第四章 日系人とエスニシティ


1 なぜ日系人なのか

 第二章において、出稼ぎ日系人が日本における外国人労働者問題の先駆的立場にいると指摘した。その理由は、第一に90年の入管法の改正で日系人はその在留が合法化され、日本での就労についても何ら制限を受けないことになった。つまり就労を目的に来日している人達のなかで日系人だけが合法とされているということ。
 次に、これは今述べたことから二次的に発生していると思われることだが、日系人はその在留が合法であるため、独自のコミュニティを形成し、共通の文化をホスト社会(日本社会)に対して表出させやすい、ということがあげられる。
 事実、私が調査を行なった真岡市には、ブラジル料理店、母国語のカラオケボックス、レンタルビデオ店、雑貨屋などが点在していた。そして子弟教育(母国語や文化、歴史)に悩む人の姿があった。週末になると、体育館でバスケット大会を行なったりと日系人のなかでのコミュニケーションがとられていた。さらに近隣の県に在留している日系人とも友人、知人、兄弟といった形でコミュニケーションがとられているようだった。日系人と同様の調査をアジア系外国人(不法就労者)に対しても行なったが、日系人と比べて概して彼等はあまり自分のことを話したがらなかった(当然といえば当然だが)。また同国人とのコミュニケーションも日系人のそれと比べると、範囲が狭くごく限られたなかでしかおこなわれていないようだった。
 以上の点から、前にも述べているが、出稼ぎ日系人をとりまく状況について考えることは他の外国人労働者が今後合法化された場合の問題点や、現在の日本政府の政策に対する問題点を解く鍵になるだろう。またそこから、われわれ日本人にとって真の国際化とは何か、更には日本人とは一対何なのだろう、といったことを再考させられる。

2 ホスト社会(日本社会)側のエスニシティ

 第三章2で日本社会におけるエスニシティと限定したうえで、一方に「ホスト社会」として日本社会があって、これがマジョリティを形成している。他方、これとは人種的に(in terms of ethnicity)異なる「エスニック集団」(マイノリティ)が前者となんらかの関係をつくり上げている。その社会関係が考察の焦点になる、と述べた。そこでホスト社会側のエスニシティ観と、それに対峙する日系人のエスニシティ観、という立場からそれぞれについて考察していく。
 まず国籍の二大原理として「出生地主義」と「血統主義」があげられる。日本は、国民を血のつながり、言語、民族性、歴史的経験などの属性によって定義する血統主義を採っている。政策・法律において「日本人/非日本人」の境界線は「血統」「文化」「国籍」「日本語」などの基準があるが、そのなかで最も優位性が高いのは「血統」である。それは、例えば在日韓国・朝鮮人の三世は日本で生まれ、日本で育ち「文化」「日本語」を共有している。文化的にも社会的にもかれらは「日本人」と何ら変りはない。にもかかわらずかれらは「日本人」にはなれない。一方で日系人三世や中国残留日本人孤児は「血統」のみを共有しているに過ぎない。しかし日系人に対してはその在留が合法化されるという優遇措置がとられ、また残留孤児の受け入れについての異議は少ない。というところからみることができる。
 政策・法律にみられる概念とは別に、我々一般国民はどのように捉えているのだろうかわたしが思うに、我々は「日本人とは何か」という概念の上での明確な規定を持っていない。ただ何となく「日本人」のイメージを形成しているに過ぎない。それは例えば「外見上の特徴」や「日本語」「国籍」「血統」「文化」といったものである。そのなかで優位性が高いのは「外見上の特徴」と「日本語」「文化」だと思う。つまり視覚的に「日本人/非日本人」の区別をしているといえる。事実、私が調査に出向いたとき、日本のどこにでもいそうな顔だちの50代のおじさんがビール片手に「日本人は冷たいよぉ、日本語が下手だからって馬鹿にして、何か俺達は日本人にふみつぶされている気がするんだ。」と語ってくれた。そのとき、つまりどう見ても日本人にしか見えない人が「日本人は…」と話すことに何か不思議な感じを覚えた。

