第3章 図としての音楽


第1節 音楽のメディア性

 現代の若者は何のために音楽を意識的に自分の生活に取り入れているのだろうか。それはただ単に音楽を愛好しているからだけではないように思える。現代のように音楽に満ちた社会では、音楽が聴かれることの意味は多様化している。
 小川は、「現代社会においては、音楽は若者の生活に密着している。だが、若者はそれほど音楽が好きではないようにも見える。音楽が鑑賞したり愛好する対象として距離をおいて接するものではなく、「空気のようなもの」になっているのである。このことは、音楽の重点がその何らかのメッセージ性よりもメディアとしての側面に重点が移行していることを意味している」(小川、1993、190頁)と、若者の音楽の聴き方において、音楽の持つメディア性が重要になってきていることを指摘している。
 もちろん、音楽を愛好するがゆえにそれにのめり込んでしまう若者もいるわけだから、「若者がそれほど音楽が好きではないように思える」というのは多少大胆な言い方だと思う。しかし、音楽があまりにも若者たちの生活の一部となっているがために、改めて音楽をそこから切り取って、鑑賞や愛好の対象として接することは難しいのかもしれない。現代の若者と図としての音楽との間には、音楽が彼らを引き寄せるというよりは、むしろ、彼らが音楽を引き寄せ、またそれを利用するといった関係があるのではないだろうか。そこでは、音楽の持つメディアとしての性格が重要になってくるのである。
 吉井も音楽のメディア性について、「現代人と音楽の関わりは、時代の流れとともに急速に変化している。″音楽をする″という行為、行動は本人が意識する、しないにかかわらず、日常生活の中に深く浸透してきているのである。こうした状況のもとでは、「音楽」というものに対する、観念的なとらえかた自体が様々なふくらみをもち、個人やその生活にとって、「音楽」が、新たな意味や役割を担ってくる。「音楽」のメディア性は、そこで、ふんだんに力を発揮し、開拓され、駆使されるのである。つまり「音楽」のメディアとしての性格は、音楽化の進行とともに、よりそのレベルを多層化させ強化してきているといえる」(林・小川・吉井、1984、164−165頁)と指摘している。
 前章までは、「メディア」という用語は単なる音楽機器を指していたにすぎないが、ここで取り扱う「メディア」とは、メディア本来の意味である、コミュニケーションの道具という意味で用いることにする。
 それでは実際に、音楽が現代の若者にとってどのようなメディア性をもっているのかを考察していきたい。

第2節 若者のアイデンティティーと音楽

1.「個性」を表現する道具
 NHK放送世論調査所が1981年に行った「現代人と音楽」という調査によれば4、10代の後半から20代の前半に至る年齢は、多くの人びとが最も音楽に夢中になる年ごろであるらしい。そして『現代人と音楽』では、この年ごろは発達年齢的にみて、音楽に夢中にならざるを得ない何かを内に秘めた時期であるとし、「あなたは日ごろ、音楽を聞いていないと落ち着かないと感じていますか。」という質問に、「そう思う」と答えた人の中で、その年代の若者の割合が抜きんでて高かったという結果を挙げて、その何かというのを次のように考察している。
 「若者の多くが「音楽を聞いていないと落ち着かない」と答えていることの意味は、表面的には、彼らはいつも音楽を聞いているのが習慣になっているので、音楽がないとなんとなく落ち着かないということであろうが、もっと深く考えると、肉体的にも、精神的にも、子どもでもなければ大人でもないというこの年代の人びとの心は絶えず不安定であり、音楽を聞くことが、若者にとってその心の不安を落ち着かせる一つの手段となっているのではないか、と思われるのである。」(NHK放送世論調査所編、1982、12ー13頁)
 また小川は、現代の若者がアイデンティティーへの三重の危機にさらされているということを述べ5、「フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは、『消費社会の構造と神話』において、消費社会では、モノが記号化され、記号が消費されるのだと指摘した。そして、個人は記号化されたものを消費することにより、「個性」を表現する。例えば腕時計は、その本来の機能である正確に時を刻み示すこととは別に、ブランドやデザインの部分で他との差異を競うようになる。そして、記号化されたモノを所有することにより、個人の差異が表示される。このことは音楽にも当てはまる。ここでいう記号とは、音楽が人々の情感に訴える記号であるという意味ではない。ある音楽を選ぶということ自体が「個性」の差異を表示する記号となっているという意味である。音楽は「個性」を表現するのには、手ごろなアイテムである」(小川、1993、195−196頁)と、音楽が若者のアイデンティティーを支える道具となっていることを指摘している。
 また、イギリスの社会学者であるサイモン・フリスは、1972年に自ら若者調査を行い6、音楽が友情の選択の基本となる個人性のバッジやレッテル代わりとなることを指摘している(フリス、1991、245頁)。
 音楽の好みによって、自分を分類することができるのであれば、それによって他人をも分類することができる。その人がどのような音楽の好みを持っているかで、その人がどのような人物であるかを判断することができるのである。

