の境界が不確定 になりがちであるという脅威にさらされている。」(小川、1993、191ー192頁)
  6. イングランドのキーリーの14歳から18歳の生徒105人(と彼らの学校の先輩)を対 象とした、インタビュー調査
  1. 首都圏近郊都市住民(15歳〜69歳・男女)の標本調査。浦和市の市街地域の住民を対象とし、個人面接法によった。調査実施時期は1982年11月6、7日で、有効標本数は425であった。

戻る