卒論3ー1 「イデオロギー受容のプロセス」〜 従う側のメカニズム
 
 前章においては、イデオロギーの形成・維持のプロセスについて、主に「形成する側」の観点から述べてきた。人々はそこにあるイデオロギーをさしたる抵抗もなく、いかにも簡単に受け入れているかの様に見える。実際、人々はかなりの程度それらのイデオロギーを受け入れ、感化され、しばしば盲目的とも言えるほどにそれに沿った行動を取るようになる。人々は何故、イデオロギーを受け入れるのか、それは自発的な従属によるものなのか、何らかの強制力が働いているためなのか、そして、もし、そうだとするなら、そこにはどのような力が働いているのだろうか。この章では、イデオロギーを受容する側の論理や、その受容過程について述べるとともに、それを高校野球にも当てはめることで、高校野球におけるイデオロギー「受容者」について観察したい。
 高校野球においては、高野連、学校、指導者、メディアなどがイデオロギーを「仕掛ける側」であり、生徒、観戦者などはイデオロギーを「受容する側」であると考えたい。ただこれは、非常に大まかなモデルであって、実際にはこの二分法は完全な形では成り立たないという可能性は否めない。何故なら、学校や指導者が「受容する側」にある場合もあれば、生徒や高校野球観戦者が「仕掛ける側」にある場合も現実的に十分考えられ、そういった立場の逆転は日常において現実的に起こっていると思われるからである。しかし、本質的には「受容する側」か「仕掛ける側」のどちらかの役割をメインに担っているはずなので、この二分法はイデオロギーについて考える際に有効であると思われる。
 さて、まず「受容する側」の「選手」と「仕掛ける側」の「指導者」という上述の二分法に基づく関係を基本的なモデルとして設定したい。高校野球という「学校スポーツ」において見ることの出来る「選手」と「指導者」という関係は、その本来の基盤である「学校」における、「生徒」と「教師」という関係に置き換えることが出来る。この置き換えは、教育という事象を介したほぼ同質の現象を置き換えただけなので〈生徒−教師〉間の関係を考えることで高校野球における〈選手−指導者〉という関係を考察することは可能であると考える。
 <生徒―教師>という関係の中で、教師は生徒の行動や態度、知識や思考方法などに影響を与える「力」を持っており、生徒はそれを受容する立場であるという関係を見ることができる。両者の「関係」には、「統制権」、「評価権」、「教育内容・教育方法の決定権」などのいわゆる「制度的な力関係」と、「知識・技術の格差」、「学歴と資格」などの「文化的な力関係」を見ることができる。
 
 制度的な力関係

「制度的な力関係」は「制度上の地位」において教師の圧倒的優位が見受けられる「力関係」である。この力関係においては、生徒は教師の「権限」の前で無力である。その内容について簡単に述べる。まず、「統制権」は教師が生徒の行動を左右しうる権利である。教師には、教育上必要な場合に「罰則」を<体罰とならない範囲内>で生徒に加える権限が与えられている。実際には、教師はこの権限を盾にとって生徒に望ましい行動様式に従うように圧力をかけたりすることはないが、懲戒権は生徒への指示を有効にする上で非常に有効に作用する。次に「評価権」についてであるが、教師は国や社会の代理人として、教育制度や社会理念の枠内でのみ生徒に対しての評価をする権限を持っている。生徒の立場から見れば、教師は「評価をする権限をもつ存在」として認識される。従って、生徒がより良い「評価」を得たいときには、教師が期待する望ましい態度や行動様式、知識、思考などをその真剣度はともかく、受け入れる、または最低でも受け入れる「ふり」をする必要がある。最後に、「教育内容や教育方法の決定権」であるが、教育の内容と方法の大枠は、国のレベルで決定される。そして、その大枠の範囲内で生徒への教育を行うことができる「教師」は、学習すべき内容を指示する存在として、生徒が習得する知識や技術(文化内容)に大きな影響を与えることが可能になる。学校で教師が教える知識・技術は教師によって評価され、その評価の「結果」が最後には「社会」による「個人」の評価の材料となり、影響を及ぼすので、生徒は教師から学習行動とその内容について影響を受けざるを得ない。
 
