第2章 日本の男性、日本の父親


 第1章では、それぞれの国の育児事情を見た。ここでは、父親の役割を決める土台としての男性が社会の中でどのような立場に置かれているのか、そして「父親」という役割が時代の中でどのように考えられてきたかを、考察したい。

1男性とは

 伊藤公雄氏は「男の性もまたひとつではない」という論文の中で、“男らしさ”から見ることのできる男性像について論じている。
 伊藤氏によると、男性中心文化の時代である近代社会で作られた“男らしさ”という概念への男たちのこだわりが、社会の様々な問題を浮かび上がらせてくれる。
 まず最初に、そもそも“男らしさ”とは何かを探る。男たちが何にこだわっているかといえば、強くなければならない、競争に打ち勝たなければならない、女を守りリードしなければならない、責任をまっとうせねばならない、感情を表にだしてはならない、ましてや泣いてはならない・・・・・。
 これらの“男らしさ”の多様な要素を分析することによって、3つの共通する要素が見えてくる。それは「力・権力・所有」であり、伊藤氏はこれを優越志向・権力志向・所有志向の3つの志向性、3つの欲求という観点で再構成している。優越志向とは、他者にたいして優越したいという欲求であり、権力志向とは、自分の意志を他者に押し付けたいという欲求であり、所有志向とは、できるだけ多くのモノを所有したい、また所有したものを自分のモノとして確保したいという欲求である。
 例えば、なぜ男は感情を表に出してはならないのか、おしゃべりであってはならないのか。それは感情表現やおしゃべりは、しばしば、自らの弱みを他者にさらしてしまう(優位志向や権力志向を阻害する)危険性をはらんでいるからであると伊藤氏は考える。また女を守りリードするという“男らしさ”の要請の背後には、女たちに自分の意志をおしつけたい(「聞いてもらいたい」でもいいが)という欲求とともに、女を自分のモノとして支配したいという欲求が潜んでいるともいっている。
 男たちはこの3つの志向性によって強く拘束されている。男たちの競争における勝利へのこだわり、あくなき所有への欲求と所有物の誇示、他者に対する権力行使の喜びは、男同士の友情のはかなさやもろさを指摘される原因とも言え、それと同時に、この3つの志向性は、男同士の場合以上に女との関係においてより強力に作用しているのが事実である、ということだ。
 男は女よりつねにまさっていなければならない。男は、女を所有しなければならないし、一度獲得したら、自分のモノとして管理しなければならない。さらに、男は女に対して、自分の意志を強制しなければならない。
 逆に、女たちは、しばしば、こうした男たちの志向性を、一方で(嘲笑さえ含みつつ)冷静に見つめながら、他方で男たちを「立てる」形で、陰になり日向になりしながら「保護」してきたというのも事実だ、と伊藤氏は言う。
 たとえば、男性とスポーツのゲームをしているとき、最後にわざと負ける女性。十分知識のある事柄なのに、知らないふりをして男性の話に耳を傾ける女性。夫より高い給料をもらっていることを夫に知られないように給料明細を低く書き換える妻・・・。男の「(女には)負けまい」という気持ち、もし「(女に)負け」たら、アイデンティティが崩壊するほどに深く傷ついてしまう精神的もろさを、女たちは意識的、無意識的に把握しながら、これまで男たちと「つきあって」きた。一方、男たちは、こうした女たちの「配慮」に気づくことなく、自分の「優越」「権力」「所有」への志向性を、「当然」のこと「自然」のことと思いこんできたのである、というものだ。