 我々は、日本に生まれ育ち、日本語を話し、文化も共有して外見上も日本人と変りない在日朝鮮人三世と、日本語が話せなく文化的にも外見上もブラジル人である日系人三世とでは在日朝鮮人の方がより「日本人」であるというように捉えるのではないか。ここで私が言いたいのは、日本社会のエスニシティ観は、政策・法律におけるそれと、一般国民におけるそれの間にずれがあるのではないかということである。政策・法律において優位性が高いのは「血統」である。それに対して国民は「血統」より視覚的なもので判別している。そして、このずれが日本における外国人問題のひとつの目に見えない特徴であるように思う。
 政府はその「血統主義」によって日系人の受け入れを合法化した。つまり日本語を話すことが出来なく、文化的にも社会的にも全く異なっている日系人を、その血縁ゆえに日本人として、または日本人に準じた形で扱うということである。しかしながら、現実に日系人と生活の場を共有するのは我々一般国民であり地域住民である。我々の捉え方からすると「日本人」と何ら変りのない在日朝鮮人が外国人として扱われ、一方では日系人と比べて何も変らないアジア系外国人が不法滞在者として法の外に存在している。
 日系人に優遇措置がとられていることに諸外国で批判や混乱が起きているが、日本国内においても以上のようなことから混乱が起きる可能性はあるだろう。
 渡辺雅子「共同研究・出稼ぎ日系ブラジル人」のなかで様々な差別が報告されている。また、私の調査においても差別があることがうかがわれた。国家と国民の間にずれがあることが原因の一端であるように思う。

3 日系人側のエスニシティ

 前節では日本社会側のエスニシティについて述べたが、本節では日系人側の立場に立って考えてみたい。
 日本社会がホスト社会つまりマジョリティを形成しているとした場合、日系人はそれに対して人種的(in terms of ethnicity)に異なる「エスニック集団」(マイノリティ)と捉えることができる。「人種的に異なる」というのは前節で再三言っていた”日系人を日本人に準じた扱いをしている”ということから考えると矛盾すると思われるかもしれない。しかし、in terms of ethnicity、つまりエスニシティの観点からということはエスニシティの定義=文化的なものを共有していることをもっとも重視し、なによりまずその出自によって定義される社会集団(綾部、1993、4頁)ということである。その意味では日本社会と日系人の社会が異なることは自明である。よって人種的(in terms of ethnicity)に異なるということがいえる。
 では、日系人のエスニシティについて、本国にいる時と日本に在留している時とに分けて、そしてそれがどう日本社会の中で関わっているのかを考えてみたい。
 日系人の大半を占める日系ブラジル人は本国において「ジャポネ」と呼ばれる。「ジャポネ」とはポルトガル語で日本人という意味である。ブラジルでは公には人種差別は存在しないとされている。また多元主義も比較的浸透しているといわれる。
 しかしながら、日系人達は「ジャポネ」と蔑称で呼ばれブラジル人とはみられないという具体的に差別を受けるといったことは現在は無くなったそうだが、それでも見下されているような感じがすると大半の人が私の調査において述べていた。
 次に、日系人の一世は第二次世界大戦の戦前、または戦後すぐの時期に南米に渡った人達が大半である。かれらは異国の地で想像を絶する苦労に耐えて今日の日系人の地位を築いてきた。抑圧された社会の中でその社会の中に溶け込んでいこうとする意識と同時に、日本人としてのアイデンティティを強くもち続けてきたことは容易に想像できる。そのアイデンティティは50年前とかわることなく、今日まで脈々と受け継がれてきた。つまり現在の日系人二世、三世の人々はブラジル文化を享受しており、「文化的」「社会的」には「ブラジル人」である。しかし、それと同時に祖父や父から50年前の日本人像を教え込まれ、戦前、戦後すぐの日本的アイデンティティを併せもつ存在といえる。

 そして、ブラジル社会の中で抑圧されることによって日本的アイデンティティを更に強く共有していく、という構造がそこにある。時代の流れのなかで、そして世代交代のなかでブラジル文化との相対的比重が下がっていっても、日本的アイデンティティは根強く受け継がれている。第二章、2)調査、において述べたが、ブラジル日系人の歴史のなかで日系人による殺人事件は過去一度しか起っていないという。この例が示すように日系人達は「日本的モラル」といったものをかなり厳しく親などから教育されてきたという。殺人はいけないことだというのが日本特有のモラルではないだろうが、「あなたは日本人なのだから……」というような教え方で親にしつけられたという。このようにみていくと、日系人にとって日本的アイデンティティがいかに大きなものであるかがわかると思う。
 以上のような属性をもつ日系人が日本に来てどういうことになるのだろうか。それは”戸惑い”であると私は思う。日系人がこれまで信じてきた日本的アイデンティティつまり50年前の日本人像と現代の日本の姿とのギャップに大きな戸惑いを感じるということがある。私の行なった調査でも、そのようなことがみられた。現代日本の若者のマナーやモラルの低下を指摘された。更に、来日した後ブラジルに戻った日系人の若者達が「全ての日本人がブラジルで言われているような真面目で立派な人間ではない」というようなことを広めることによって、これまで築かれてきた日本的アイデンティティが崩壊し、それによってブラジルにおいて日系人の若者のモラルが低下していると嘆く人もいた。
 もうひとつの戸惑いは、日系人が日常生活のなかでは「外国人」として扱われることへの戸惑いである。日系人は日本人と同類もしくは日本人に準ずるということで、国家はその受け入れを認めている。しかしながら前節で指摘したように一般国民は日系人を国家と同じような枠組みで捉えることが出来ないのである。日系人を戸惑わせている原因がこのずれにあるように思う。ある日系人の子供が日本の小学校で「外人」といじめられ、泣きながら家に帰って母親に「僕は日本人なのにどうして”外人”と言われ、いじめられなければならないの?ブラジルでは”日本人”と言われていたのに」と言ったそうだ。
 つまり、日系人がその長い移民の歴史のなかで培ってきた日本的アイデンティティが、そのルーツである日本に来ることによって逆に崩れていくという現実がそこにある。今後このような現状のなか、日系人のエスニシティが変化していく可能性はある。そして私はそれはよりブラジル文化への傾倒、ひいては日本社会に対する、より強い対峙に向っていくと予想する。詳しくは5節で述べる。

