卒論5−1 「五打席連続敬遠事件」

 この論文のテーマであった、我々日本人が「高校野球とどう付き合っているか」つまり「高校野球に対するスタンス」について、以上で述べてきた。しつこいようだが「高校野球」は、本来「学生が行う一スポーツ」でしかない。繰り返して言う、「高校野球」は単なるスポーツだ。しかし、現実にはそうではない。最後にその現実の姿を見ることでこの論文を締めくくりたい。
 以下は1992年8月の朝日新聞(朝刊)の記事を要約したものである。これは、同年8月16日に起こった「五打席連続敬遠」事件について述べられたものであるが、これはこれまでの高校野球のあり方、つまり我々と高校野球のスタンスがある意味、集約された形ででてきた出来事であると言える。この記事の内容ついて考察することにより、「高校野球の現実」と「スポーツ」への「スタンス」についての前章まで述べてきたことの確認作業をしたい。
 なお、その外に高野連会長の公式見解、一般読者からの投書、現役記者の批評記事についても掲載しておく。

 「事件の経過」     ≪1992年8月17日付朝日新聞夕刊≫

 第74回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高野連主催)7日目の16日、第3試合の星稜(石川)―明徳義塾(高知)戦で、明徳義塾が星稜の4番打者松井秀喜三塁手を5打席とも敬遠したため、9回には星稜応援席や外野席からメガホンや紙コップがグラウンドに大量に投げ込まれて試合が一時中断した。勝った明徳義塾の校歌が流れると、星稜応援席などから「帰れ、帰れ」の声が上がるなど騒然とした。
 明徳義塾の馬渕史郎監督は試合前から、「松井選手は敬遠」と指示していたという。7回には2死無走者でも歩かせた。1試合で5連続四死球は第12回大会以来2度目。松井選手が敬遠されるたびに、星稜応援席からだけでなく、観客席から不満の声が上がった。9回2死三塁で敬遠された直後、星稜応援席付近から「勝負しろ」との声が飛び、メガホンが投げ込まれた。しかし、1点差で敗れると、整列した明徳義塾の選手に対して、内野席から「帰れ、帰れコール」が起こり、他の席にも広がった。その後、宿舎に缶詰状態になった選手には、2000本以上もの非難の電話がかかってきた。中には、脅迫めいた電話もあったという。「新聞」や「テレビ」などのマスコミは「明徳」に批判的な報道を行い、彼らは世間に「ひきょうもの」呼ばわりさえされることになった。
 以上が「五打席連続敬遠事件」の大まかな経過説明である。次は高校野球を取り巻く様々な立場の人々のこの事件に対する「意見」である。順序としては、「大会本部・朝日新聞社への全国の人々からの電話」、「明徳・馬渕監督」「地元・高知の朝日新聞社支局への地元の人々の電話」「高野連会長」「朝日新聞読者(40歳・男性)からの投書」「朝日新聞社記者による批評」となる。
 
 「大会本部・朝日新聞社への全国の人々からの電話」≪1992年8月17日付朝日新聞夕刊≫

 大会本部や朝日新聞社などには試合中から1000本を超える賛否の電話が相次いだ。「選手宣誓でうたった高校野球精神を踏みにじる行為」「子どもの教育に悪影響を与える」「5回とも敬遠というのはやりすぎだ」との批判的な意見が多かったが、「勝つためには当然の策」「ルール違反ではない」との擁護派もあった。


「明徳・馬渕監督」            ≪1992年8月17日付朝日新聞夕刊≫

 試合後、馬渕監督は「正々堂々と戦って潔く散るというのもひとつの選択だったかもしれないが、県代表として、ひとつでも多く甲子園で勝たせたいと思った。選手には嫌な思いをさせてしまった。私もつらかった」と語った。


「高知朝日新聞社支局への地元の人々の電話」 ≪1992年8月17日付朝日新聞夕刊≫
 
 明徳義塾の地元では、朝日新聞高知支局などに電話が相次いだ。「ともに高校生。正々堂々と勝負してほしかった」。「一生懸命練習してきた選手がかわいそうだ」と、明徳義塾の選手たちの努力を認めた上で、作戦に対する批判もあった。
 しかし、一方で、「県代表として勝たなければ、という使命を背負っているのだから、敬遠策は当然」・・・など明徳義塾に対して擁護、同情の意見も多かった。

 
 「高野連会長」   ≪1992年8月17日付朝日新聞夕刊≫

 ○走者ない時は勝負すべし 牧野直隆大会委員長
 牧野直隆・大会委員長(日本高野連会長)は試合後に記者会見をし、次のように語った。走者がいる時、作戦として敬遠することはあるが、無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。1年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか。・・・略