 このように男は女たちへの「優越」「権力」「所有」志向を行為として(例えばセク・ハラ現象などを)女性に押し付けている背景には、女たちを対等の人間としてではなく支配の対象としてモノ視する態度が控えているからである。
 にもかかわらず、他方で、女たちに生活の面でも精神的側面においても、依存し「保護」されることで、「男」としてのアイデンティティと生活とを維持してきた、というのが氏の考えである。
 また、守永英輔氏は「企業という“車座社会”のなかで」という論文の中で、なぜ日本の男性が会社人間になってしまうのかを述べている。
 日本ではビジネスマンは一企業に終身的に「就社」する。長い年月をかけてその企業のビジネスマンに教育されていく。一般社員と経営層は昇進でつながっているため、企業全体が強い一体感でつながれている。
 このように構成員が一体的な意識で結びついている集団は大小さまざまな“車座社会”を形成している。“車座”とは大勢が輪になって座ることで、企業という車座はもっとも求心性の強い集団であるといえる。
 一方、そこでは定年までの終身雇用が保証されているので、構成員は欧米のように能力や業績のみで評価されるわけではなく、協調性や資質、将来の潜在可能性など全人格が評価の対象となる。
 だから、車座社会での地位は、日本男性にとって生きて存在していることの全評価にほかならず、唯一のアイデンティティにほかならない、と氏は言う。逆にここで評価されないこと、ここから抜け出すことは、男性にとって彼の存在の全てを否定されるのに等しい。
 日本の男性が毎晩遅くまで会社の上司や同僚などと飲んだり、残業したりする背景には、このように自分の全人格とエネルギーをかけざるをえなかった濃密な仕組みが企業に出来上がっていたからといえる。
 さらに、たじりけんじ氏の「がんばらない哲学」という論文では、氏が育児時間確保のために会社に労働時間短縮を求めてストライキをやった時のことが書かれているのだが、その中で、次のような話がある。
 「彼(氏と同じ会社に勤めるセールスマン)が、家に帰ると、かみさんから『あなたの会社ではこういうこと(男の育児時間)をやっている人がいるのネ。あなたも少しはみならったら』と言われた。それでなくても疲れて帰ってきたそのセールスマンはたいへん不愉快になり思わずどなったという。『こんな奴ろくに仕事もしてないんだろっ!』後日、気になったのだろう。『あのたじりというのはどういう男か?ちゃんと仕事やってんのか』と、社内の私の知人のところへ聞いてきたそうだ。」
 また、氏は自分の母からも次のようにいわれている。
 「こんなに大きく新聞に出たら会社を辞めさせられるかと思ったよ。でるんだったら小枝さん(氏の妻)あなたでればいいでしょっ。いったいなにがそんなに問題なんですか。朝の30分ぐらいのやりくり、皆さんもっとうまくやっていますよ。けんじもけんじです。ほかの人とくらべてもあなたは家のこと充分手伝っているのだから、何もそんなことまで(育児ストライキをさすと思われる)しなくても・・・・(絶句)。あんまり会社をバカにするもんじゃありません。」
 この2つの例をみるとわかるのが、まず、男性が育児に一生懸命に、あるいは適当でもある程度の時間を割くことは、仕事をまじめにやっていないとみなされる可能性があるということである。つぎに、男性が育児のために労働時間を短縮してほしいと会社に求めることは、日本では非常識であるという考え方がまだ大勢を占めているということである。

