卒論・第1章

:第1章 卒論1ー1「文化」としての「スポーツ」
 
 スポーツという人間の「身体活動」は、いわゆる「文化」でありえるか。この問いかけに対しては「文化である」と即答出来ない人も多いのではないだろうか。スポーツが「文化である」か「文化でないか」―――それぞれ対極に位置するそれらの意識の間には一体何があるのだろうか。
 この問題を論じる前に、そもそも「文化」とは何なのかという問いに答える必要がある。「文化」とは、社会学的には、『人間の現実的・想像的な生活経験の象徴化された形態であり、この生活経験は多少とも集団的に共有され、対自然、対人間、対観念などの内容をもち、これを象徴化する人間の営みは、用いられる記号の多様性にも応じ、様々な形をとる』(1)そして、上述の「対自然、対人間、対観念」それぞれの生活経験に呼応するように、文化は三つの異なった要素に分解することができる。まず、「対自然」の場合では、生きるための欲求を充足させるため、自然に働きかける「工夫・技術」としての要素、「対人間」の場合では、共同生活の秩序を保持し、社会的な行動を律する「ルール」としての要素、「対観念」の場合では、物事の意味を示したり、求めるべき行動の目標を提示する「有意味・価値」の要素、のようにである。
 以上は、言わば「学術的な意味」での文化に対する定義である。上述の定義に従えば、人間が意味と価値を見出し、様々な工夫、技術を用い、集団が確かなルールや組織の下で行なう人間の営み―――「スポーツ」―――は確かに「文化」であるとは言えないだろうか。
 
 しかし、ここで過去を振り返ってみると、例えば、近代では、激しい身体活動と遊びの性格を持った「スポーツ」と、知性、精神性、神聖性を重要とする「文化」とは全く異質なものとみなされてきたのである。それは、『近代の文化概念がそのような価値を実現する営みを「文化」として規定してきた』(3)からであった。
 富の生産を奨励する社会の勤勉のイデオロギー、つまり、「プロテスタンティズムの倫理」のもとでは、『遊びは人間を怠惰にし、快楽に染めさせる危険な営み』(3)とみなされていた。そこには、スポーツは「文化ではない」というある種の「常識」があった。
 しかし、生産力の飛躍的な発展、社会の民主化、文化研究の進歩等により、人々はその欲求のより豊かな充実を可能にするバックグラウンドを整備したのであった。特に、「文化研究の進歩」は、『身体と遊びを抑圧し、卑下してきた狭い文化観は否定され、「文化」は「社会生活の送り方の全体」とみなされるようになった。』というように、文化の定義を大きく拡大し、変えたという意味で注目すべき変革であると言える。
 そして、文化は『価値や信念、知識や技術、法や慣習、使用される事物等のトータルなシステム』(3)として位置づけられることになった。スポーツは間違いなく全体の文化のひとつとしての位置づけを得たのだった。
 だが、実際には、現代においても、文化に対する我々のイメージは、「知的、精神的活動」という方向に大きく傾倒してはいないだろうか。言い換えるならば、「歪んだイメージ」ともいえる。 例えば、演劇や音楽のコンサートなどに対しては、我々は容易に「文化」というイメージを持ち得るだろう。しかし一方で、重量挙げやボクシング、野球、スキー等を何のためらいもなく「文化」であると考えられるであろうか。何を「文化」とし、何を「文化ではない」とするか。それは一見我々の自然で不作為かつ直感的な判断によるものと思われるが、実際のところそれは、確かな価値判断に基づいたものである。そして、その「歪み」の原因は、日本の近代化において「スポーツ」と「文化」が辿ってきたプロセスに見ることができるのではないだろうか。
 近代日本においては『明治以後、近代文化国家を目指してきた日本は、社会において価値があるとして認められたものを文化としてきた。』(2)というように、急速な西洋文化の移植をメインとした近代化の過程においての「価値のあるもの―――知的、精神的活動」という枠組みの中で「文化」は捉えられた。近代化とは言い換えるならば、知性、理性、合理性など「主知主義」を手に入れることでもある。従って、当時もてはやされた「文化」というものが、「知的、精神的活動」の要素を持ったものに限定されたとしても何ら、不思議はない。
 そして、スポーツ、というよりはその“転形”としての「体育」が辿ってきたプロセスは、「文化」のそれとは全く別のものであった。例えば「体育」は、日本における近代の始まり、明治期においては、「富国強兵」のスローガンの下、もう一方の近代化とも言える「軍人気質の育成」という目的のために「利用された」という歴史的経緯がある。その当時「体育」から我々が学び得るものは、スポーツの楽しさというよりは、むしろ、強靭な精神と肉体を形成するための、鍛練と修養であった。こういったスポーツとの関わりかたが、「スポーツ」を、一文化としての存在から軌道をそらし、ある目的達成のための「手段として」用いる要因となったのではないか。また、日本におけるスポーツは仮に「日本的精神」というものが実在するならば、それを維持、反復する「文化装置」として、或いは、人間を日本社会という鋳型にはめ込む「社会化の手段」として利用されたのではないか。そしてそれが、現代においても日本社会に綿々と見受けられる現実ではないかという仮定こそがこの論文におけるテーマである。以下にそれを論じてゆきたい。