 文化的な力関係

「文化的な力関係」とは、生徒と教師の間の文化的な力の格差を前提とした力関係である。まず、「知識・技術の格差」については、自明のことであり、あらためて説明する必要もないだろう。次に、「学歴と資格」であるが、生徒にとって教師とは、社会、国家によって制度的に認められ、教育上の権限を与えられた存在として現れる。例えば、教員免許状などの資格がそれにあたる。それは、教師に正統性を与え、事実としての知識の格差を制度的な文化的格差として保証する。その「正統性」は、教えられる「文化内容」に「正統性」を与える。これらの「文化的格差」に、基づく力の行使は、強制力が前面に押し出されておらず、自発的従属を生み出す重要な要素となる。

 「なぜ従うか」

 以上では、〈生徒ー教師〉の力関係において、教師が何故、生徒に対して優越を保つことが出来るかを主に、「教師」の側の「力」に焦点をあてて探った。これを高校野球の場合に当てはめる前にもう一つ考えたいのは、「生徒(選手)は何故従うのか」ということである。その理由を藤田・西原は、@不利益の回避(価値剥奪)、A現実的利益の追求、B文化的価値の承認と獲得、という主に三つの点から明らかに出来るとしている(藤田・西原、1996、166頁)。その内容を要約すると、まず、「不利益の回避」は学校における様々な不利益を避けるために教師の指示に従う場合の生徒の従属である。「現実的利益の追求」は高い評価を受けることによって社会的・経済的な利益を獲得しようという動機から、生徒が行動・学習に関する教師の指示に従う力のことである。これら二つの理由の場合には生徒は教師の示す行動様式や教科内容を正しいものとして信じている必要はない。これらは、生徒の従属を引き出している不利益・利益の要素(罰則や評価・社会的成功や評価)が有効に機能しなくなった場合には、生徒の「自発的な従属」を引き出すことが困難になる。この点で、対照的なのは「文化的価値の承認と獲得」である。学校において伝達される文化的価値の正しさや社会的な有用性を信じることによって、まさに〈自発的〉に教師の指示に従う場合がそれである。この場合、現実的な不利益や利益を示すことによって従うことを求めるプロセスが不要となる。そして、最も効果的に自発的従属を引き出すことができる。

 自発的従属を産み出す力 ・・・ 「象徴的暴力」

 さらに、藤田・西原は「自発的従属」を生み出す力について、次のように述べている。『従う側はただ単にみずから進んで従うのではなく、みずから進んで従うよう巧みに「仕向け」られているのである。』(同、168頁)。つまり、上述したところの「生徒(選手)は何故従うのか」についての三点の理由、「価値剥奪」「現実的利益」「社会的有用性、真理、正しさ、伝統」などを示すことによって、自発的に従うように巧みに〈押し付ける〉のである。このような「正しさ」や「伝統」などを明示して自発的従属を生み出す力をブルデューは「象徴的暴力」と呼ぶ(新社会学辞典、738頁)。これは、文化再生産論における非常に重要な概念で、それを行使する代表的な例が「教育」である。「教育」においては象徴的暴力の行使による正統的文化の再生産を通して、集団・階級間の力関係が再生産される。ここでは、社会ルールや慣例など、既存の「秩序・規則」を学習(再生産)させることで、社会の秩序、規則、力関係までもを維持するという仕組みが、よほどのことでもない限り続いて行くことになる。
 