2.音楽のファッション化
 小川は、「音楽が、クルマや衣服と同じように、「個性」を表示する道具としての性格を強めると、好きだからというよりも、新しいから、最先端の人間と思われたいから、流行っているから、みんなの話題に遅れたくないから、音楽を聞くという態度が顕著になってくる。音楽が商品化されている社会では、多かれ少なかれこのような傾向は見られる。しかし、日本の場合は極端に見える」と、現代の日本の社会における音楽のファッション化を指摘している(小川、1993、198頁)。
 またアドルノも、「モノが台頭し、重要になり、人間の価値観や感性がモノを基準にして成り立ってしまう、という、資本主義社会の宿命。マルクスのいうこの現象が、まさにいまの音楽状況をあらわしている、とアドルノは、その著作『不協和音』のなかで述べている。たとえば、レコード枚数が多いことが〈誇り〉となり、高額な演奏会のチケットを入手できたことが〈勲章〉としてまかりとおってしまう、そのような現状が、いまの社会にはある。音楽が物神化されているのであって、アドルノ自身の表現を借りれば「交換価値の原則がますます容赦なく人間の手から使用価値を奪うにつれて、交換価値そのものは、いよいよ一分の隙なく快楽の対象としての扮装をこらすのだ。」ということになる。」(北川、1993、59頁)と、モノとしての音楽を指摘している。
 それから、NHK放送世論調査所の「現代人と音楽」調査では、音楽が若者どうしの話題の中で相当重要な位置を占めていることを挙げ、若者が「流行」ということに対してよせる大きな関心が、若者と音楽の固い結びつきを補強し、増幅していくと考察している。
 「若者が仲間どうしのつきあいから疎外されないためには、今はやっている音楽をまめに聞いて、話題に乗り遅れないことが不可欠な条件なのである。」(NHK放送世論調査所編、1982、14−15頁)
 このように、音楽が若者の主要な関心事となっているために、流行っている音楽を知らないと、「オクレ」た人間としてのレッテルを張られてしまうことになる。そして、そのような若者は、仲間との話に入っていけないばかりか、カラオケでも気まずい思いをしてしまうことになりかねないのである。

3.「ポータブル」機器
 最新の音楽メディア機器の顕著な特徴として、その機器が「ポータブル」であるということが挙げられる。これは「持ち運び可能」という意味だが、このポータブル機器のさきがけとなったのが、ソニーの「ウォークマン」である。1979年に登場したこの携帯用ヘッドフォン・ステレオは、今では若者の音楽生活にすっかり根ざしてしまったが、また最近ではカセットテープのみならず、CDやMDまでもが、専用のポータブルプレイヤーで再生されるようになってきている。
 吉井は、このヘッドフォンステレオの装着による、音楽のファッションとしての意味の強まりを指摘している。このオーディオ機器の登場によって、音楽は軽量化され、身につけられるようになったが、それと同時に、それを装着して戸外に飛び出すことで、音楽マニアとしての自分を他人にさらして見せることができるようになったのである(林・小川・吉井、1984、174頁)。
 かつて、ヘッドフォンステレオが若者たちの間で流行したとき、人間よりも機械とのつきあいを好み、自分の好きな音楽の世界に閉じこもってしまうというような、「若者の自閉化」ということが問題にされたこともあったが、少なくとも現代の若者にはそのような暗いイメージはない。あるのはむしろ、このようなポータブル機器を通して、自分を表現しようとする、前向きなイメージであるように思われる。