 「朝日新聞読者からの投書」≪1992年8月17日付朝日新聞朝刊≫

 星稜−明徳戦は後味の悪い試合だった。高校野球は教育だとよく言われる。あれはプロの試合だ。高校生らしさのかけらもない。勝てば良いというわけではない。作戦で認められているという人がいる。確かにその通りだ。だからこそあんな作戦はとってほしくなかった。あれは勝利とは言わない。敗北以下である。
 明徳は甲子園を汚した。私はそう思う。暑い夏に毎年、満員の観客を集め、人々の興奮と感動を呼ぶのは、そのさわやかなプレーのためだ。多くの先輩たちが戦争をはさんでも、一生懸命、血と汗と涙で築き上げたプレーの歴史があるからこそ、満員の観客を集め、テレビの前へ人々をクギ付けにする。大きな社会的関心を集める。その先輩たちの歴史をも汚した。彼らにまず謝って欲しい。
 さらに酷な言い方かも知れないが、明徳の生徒も「監督、勝負させてください」ぐらい言えなかっただろうか。甲子園に出たということは、一生の思い出に残る。その思い出をこんな形でしか思い出せず、甲子園に出た仲間であるはずの松井秀喜君や、星稜高校を傷つけたというのは気の毒というしかない。
 私もかつては甲子園をめざした高校球児だった。その聖地である甲子園が汚された。残念でならない。(男性・40)

 
(朝日新聞記者批評記事) ≪1992年8月17日付夕刊≫

 今大会屈指の好打者といわれた星稜・松井が5打席全部敬遠の四球で打たせてもらえなかった。しかも、明徳義塾の河野投手は1球もストライクを取らず、外角へ大きくはずれる20球を投げただけ。馬渕監督の指示による「敬遠策」はまんまと成功して、明徳は勝ちを手にしたが、果たしてこの勝ち方で良かったかどうか?
 試合前、同監督は「四国の野球が石川の野球に負けられない」と豪語していたのに、フタを開ければ姑息(こそく)な逃げ四球策とは。他の四国勢が聞けば、憤然とするだろう。「すべて私の指示で敬遠させた。松井君以外に打てる選手がいないので、勝つには“これしかない”と思った」と、甲子園の1勝に対する強い思いを明かした。しかし、どんな手段を取ってでも「勝つんだ」という態度はどう考えても理解しがたい。特に、走者のいない2死無走者(7回)までもボール連発を命じた時は、おとなのエゴを見たような気がして、不愉快ささえ覚えた。
 試合は1点差で逃げ切り、明徳の校歌が流れたが、その最中にスタンドから「帰れ、帰れ!」コールが起こったのも、明徳の異常な執着を非難したのだろう。1回戦の長岡向陵・小柳監督が「3年間、努力してきたのは甲子園で敬遠するためじゃない」と、竹内投手にハッパをかけて松井と対決させたのとは大違いだった。
 「敬遠するのはルールには抵触しない。これも作戦のひとつ」という声もある。しかし、力を尽くしてのぶつかり合いでないところに、釈然としないものが残る。当の河野投手でさえ「一度は勝負したかった」と、もらしている。明徳ベンチは「勝利」にこだわるあまり、もう一つの大事なものを忘れていた、といいたい。