4 新たな視点

 「エスニック集団」について考えるとき、通常、『ホスト社会があってそれがマジョリティを形成し、マイノリティとして「エスニック集団」がそのホスト社会のなかでどう社会的に関わっていくのか…。』といったように「エスニック集団」ー「ホスト社会」という一元的な現状認識で語られているものが多い。しかし、私は本章で述べてきたことから考えると、現状はもう少し複雑であるように思う。少なくとも日系人に関しては。
 つまり、ホスト社会というのは政策・法律の面で「エスニック集団」と関わる「国家としてのホスト社会」と、「エスニック集団」と生活の場や職場、学校といったところで実際にふれあう「地域住民としてのホスト社会」とでもいうような二つにわけられる、と言える。つまり国家の政策のなかにもエスニシティは存在していると考える。そして、この二つのホスト社会は必ずしも同一ではなく、「エスニック集団」はその状況、状況において、対「国家としてのホスト社会」と対「地域住民としてのホスト社会」という違ったホスト社会と対峙しなくてはならない。
 今後、ホスト社会はひとつの思想、ひとつのアイデンティティをもった一枚岩の存在ではないといった現状認識のもと「エスニック集団」とどう関わっていくのかを考える必要があるように思う。

5 人種葛藤の構造(エスノ・ナショナリズム)

 中野は人種葛藤の構造として、「通常、エスニック集団は、一定の文化要素(言語、宗教、慣習)を共有するばかりではなく、そのアイデンティティ(BGI=basic group identity)を支える「中核価値」を維持するために共同体意識(We-ness feeling)をもつ集団である。その中核価値が経済、政治、社会、文化の諸領域で搾取、支配、差別、抑圧などホスト社会側からの圧力によって危うくされる度合に応じて、当然これに対する反作用としてのエスノ・ナショナリズム(の感情や運動)が、拡大するというメカニズムがある。」(中野、1993、254頁)と説明している。
 これまでみてきた日系人の問題をエスノ・ナショナリズムにあてはめ、そこから今後、日系人がどのような方向に行くのか考えてみる。
 日系人はエスニック集団として、ブラジルの文化と伝統的日本のアイデンティティとを併せ持つ存在であると始めに指摘した。そして伝統的日本のアイデンティティは日系人にとって非常に重要な「中核価値」である、というようなことも述べた。彼等が日本に来る時点において、日本という国をこれまでの日系人の重要な「中核価値」の源であるという捉え方をしていたことは容易に想像がつく。この時点において日系人にとって日本社会とは「エスニック集団」と「ホスト社会」といった対峙関係と捉えるよりむしろ「仲間」であるという捉え方だったと思われる。ところが日系人は伝統的日本のアイデンティティと現在の日本との間には大きな隔たりがあることを日本に来て知り、また自分達は日本社会から「仲間」とはみられず、それどころか「外人」と差別を受ける存在であることを知るそういった戸惑いと失望は非常に大きいものだったろうことは想像できる。その結果、伝統的日本のアイデンティティを崩壊させていくことになる。そこで初めて日系人にとって日本社会は「仲間」ではなく、対立する「ホスト社会」として登場する。ところがその時点で日系人の重要な「中核価値」=伝統日本的アイデンティティはすでに崩壊している。つまり「中核価値」が崩壊しているということで、その段階ではエスノ・ナショナリズムは表出されない。それが、現在の状況ではないだろうか。しかし、今後、ブラジルの文化を全面に出した新たなアイデンティティがうまれる可能性は十分ある。(「中核価値」の必要性から)そうなった時点で今度はエスノ・ナショナリズムが大きく拡大し、対立が起るということも十分考えられるように思う。

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