4.カラオケの魅力
 カラオケと言えば、かつては中年男性が酒場で演歌を歌うものというイメージがあったが、今ではその発展とともにそのようなイメージも実態も変化し、カラオケはわが国の主要なサブカルチャーとなってしまった。もはや、老若男女問わず誰でもが、たとえ酒が入らなくても、さまざまなジャンルの歌を歌っている。
 それでは、このカラオケの人気の原因はどこにあるのだろうか。
 丸山は、日本にカラオケが発生した原因を、「現代日本の特殊性、すなわち世界でもまれに見る働き蜂の国民性から生ずるストレスと、情報過剰によって逆説的に生ずるディスコミュニケーション(コミュニケーションの挫折ないしは不成立)、それにもかかわらず強制されるコミュニケーションといった複雑な心理的状況」だとし、「いわゆるコミュニケーション(伝達)に挫折した人びとにも可能な“コミュニオン(交感)”の場としてのカラオケ」を指摘している。
 「人間同士の生きた触れあいは、たとえて言えば、無駄のないCD的なディジタル性だけではなく、SPやLPのアナログ性に依るところが大きいことを忘れてはなるまい。それは〈コミュニケーション〉とは異なる〈コミュニオン〉という概念で表される心と身体のバイブレーションなのである。」(丸山、1990、151,163−164頁)
 たしかにカラオケは、参加者とただ同じ場で歌っているだけで何となく気持ちが通じ合っているような気にさせてくれる。自分が歌っているときには周りがその場を盛り上げてくれ、自分以外の人が歌っているときには自分も周りと一緒にその場を盛り上げてあげるというように、カラオケは一見、円満な人間関係を作り上げるのに役立っているように見える。しかし、はたして本当にそうなのだろうか。
 NHK世論調査部の「日本人の意識」調査によれば7、都市化が急速に広がっている現在では、若い世代ほど都会での希薄な人間関係に慣れ、他人との密着した人間関係になじめなくなっているという。そして、現代人の人間関係への志向は、時代の影響を強く受けて、「密」から「疎」へと変化しているということを指摘している(NHK世論調査部編、1991、33,37頁)。
 このように、ドライな人間関係に慣れている現代の若者が、仲間との交流を図るためにカラオケに行くとは考えにくい。むしろ、若者のカラオケ行為は、「give and take」の精神で成り立っているように思われる。つまり、自分が歌っているときに周りから場を盛り上げてもらうために、自分もその場のムード作りに徹するというわけである。ゆえに、彼らは誰かが歌っているのを盛り上げつつも、頭の中では次に自分が何を歌うかという思いでいっぱいで、あまりその人が歌っている歌を聴いていないのではないかという疑惑すら感じさせる。
 それでは、なぜ彼らはこのようなわずらわしい行為をしてまで、仲間とカラオケに行くのであろうか。もし彼らが単純に「自分が歌いたいから」カラオケに行くのであれば、自分一人でカラオケボックスに行って勝手に歌えばいいわけである。しかし、ほとんどの若者は自分の仲間とカラオケに行っている。これは、カラオケで歌うという行為は、自分が歌っているときに周りが場を盛り上げてくれるからこそ楽しいのであって、つまり自分が主役になれるいうところにカラオケの醍醐味があるからではないだろうか。やはり観客は必要なのである。
 普段はおとなしい人でも、いったんマイクを持つと、人が変わったように歌いだすということがある。これは人間なら誰しも輝きたい、という願望があることの現れであろう。カラオケは、マイクを握っている間だけは自分もスターであり、パフォーマンスの空間に遊ぶことができるのである。
 小川はカラオケについて、「(カラオケの機能の一つに、カラオケの場を共有することにより、参加者に仲間意識を持たせ、ひとつの共同体的な世界を作り上げるという機能があるが、)こうした集団主義を満足させるのであれば、車座になってみんなでひとつの歌を歌えばいいのだが、カラオケはそれだけではない。第二に、カラオケは自己表現の発露でもある。カラオケの場はきわめて演劇的な場である。どの歌(選曲)をどのように歌うか(パフォーマンス)が自己表現の鍵になる。この点では、どの服をどのように着こなすかが問われる服装ファッションと同様である」と述べているが(小川、1993、123頁)、人々がカラオケに魅了される理由は、このカラオケを通しての自己表現にあると思われる。
 加えて小川は、「「昭和一桁世代」であれば、言葉にならない情念が噴出する。若者の「ポップスカラオケ」であれば、子供時代から聴いて歌ってきたポピュラー音楽を仲間たちと歌うことにより、自分が生きてきた時代、そしてその時代を生きてきた自分を確認する。いずれにしても、カラオケのパフォーマンスを通して、多かれ少なかれ自分の確認、アイデンティティーの確認をしている。カラオケにより自分を物語るのだ」(小川、19
93、124頁)と、若者のアイデンティティーの確認としてのカラオケを指摘している。
 このカラオケの例からもわかるように、音楽が持つメディア性は、現代社会においてますます重要な意義を帯びてきていると言えよう。

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