参考文献
参考図書

2父親とは

 現代の日本は「父親不在」の時代と言われて久しい。高度経済成長の中で「男は仕事、女は家庭」という生活形態が一般的になってから、父親は忙しさのなかで、家庭を顧みる時間がなくなっていった。ところが最近は「父親が弱くなった」り、「家庭に母親が2人いる」ということが言われ始めた。「父親」とはなんなのか、考えてみたい。

 斎藤茂太氏の著書『父は子へ何を伝えられるか』のなかで、昔の父親と現代の父親について述べられている。
 昔の父親とは、「こわい人」で、大家族の中の頂点にいる者として「偉い」と自分自身でも思っていたし、周囲もそれを盛りたてていた、ということだ。昔の父親は確かに力があるように見え、外面的にも威張って見えた。その偉さの一面は周囲の作り上げた偉さであり、それによって父親自身が偉いと感じるようになって、「偉さ」が増したのだろう。
 しかし、戦後はだんだんと父親が弱くなってきた、と斎藤氏は言っている。第1の理由は家の崩壊が影響しているからだと言う。法律的にも社会環境から行っても、戦前、戦中の父親のように家長権を行使する条件が戦後なくなってきた。そして核家族化も進み、父親が大家族の頂点に位置することができなくなった。
 第2の理由として斎藤氏が上げているのは、現代の父親は昔の父親に比べて家にいる時間が少なくなったというものだ。戦後の高度成長期前後から父親は家にいる時間よりも職場にいる時間の方が長いかもしれない。
 父親が外で働く時間が増え、そのギャップを埋めるために、母親が強くならざるをえない。物理的にも心理的にも母親は、自分がしっかりしなくては、という気持ちから、家のことのすべてに責任をもとうとする。父親が口をはさまなくてもいいくらいに。
 そして、知らず知らずのうちに父親を蔑視するような態度になってくる、と氏は言っている。
 氏は、父親の理想を書いている。「それは、男は黙ってすべきことをする。いざとなればよれよれになっても、家庭のために全力をふりしぼる。自分のその苦労が子には伝わらないことは百も承知だが、ひたすらすべきことをする。・・・。父親とはこのように厳しいものではないだろうか。わたしは父親の威厳とは、そういうものだと思っている。」
 しかし、はたして本当に「強い父親」は存在したのだろうか。小浜逸郎氏の『中年男性論』という著書の中で、これまでの父親像、これからの父親像について氏の考えが述べられている。
 「私たちは、漠然とこんなふうに思わされているのではないか・・・戦前は家父長を中心とした家の秩序が確固としていて、そのなかでの父親は頼りがいのある、権威ある存在だった。戦後、「家」が崩壊するとともに、一家の大黒柱としての父親のイメージは後退し、その権威はしだいに失墜した・・・。だがこれは本当だろうか。家の秩序や格式がやかましく守られ、家父長が名実ともに家を取りしきって威張っていた家などというのは、割合からいってもごく少数ではなかろうか。なぜなら、こうしたことが本当に貫かれるためには、その家全体が、よほどの経済的な力を蓄えていることが、必要とされるからである。」
 そして、氏は、実際の庶民の父親はたいして実質の伴わない「武士は食わねど高楊枝」式の負け惜しみ的な側面が強かったのではないかと分析している。男尊女卑の時代の中で多くの女性が夫の横暴に悩まされ、それでもなお忍耐をしいられたことは周知の事実だが、この男の空威張りは、よい意味での「父親の権威」のイメージからはほど遠いといえる。
 そして、戦後の「父親」は3つの段階に分けられている。第1期は敗戦が日本の男性の精神に後遺症として残り、はっきりものの言えない自信喪失の男たちというイメージを氏は持っている。
 つまり、この時代には父親像は存在しないのだ、と氏は言う。むしろ、父親たちはそれを確立させる余裕もなく、父親の「不在」の印象を子供たちに抱かせた。
 第2期は、日本経済の復興期から高度経済成長にかけての父親のイメージになっている。
 この時期も父親の不在の印象が強いが、男性にとっては、社会的な活躍者としての、男の自信回復期といえる。仕事が忙しく男は家庭を顧みない口実を得て、働く男は「俺は家族のために一生懸命闘っているんだ」と言って、家庭を妻に任せてしまう。そのあいだに家族と父親の距離はさらに広がっていく。
 しかしこの時期はマイホーム主義という言葉がはやったように、それ以前の時期に潜在していた父不在への反省の思いが出てきた時期でもあり、過渡期とも言える。