卒論1‐2 「スポーツ」=「文化装置」論
 
 スポーツは文化であると前項にて結論づけたが、ここではそのスポーツの「力」とでもいうべきもの、スポーツの文化的、社会的な「作用」の側面にスポットを当てたい。
 何度も繰り返すが、スポーツは全体文化の中の一つの構成要素として数えることが出来る社会事象である。そして、それは他の多くの文化の構成要素と複雑に絡み合い、互いに影響しあってもいる。ここでは、他の多くの文化構成要素のうちから「教育」という事象をピックアップし、そのスポーツとの「絡み方」を観察しようと思う。
 「教育」という行為の意味は、一般的に言えば、『教え育てる事。人を教えて知能をつける事。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動』(4)ということである。ここで注目したいのは、最後の一文である。教育とは平たく言えば、社会を維持、発展させるために必要な知識やイデオロギーなどの文化的な要素をその社会の構成員たる人々に教え、それを吸収させることによって“その社会にとってふさわしい人間”を育てて行こうという行為である。そして、この“社会にとってふさわしい人間”という言葉の意味を問題としたい。
 「社会にとってふさわしい人間」とは、別の見方をすれば、「社会にとって有益かつ都合のいい人間」とも言える。「教育」はそういった人間を作り出し、「社会の形」を維持形成するための道具の役割を果たしてきたとは言えないだろうか。
 そして、ここで「スポーツ」はどのように「教育」と「絡み合っているか」であるが、「教育」においては、「スポーツ」は「体育」もしくは「クラブ活動」という事象に形を変えて存在している。「教育」としての、そして「スポーツ」としての「体育」は多くの問題を内在させている。
 その問題の本質は、この「体育」「クラブ活動」等の教育的脚色がなされたスポーツの転形が果たして純粋な意味においての「スポーツ」と言えるのか、またそれらが「スポーツ」として認めがたいものである場合、そこにある‘差異’を形成したものは一体何であるかという問いへの答えのうちに見ることができるだろう。以下その答えを探るべく、スポーツはそのどのような特性によって、イデオロギーを再生産し得るかを検証したい。

 『体育の究極的な目的はホモ・ルーデンス(遊ぶ人)の解放である』とのことだが、それはむしろ「スポーツ」そのものの本質であるといったほうが適当だろう。そして、そういった意味を本質的に包容するはずのものとしての〈スポーツ〉と現実のスポーツとして我々が享受している「体育」や「クラブ活動」などの〈学校スポーツ〉との間には、埋めがたいギャップがある。
 スポーツのその社会における存在意義と価値を示し、その意義と価値の実現のためスポーツを方向づけ統制するものが「スポーツ観」であり、その価値の認めかたは二つに分けられる。一つは「スポーツ=手段」論、そしてもう一つは「スポーツ=目的」論である。以下にその概要を述べるが、この論文において問題を解く鍵となるのは、つまり、イデオロギーの再生産的手段として用いられてきたと思われるのは「スポーツ=手段」論の方である。

 「スポーツ手段論」とは『スポーツの意義と価値を、スポーツが他の何かの目的を実現し、達成するのに役立つという点に置き、スポーツの手段的な働きによってスポーツを第一義に正当化するスポーツ観』という内容をもつが、そこには、生産を重視する社会(産業社会)において、消費活動であるスポーツは肯定されにくいため、他の社会的な価値と結び付けて正当化しなければならないという背景があった。
 「スポーツ手段論」は「アスレティシズム」「身体・人格形成論」「社交・連帯形成手段論」などに分類される。極簡単にそれぞれの特徴を述べる。
 「アスレティシズム」は、スポーツの「教育的機能」を重視し、産業革命後の資本主義社会=競争社会において必要な社会性や人格的特性を育て団結を保持する機能を果たす価値ある営みとしてスポーツを位置づけたものであり、英国のパブリックスクールのチームゲームから発生したスポーツ観である。
 「身体・人格形成論」は、スポーツの「人間形成の機能」を重視するスポーツ観である。人格形成機能としては、『スポーツの競争や挑戦の性格は攻撃性や勇猛心、決断力や忠誠心、努力や忍耐力等の精神的資質の育成、規則の遵守や競争と共同等の道徳的資質の形成に役立つ。』(1、P・78)というような、また、身体形成機能としては『単に健康で成熟した身体の形成に限らず、より社会的に有用な身体的労働力、さらに軍事的兵力と結びついて価値付けられ…』というような認識のされかたで、スポーツは価値と意味を持ち、利用されていった。
 「社交・連帯形成手段論」は、スポーツの「社会や集団を統合させる機能」を重視するスポーツ観である。この論文中で特に注目すべきは、連帯形成機能である。               『スポーツにおける競争は対抗する相手を実体化し、具体的に提示する。そして、相手を打倒し、手中にする勝利は絶対的な優劣の表示であり、自発的な意志によって共有し得る無形の名誉や栄光という社会的威光の価値をもたらす。敵と味方の二分法は人々を連帯させ、威光の価値の共有は人々を団結させる。』というように人々を連帯させ、団結させる一連の社会化機能は、例えば第二次世界大戦中の全体主義国家において、「敵を倒すという」ひとつの目的のもとに国民を「団結」させたり、政府が自身の矛盾に対して向けられる国民の不満をそらして形成する「連帯」という形に具現化されている。
 以上が、スポーツ手段論の概要であるが、これらの「スポーツ手段論」は前述した通り、この論文中において「鍵」となるものである。言い換えるならば、問題をとくための定理のようなものだとも言える。 


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