6章 考察・まとめ

 

1節 ペットの死を看取るまで

本稿で取り上げた事例ではいずれも飼い主に看取られながら亡くなる事が、ペットの幸福な死であると考えられていた。また、ペットに幸福な死を迎えさせてあげる事に一種の責任感や使命感を感じている意見や、病院側が家族全員でペットを看取ることができるように延命治療を施す例があるなど、看取りは終末期のペットをもつ飼い主にとって重きを置くべきプロセスだということが分かる。そして、そのプロセスでみられるのは、人間の家族を看取る時と類似した細やかさである。飼い主と病院側の両方に、ペットにより人間に近しい最期を迎えさせたいという意識が働いている。しかし、そこには死を迎えるのがペットであるが故に、あくまでも飼い主志向がある。そのうえで、第4章で述べた治療法の選択や、今後の見通しの詳しい説明、苦しむ姿を見せないようにする工夫・配慮、死に立ち会うことへのこだわりなど、それらは全て飼い主がペットの死に納得するということに繋がっていると考えられる。西谷ら(2003)の事例でみられた飼い主の終末期の在宅医療志向も、その背景には、飼い主がペットの死を看取るということが、飼い主の納得につながるという点が関係しているのではないだろうか。

また、ペットロスとの関連についてみてみると、ペットの最期を自宅で迎えようとするのは、ペットの死に対する受け入れがたさや罪悪感、後悔など、ペットロスにおける悲嘆反応を軽減するためであると考えられる。最も幸せな死というものを演出することで「ペットは幸せな人生だった」と思えるようになり、ペットの死を納得することに繋がる。また、ペットの死を目の前で看取ることで「ペットは死んだ」という事実を自分の中で受け入れやすくなる一つのきっかけとしても重要だと考える。このように、亡くなる前に身体を綺麗にする、家族に囲まれて息を引き取るなど、より人間に近い看取りを行うことがペットを亡くした飼い主の精神的ストレスを減らす大きな要因になるのである。また、在宅の看取りの他にも第1節で述べたような動物病院での取り組みは、いずれもペットの死によって飼い主の抱えるであろうストレスを軽減させるためのものであり、ペットロスに対する事前対策としてもとれる。以上から、ペットロスの対策は、ペットが亡くなる前から行われており、飼い主のペットの死に対する悲嘆反応を軽減することに努めていることが分かった。

 

 

2節 ペットとの死別後

5章の分析では、主にペットとの死別後について分析した。まず、第1節で述べたペットロスにおける段階論という概念がどのように捉えられているかについて考察していく。段階論について、得丸(2010)でも、「悲嘆プロセスでの第一段階」などの記述があり、坂川さんも講演会で段階論を紹介するなど、ペットロスにおいて段階論は一般的に適用されているといえる。しかし、坂川さんは段階論通りに行かない場合もあると述べており、木村(2009)でも安易に適用すべきではないとしていることから、段階論については両極端な評価がみられる。以上をふまえ、本稿では、段階論は分かりやすい一般論として用いられているだけで、実際に当事者にはあまり用いられない概念ではないかと考える。段階論では、ペットロスは最終的に治る段階に至るものとされているが、塚崎さんはペットロスは治らないとしていることから、ペットロスを段階論とは異なる意味で捉えていることが分かる。よって、悲嘆の段階論は実際にペットロスを経験した飼い主にとっては、必要とされない枠組みであると考える。

郷(2006)は、ペットロスへの個々人の対応において鍵を握るのが「他者」であることを事例をもとに説得的に論じている。ただし、そこでは、他者との関わりは直接的な会話ではなく、ペット供養の場で同じような絆を持つ行動をすることで、他者とペットに対する思い出を共有できることとされている。しかし、本稿で取り上げた事例は郷とは違ったやり方で他者と思い出を共有していた。第3節での自分の思いをなんらかの形にして表現することもその一環であると考えられる。おおぞらで行われていたお参り日誌やスケッチブックはお参りに来た人が自由に閲覧できるようになっているため、それを閲覧し、他者が何を感じているかを知ることで他者と関わりを持つことができると考えられる。先行研究の事例と似て、直接的な対話ではないが、やはり同じ思いを持つ他者との関わりをもち、ペットの死を嘆いているのが自分だけではないと思えることでペットロスの症状を和らげることができるのではないだろうか。そして、第4節で述べたように、直接他者と会話して思い出を共有する事例もみられた。他者と会話することで、生前のペットと過ごした楽しい思い出を想起することでペットの死という悲しい思い出を塗り替えるのである。そのことによって、ペットの死の悲嘆だけを抱えるということはなくなり、飼い主の精神的なストレスを軽減できると考えられる。お参り日誌やスケッチブック、手紙を書くなどの「表現する」という行為も、楽しい思い出を想起するという利点を持つことは一致していると思われる。また、事例から塚崎さんや塚崎さんのブースに訪れる人々のように、他者と直接対話して思いを共有したいという人物は一定数おり、お参りの場を通して間接的に思いを共有する方法とは違い、具体的な他者とのコミュニケーションもペットロスを軽減するうえで需要が高まってきているのではないだろうか。

 

 

3節 まとめ

 以上の考察をふまえて、死別体験のいずれの局面でもペットの死をめぐる営みは人間の死をめぐる営みにますます近づいてきている部分があることが分かる。第4章、第5章の2つの局面のいずれも飼い主に対する細やかなケアがみられたのがその証左である。しかし、ペットには、「モノとしてのペット」と「家族としてのペット」の両義性がある。そして、ペットに後者の意義を見出している飼い主のペットの死による孤独感や理解され難さは本稿での事例でも見られ、今後も続いていくと予想される。よって、動物病院や、ペット葬儀社などの、ペットとの死別体験のプロセスに密接に関わるサービスにおいて、飼い主に対する繊細な精神的なケア産業の需要が一層高まっていくと思われる。また、今回の塚崎さんの事例のように、ペットロスを経験した飼い主自身が他のペットロス経験者とつながり、お互いに精神的な負担を減らすような取り組みも今後需要の増加がみられるのではないだろうか。

なお、本研究では限られた事例を元に分析しており、今後他の事例を調べていく必要がある。