第2章 地としての音楽


第1節 サウンドスケープ

 私たちが日頃「音楽を聴く」といった場合、作曲家が作った音楽作品だけを聴いているわけではない。現代社会においては、作曲家が作った音楽作品から自然音、人間の出す音、機械音などありとあらゆる音・音楽が存在している。もはや、現代の音楽のあり方は音楽作品という枠ではとらえきれなくなってきている。ゆえに、地(背景)としての音楽は、「サウンドスケープ」という概念を念頭に置いて捉えていかなければならない。
 サウンドスケープ(soundscape)とは、カナダの作曲家、M・シェーファーが造った用語で、音の環境、音の風景(landscape)といった意味の言葉である。しかし、それは単なる外界の音の環境を指すものではない。サウンドスケープとは、音源と聴取の交わりであって、音は人間の聴く行為を通して、はじめてサウンドスケープとなるのである(小川、1988、4頁参照)。
 小川は、「ある社会のある時代の音楽は、サウンドスケープ全体との関係で語られなければならない。基調となるサウンドスケープが地となって図としての音楽が際立つのであり、そしてその音楽もその時代のサウンドスケープの一部を構成していく」(小川、1993、21頁)と、サウンドスケープという視点から現代社会の音楽化を見ていくことの必要性を唱えている。

第2節 被音楽状況

 日常生活において、私たちは様々な音・音楽を聴いている。ただ「聴く」といっても、意識的に聴く場合と、無意識のうちに聴いている場合の両方がある。人間は耳を閉じるという行為ができないので、無意識のうちに音楽を聴いてしまうこともある。
 音の複製メディアの出現によって、音楽があらゆる場面で聴かれるようになった。外に出ても、家の中にいても、私たちは日常、自分の意志に関わりなく、聴こうと思わなくても音楽を聴かされてしまっている。このような状況を、小川は「被音楽状況」と呼んでいる。
 「こうしたBGM(バック・グラウンド・ミュージック)は、職場やデパートに行けば、好むと好まざるとにかかわらず、人を包みこんでくる。ある空間にいることにより、不可避的に音楽に接触させられてしまい、しかも当人には音源の操作ができない。こうした状況を、被音楽状況と呼んでおこう。被音楽状況は、それまでにも十七、八世紀の食卓の音楽などにもみられるが、この新しいBGMの特徴は、新しい電気メディアが駆使され、日常的に生活空間の隅々にまで音で満たされたことにある。」(小川・庄野・田中・鳥越編、1986、158頁)
 こうした被音楽状況のもとでは、必ずしも個人にとって良い音楽だけが耳に入ってくるわけではない。人間は、目を閉じてしまえば自分が見たくないものを見ないですむのだが、耳を閉じることはできないので、たとえそれが自分にとって聴きたくない音であっても聴かないわけにはいかないのである。
 吉井は、個人の音楽環境について、その個人が自己の趣味や嗜好に合わせて能動的にデザインし、つくりあげた音楽環境のほかに、そうした個人的サウンドライフを外側から包み込むような関係にある、社会生活レベルの音楽環境とがあると述べ、個人はそこでより選択する余地の少ない、受身的な音楽生活を享受していることを指摘している(林・小川・吉井、1984、125−6頁)。
 そして、「音楽接触の機会が時と場所を選ばず、増大するにつれ、個人にとっての音楽環境の二重性は強まり、音楽意識にもギャップが生じてくる。つまり、私的な音楽生活のデザインの自由度が高まり、それへの満足度が上昇するのに平行して、より受身な社会的音楽環境への適応度、満足度は相対的に低下してゆくのである。“投げつけられる”音楽に対し、いかに対処し、感応しているかが、今日の音楽的感性および音楽意識全般を特徴づける一つの大きな要素になっている」と述べている(林・小川・吉井、1984、165ー166頁)。
 たしかに、音の複製装置の普及によって、音楽が急速に社会の隅々に浸透してきた、まさにその時代に生きてきた人々にとっては、このような“投げつけられる音楽”に対して多少の抵抗感を感じることはあろう。しかし、現代の若者に関しては、生まれながらにして(いや、胎教音楽が普及している今日では、生まれる前から)音楽に満ちあふれた環境の中で生活している。ゆえに、彼らは、自分たちが「より受け身な社会的音楽環境」の中にいるということを意識しないまでに、そのような環境に順応しているかのように思われる。
 カナダのメディア論者であるマーシャル・マクルーハンは、「青年は本能的に、現代のわれわれを取り囲んでいる環境−すなわち、電気テクノロジーのドラマを理解する」と述べているが(マクルーハン、1995、9頁)、ある生物が、厳しい生存競争の中で勝ち残るために、自らの体の仕組みを変えたり、ある特異な能力を発達させることがあるように、現代の若者もまた、電気メディアによって作りだされた被音楽状況のなかで快適に生活していくために、自分にとって不必要な音・音楽を聴き流す能力を身につけてしまったのではないだろうか。

第3節 音楽の環境化

 音の複製メディアの出現は、人間を容易に被音楽状況においたが、さらにそのような状況の中で、「音楽を周辺に漂うものとして、何かをしながら(仕事しながら、読書しながら、買物しながら、運転しながら、歩きながら…)注意散漫に、とりわけ美的な価値を付加しないような、音楽の聴き方への可能性が開かれた」(小川、1988、26頁)のである。このように、現代社会においては、聴き手が音楽を環境的なものとして聴くという、
新しい音楽の聴き方が可能になったわけである。
 社会学者のアドルノは、『音楽社会学序説』(「音楽に対する態度の類型」)の中で、音楽の聴き手の分類をしているが3、その中の一つに「音楽を娯楽としてしか聴かないひと」というタイプがある。このタイプの人たちは聴き手の大部分を占めており、その聴取の特徴は、いわゆるBGM的な聴き方にあって、聴く楽しさよりも、聴かないでいる不快感や不安から音楽を聴き流すというわけである(北川、1993、61−63頁参照)。音楽の構造を重視するアドルノは、このような音楽の聴き方を批判の対象としている。彼にとっては、美的な価値のある音楽を背景として聴き流すという音楽の聴き方には許しがたいものがあるのかもしれない。しかし、音の複製装置によってその隅々にまで音楽に満たされた社会の中で生きている、現代の若者の音楽に対する感覚は、すでにアドルノを越えたところにあるように思われる。彼らにとって重要なことは、美的な価値のある音楽を聴くことではなく、自分にとって価値のある音楽を聴くということなのである。ゆえに彼らはいくら美的な価値のある音楽であっても、自分にとってそれが不必要な音楽であるならば、簡単にそれを聴き流してしまう。彼らは、自分を取り囲む大量の音楽の中から必要なものだけを拾って、あとは背景として聴き流すということを自然に行っているのである。

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