 そして第3期が現代の父親であり、もはや、父親像は特定することはできなくなっている、と氏は言っている。現在の私たちの生きる社会で存在する父親像を3つのタイプに単純化して示されている。1つは旧来からの威厳ある「家父長型」、2つめがあまり父親として機能しない「人まかせ型」、3つめが子供と一緒に遊んでしまう「友だち型」である。
 現代の父親はここに上げられたような父親像のそれぞれの特質をいくつかブレンドしながら、自分の父親像を形作っているという。そして、また、現代の父親はどのような父親が自分や家族にとって一番あてはまるかを模索しているともいえる。
 太田睦氏の著書『男も育児休職』のなかで、父親とはなにかを考える、という文章がある。以下に原文をあげる。
 「・・・要するに人類の社会では、どんな父親でも家庭でもOKになってしまうのだ。とすれば、どういう父親になるかを男は選ばなくてはならないということになる。そして、選択肢に不満があるなら自分で考え出さなくてはならないのだ。アメリカでジョン・フォードが健在で、強い父親の映画を作っていたころは、こうした考えは奇異にうつったかもしれない。父親が一種類しかない社会ではこうした考えは異端なのだ。しかし、明らかに父親は何種類もある。だからそこに選択肢があり決断がある。そして選択への根拠は揺らいでおり、決断の後には不安定感がある。・・・。父親というのは母親になるよりも楽だ、というのが今までの定説であった。しかし、父親になるのも、けっこうむずかしいのが最近のご時世なのではないかと私は疑っている。」
 ここでも、現代の父親には選択肢がたくさんあるかわりに、選ぶのがむずかしい現状が述べられている。そしてまた選んだ後にも、これでいいのか、と不安を抱く父親の姿が書かれている。
 春日キスヨ氏の『父子家庭を生きる 男と親の間』という著書の中で、現代の「父親」に対する考えが書かれている。これは、父子家庭の男性が「父親」と「サラリーマン」との両方を行なおうとすると、夫婦を家族単位とみなすこの社会の中で子供と生活していくのは非常に困難であることを述べている所から抜き出したものである。
 「・・・。こんな文化のもとで、おおかたの男性は、妻がいるかぎり、親であることの恩恵は受けながら、限りなく“親”であることを手抜きすることが許される。
 男性の親としての役割は、金を稼いでくること、子供が赤ん坊のときはお風呂に入れてやること、少し大きくなったら、空いた時間に遊び相手になってやること、月1回くらいはファミリー・レストランでの食事に付き合うこと、妻から相談を受けたときに決定してやること、それくらいのことであろう。というよりも、それほどの役割を果たしていれば、非のうちどころのない父親として賞賛されるくらいである。
 たとえ、男性が、“親”としでの具体的役割はなんら果たさず、その一切を妻にまかせて、毎日『午前様』になる生活をしようとも、また、親子が何年も離ればなれに暮らす単身赴任をしようとも、稼ぎ手の役割さえ果たしていれば、本人も妻も批判されない。どんな残業をさせようと、会社の非人間性が問われることもない。・・・。
 『たてられ』ないと自力で権威を維持することもできないような男親、子どもと日常のこまやかなか関係も作れないような男親、こんな男親ばかりを見慣れて居るからこそ、多くの人が、父子家庭男性の“親”としての個人的能力を考慮する前に、『男親じゃ無理』と、頭から決めつけてくるのであろう。
 妻さえいれば限りなく手抜きが許される日本の父親、妻に立てられて初めて親たりうる日本の男性、こうした男性のあり方は、妻を失い、妻の代わりになるような女手もないような時、“親”として生きつづける能力と権利を男性から奪うものである。」
 ここでは、父子家庭の男性に対する夫婦そろった家庭の男性について書かれているが、ここでいわれているように、父親には「父親」になるための様々な選択肢が用意されているにもかかわらず、社会の夫婦単位の考え方が、父親を仕事に力を入れる、という選択肢を選ばざるをえない状況にしていて、ほかの選択肢を選んだ(ここでいうと父子家庭の父親のような生活)者は、「異端児」として扱われてしまう、といっているのではないだろうか。現代の社会通念のなかでは、「会社中心主義サラリーマン」以外の選択肢を選ぶことは、難しくなっているのが実状ではないだろうか。

参考文献

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