 以上が、この事件の経過および事件そのものに対しての、様々な人々の「見解」である。この事件は単なる野球のゲームの中での出来事にとどまらず、高校野球をとりまく多くの人々の多くの議論の的になった。そして、この事件だけをみても、議論をする人々のそれぞれの主張の中に「高校野球」に対する「押し付けぎみの期待」とも言える「意味付け」を見ることが出来る。
 軽くまとめるならば、まず、第一に、人々は「高校野球」に「高校生らしさ」といった作り上げられた「型通り」のイメージを要求する。例えば「選手宣誓でうたった高校野球精神を踏みにじる行為」「共に高校生、正々堂々と勝負して」「この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球」「高校生らしさのかけらもない」「さわやかなプレー」など、人々は選手に「高校生らしさ」という既成のイメージを押し付けている。選手は社会によって「高校生らしさ」を演じることを要求されているのである。「高校生」が「さわやか」であったり、「正々堂々としている」ものであるというイメージを抱き、その通りの「プレー」や「行動」を選手に期待し、要求することは2章で述べたところの「社会枠」の要素の存在をみることができる。また、「正々堂々と(今まで苦しい練習をしてきたのだから)力を思い切りぶつけ合うのが高校野球」という言説には、「努力」や「修養主義」、「武道精神」などの要素を見ることができることから「精神力・求道主義」の要素が存在しているとも言える。
 第二に、「甲子園」を神聖視し、「伝統」や「歴史」を尊重することを要求する。それは「血と汗と涙で築き上げたプレーの歴史」、「聖地である甲子園が汚された」などの言説に現れている。これも個人の力では如何ともしがたい既存の「制度」的な力としての「社会枠」の要素とその意味で「高校野球」が個人をこえた現象にまで高まっているという意味で「エスカレーション」の要素を見ることが出来る。
 第三に、「高校野球」に単なる「スポーツ」としての価値以外に、様々な「価値」特に「経済的価値」の実現を要求している。それは「高校野球は教育だとよく言われる」「子どもの教育に悪影響を与える」「県代表として勝たなければならないという使命を背負っている」といった言説に現れている。これは、産業社会に要求されるところの人材育成の手段としての「教育の一環」という意味において、社会の「経済的価値」体系とうまくつながっている「高校野球」、ひいては巧妙に産業社会を支える「高校野球」の姿をよく表している言説である。また,「県代表としての使命を背負う」という言説には、地方への帰属意識や郷土意識等に支えられた「連帯的集団」が個人やチームを超えたところに存在しているという点で、「社会枠」「エスカレーション」の要素を見ることができる。 
 そして、補足だが、大会主催者側の立場にある朝日新聞の記者の「批評記事」についても興味深い考察を得ることができる。この記事では「五打席連続敬遠」という事件についての明徳義塾の行動をかなり批判的な姿勢で報道している。「果たしてこの勝ち方で良かったかどうか?」「フタを開ければ姑息な逃げ四球策とは」「どう考えても理解しがたい」「不愉快ささえ覚えた」「明徳の異常な執着」「長岡向陵・小柳監督が・・・略・・・松井と対決させたのとは大違いだった。」「釈然としないものが残る」「勝利にこだわるあまり、もう一つの大事なものを忘れていたといいたい。」というような言説は明徳に批判的な論調の記事を書くことで「高校野球」の「あるべき姿」を強調して示し、「高校野球」のイメージを形作り、維持するよう作用しているとも考えられる。このように「高校野球」のプラスイメージを強調することは、社会における「高校野球」の人気を維持するように作用し、「高校野球」という特殊なスポーツの形態の存在を人々に肯定させ、結果、「イデオロギー維持再生産装置」としての「高校野球」の作用が続いていくことになる。
 メディアの流す「情報」の影響力の大きさを考えると、「明徳義塾高校野球部」に批判的な内容の記事を流すことにはより慎重になるのが本当であると思われる。その理由を推測するに朝日新聞社というメディアは、同時に主催者としての立場にもあるために「高校野球の精神」のようなものを強調する必要があったこと、また「高校野球」のプラス・イメージを報道することで、その人気を維持することは自社の新聞の販売部数拡張という大きなメリットにも繋がるというような理由で、このような報道をおこなったと思われる。ここには当然「産業社会の価値」の要素があり、またメディアが「高校野球」という現象を盛り立てているという点から、「エスカレーション」の要素を見て取ることも出来る。
 
  
 卒論5−2 「高校野球」が背負わされているもの

 「高校野球」は、もはや単なるスポーツの域を越えたものである。高校野球には様々な「価値」や「統制」が加わっている。「スポーツ手段論」的な利用のされかたで、「教育」に利用されたことを始まりとして、「高校野球」というスポーツの中に有形無形の「権力」や「制度」が構築され、周囲の過剰な「価値」や「期待」と絡み合って、「高校野球」は本来の意味での「スポーツ」とは全く別物になってしまった。言い換えるなら、高校野球はあまりにも多くのものを背負いすぎているのである。
 もともと、「スポーツ」は「人間の自然かつ自由な身体活動の本能的な発現」に「分有される意味と価値、共通の秩序」が加わったために「文化」となり得たのであるから、ある程度の「制限」があり「スポーツ」として成立する程度の「秩序」を維持することは、なんら不思議なことではない。しかし、「高校野球」という現象に存在する「制限」や「力」や「価値」は、もはや「高校野球」の「スポーツ」としての「キャパシティ」を越えてしまっているのである。
 確かに、「純粋な人間の遊びの要素」としての「スポーツ」の特性は非常に薄くなったが、「スポーツ」がその外部にある「社会」と様々な要素で結びつき、その影響を受けるという現在の姿を否定すること、すなわち「悪」だと決定することは出来ない。人間が創り出した文化「スポーツ」と「人間」との関係をまさしく「人間自身」が現在のように構築したのであるから、これも一つの「文化としてのスポーツ」のありかたであると考えられる。
 ただ、本来的にもっと自由なものであった「スポーツ」を我々人間が、日本人が、自らの手で、自分ではどうにもならないものしてしまった「人間」と「スポーツ」との関係の現状を個人的には憂いていた。そして、そこで沸いてきた「人間にとって、また日本人にとって「スポーツ」とは何か」という問いこそが、この論文を書くきっかけであった。その意味で、「スポーツによる人間の社会化」という「人間」と「スポーツ」の関係を、「高校野球」という最も極端な例のうちに探ることができた。従って、この論文は、当初の目的を概ね達成できたと思われ、この辺りでこの論文を終えることとする。

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