 卒論3−2 「高校野球」にみる「力関係」と「象徴的暴力」、「自発的従属」
 
 以上においては、〈生徒−教師〉間における、「力関係」および、その「自発的従属」を引き出す「象徴的暴力」について述べることにより、社会化のプロセスにおける価値・イデオロギー「受容者」側の論理について明らかにした。2章で述べたが、「高校野球」において重要とされる価値・イデオロギーは、日本人のいわゆる「心性」ではなく、日本の「近代化」「軍国主義化」の過程を通じて形成されたものである。言うならば、それは「国家」の「近代化」「軍国主義化」の達成という特定の目的を達成するための「価値・イデオロギー」である。しかし、実はそれは2章で言うところの『虚偽意識』である。しかし、その『虚偽意識』は今や、日本社会にしっかり根を張り、依然としてかなりの影響力を持っている。「虚偽意識」としての「価値・イデオロギー」は「高校野球」という「教育」活動の場面でも「当然のこと」として尊重され、教えられている。そして、人々がそれを受け入れることで、社会へ自発的に従属するためには、その「虚偽意識」が社会的に正当化され、普遍的なものである必要があった。現実に、人々は各種のメリット、デメリットから、その『虚偽意識』を受け入れ、社会に自発的に従属していく。そして、結果的に最終目標とも言える既存社会の秩序や体制、「本当の」意味での「価値・イデオロギー」―――例えば、軍国主義国家の形成や1970年代の高度経済成長時代の産業中心的社会構造など――の形成に行き着き、それを延々と再生産・維持して行くレールの上を走るようになる。蒸気機関車を例に喩えるなら、燃料の「コークス」は社会における「価値」(実は虚偽意識)で、機関車は「我々」、レールとその先にある目的地は「既存の社会体制・秩序」となる。機関車は止まることなく、延々と走り続けていく。
 さて話を「高校野球」に戻す。スポーツがその本来の純粋な意味から逸脱した形が「高校野球」に見られる。それは、上に述べたような、虚偽意識としての価値を正当なものとして、人々にアピールし既存の社会体制を最終的に維持・再生産する「装置」の役割を果たすことによって、社会の枠組みに「取り込まれていっている」のである。別の言い方をすれば、「利用」されているのである。それがいいことであるか、悪いことであるかについては、個人的な答しか持ち合わせていないため控えるが、「高校野球」が人間の自由な遊びの転形である「スポーツ」本来の軌道をそれていることだけは確かである。高校野球は実に、見事なまでに社会に取り込まれている。
 そこに、見られる「選手−監督間」の関係、そして選手の価値・イデオロギーの「自発的受容過程」、その結果としての選手の「社会化」などは、先述した学校の「教育」、生徒−教師間のそれとほぼ対応する。「文化的力関係」、「制度的力関係」などは、上文で「生徒−教師間」の場合について説明したが、「選手−監督間」の関係においても同じように見られる「力関係」である。
 また、「監督への絶対的服従」は、社会における「縦社会」的人間関係への適応を容易にするし、「チームワーク」は、同じく「横社会」的な「連携」が必要とされる場面への適応が可能になる。「実力主義」による「選手の評価・序列化」を選手自らが経験し、より良い評価を受けようと「努力」し「競争」することなどは、選手がマクロな意味でもミクロな意味でも「競争」が重視される「自由経済社会」への適応を果たすことを意味する。上述したところの「イデオロギーの受容と社会化」である。それらは、「選手−監督」という単純な上下関係のモデルにて片づけられるものではない。監督の「力」の背後には、「学校」があり、「社会(国家)という権威」の存在がある。「高校野球」という教育現象は、現実の「社会のシステム」とうまく繋がるように作られているのである。
 「学校教育」においては、文部省の方針のもとにプログラムされた「教科内容」を生徒に学ばせ、テストの点数と偏差値による生徒の能力の数値化によって、生徒を序列化し「選別」が行われている。ここでは、文部省つまり、「社会」が示すところの価値基準に従って、「生徒」一人一人の評価が「画一的」になされる。これは、数値化される価値だけが評価対象となり、数値化されないものは評価対象にならないということでもある。ここでは、生徒1人1人の「個性」であるとか、「長所」を尊重すること、あるいは、「学ぶことの楽しさ」などは、二次的なことでしかない。1人の「生徒」は大勢の中の1人に過ぎない。あくまで、すでに決められている「基準」によって、評価を受け、「選別」を受けざるを得ない。
 同じように、高校野球においては野球の「技術」と同様に、選手としての人格的「資質」といった価値が重要視される。これは、言わばそれらの既成の価値が守るべきものとして選手の前に提示されているということでもある。それを直接選手の前で提示するのは、監督であるが、実際に選手をして規範に従うように仕向けているのは「社会」である。選手は、社会に提示された「価値」に関する多くの「メリット」「デメリット」から、その価値(虚偽意識)を受容せざるを得ない立場に追いやられる。そして、「社会」が「一方的に」要求する所の「価値」をどれほど身につけることが出来たかどうかという「基準」に向けて競争させられることにより、「選手」は社会のニーズに添った形で「序列化」されていく。このような「社会」という「象徴的暴力」に対しての「自発的従属」によって、「高校野球」における「社会化」は達成される。ここでは選手個人個人の「個性」であるとか、「長所」、「主義・主張」などは、それが「監督」そして「社会」の「評価基準」にそぐわないものであれば、ほとんどの場合、無視されることになる。仮に、選手の「個性」や「自己」を大切に扱おうという指導者の方針のもとに部活動が運営されていても、それは、純粋な「遊び」としての「スポーツ」ではないのはもちろんのこと、やはりある一定の「教育的枠組み(制限)」のもとでの「個人」の尊重であり、「社会・象徴的暴力」による「画一的・評価基準」と「社会化」は依然として存在しているのである。


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