2章 先行研究

 

 

1節 終末期のペットの治療

西谷ら(2003)では、終末期の在宅医療を希望する飼い主の気持ちと、終末期の在宅医療における動物看護士の役割について記述されている。調査方法は在宅医療中の飼い主にインタビュー調査を行っている。西谷らは、インタビューを受けた飼い主が、愛犬が頸部のリンパ腫であることを告知されても比較的冷静であったことの要因として、飼い主自身に過去に愛犬との死別の経験があることや、そのような経験をもつ飼い主とのコミュニティを形成していたということなどがある、と述べている。そして、飼い主が在宅医療を選んだ理由について、飼い主宅に一緒に見守ってくれる飼い主仲間の存在がいたことが一因となっていると述べており、終末期の在宅医療について、ペットの死に対する情報収集と、精神的支えになるような人の存在が重要であると考えている。また、終末期のペットをもつ飼い主は医療者のいない状態で家で過ごすことに大きな不安を抱えることにも言及している。調査対象の事例では、動物看護士の定期的な往診と連絡を行っていたおかげで飼い主の不安が軽減されたとしており、動物看護士は、飼い主の不安を軽減することを看護目標として、動物看護の計画を具体的に立案して実施していくことが大事だと述べている。

 

 

2節 ペットロスの悲嘆

ペットロスの悲嘆について主に心理学的な見地から先行研究ではどのよう述べられているのかまとめてみた。まず、木村(2009)では、ペットロスに伴う悲嘆反応とその支援についての基本概念について述べている。ペットロスに伴う悲嘆反応として、喪失を受容するに至る過程の中で、落ち着かない、集中できない、悲観的、不安、すぐにパニックに陥る、孤独感が強い、悪夢を見る、死んだはずの動物が見える、などの症状がみられる。また、身体症状としては、睡眠障害、すぐに涙が出る、めまい、消化器症状、食欲異常、頭痛、肩こり、難聴、腰痛、じんましんなどが見られる。支援については欧米の例をとりあげており、精神科医やカウンセラーなどの介入、各地にボランティアとして電話相談も設けられていると述べている。

次に、ペットロスの特異性についても言及している。ペットロスは典型的な対象喪失であり、多くの場合は親しい人物を亡くした時と同じプロセスを辿るといわれ、喪失による悲嘆を受容するまでには「否認・怒り・交渉・抑うつ」のキュブラー・ロスの理論が適用されることが多いが、木村は安易にこれを適用すべきではないとも述べている。また、ペットロスにおいては、親しい人とは違い、飼い主はペットを管理する立場であるから、その死に過度な責任を感じることがあり、ペットロスには罪悪感が伴うとしている。そして、「たかが動物の死」という自分自身の意識や他人の言葉によって、対象喪失による悲嘆を事実として認識することを妨げ、悲嘆の作業が正常に進まないと推測している。また、悲嘆の作業が進まない要因として、人の死に比べて、亡くなった後の喪の作業を行うための枠組みが整っていないことも影響しているのではないかと考察していた。

以上をふまえたうえで、木村は今後の日本におけるペットロスの展望について、次のように主張する。ペットに受けさせた治療の選択の是非や社会との認識の相違に悩むという構図は海外と変わらない。しかし、安楽死が一般的ではなかったり、文化的背景が異なったりするので、それぞれの文化に適した支援のあり方を検討していく必要がある。

得丸(2010)は、人生観の違いによってペットロスやペット葬についての考えが違うのかどうか大学生を対象にアンケート調査を行った。心理累計として、因子分析によって導き出した、「共同努力型人生観」「多彩型人生観」「信仰型人生観」「金銭重視型人生観」の4因子を用いている。結果として、「共同努力型人生観」が最もペットロスに陥りやすく、「金銭重視型人生観」がペット葬に反対であった。「共同努力型人生観」の人々がペットロスに陥りやすいのは、努力してかわいがっていたペットが亡くなった際にその責任を自分自身に向けて自分を責め、喪失感や責任が大きくなるからではないかと得丸は考えている。また、「金銭重視型人生観」がペット葬に反対なのは、「お金がかかる」「ペットを擬人化して扱うのはおかしい」と考えている人が多いからである。しかし、単に「お金がかかる」という理由で反対の人は、自宅に埋葬するなど、ペット葬を行うこと自体には賛成の傾向が多い。また、得丸は、ペット葬はペットロスに理解の薄い人には「感傷に陥っている」ととられるかもしれないが、悲嘆プロセスにおける第一段階の「おもいきり悲しむ」という点で、感傷を乗り越える、ペットロスを重篤化させないために重要な機会だと考えている。また、ペット喪失の悲嘆を乗り越えた契機については、「時間の経過」が最多であり、他には「ペットについての知識、ペットロスについてあらかじめ勉強しておく、心の準備をしておく」などの回答も得ており、ペットロスの事前学習の重要性も述べている。

 

 

3節 実際にペットロスを経験した飼い主について

新島(2006)は、「家族同様」といわれるペットを亡くした飼い主(以下元飼い主)の事例を取り上げ、元飼い主が自分の中で亡きペットの存在をどのように捉え、葛藤を感じる場合にはどのような折り合いをつけるのか、各年代の男女のべ104名のインタビュー調査をもとに分析した。その結果、亡きペットの存在感について、真摯に再考し、言語化することで、ペットの死に折り合いをつけようとする元飼い主たちの語りの中では、ペットの存在感は多義的で可変的であった。「家族同様」と言いつつも、時には、「家族」とはかけはなれた、ペットと飼い主の対等の関係ではない側面や、ペット独自のモノ・商品としての側面も顕在化していたのである。そして、そのペットの存在感の解釈において、ペットの死はさまざまな正当化がなされ、時には肯定さえされている。これは、ペットの存在感を自分なりに解釈することによって喪失体験のつらさを対自的に正当化し、ペットの死を受け入れようとしているからであると新島は述べている。また、こうした独自の解釈を自己の内部に構築することで、周囲の他者とのコミュニケーション不全、他者のペット喪失体験による無理解を乗り越えようとする例も見られる。

また、郷(2006)はペット葬儀を挙げ、その後も供養している家族にインタビューを行い、家族がどのようにペットを失った悲しみにどのように対処しているのかという問いに対して「伝統的な悲嘆モデル」と「絆の継続モデル」という2つの理論に着目しながら検討した。そこで用いられるのが「悲しみの語り」と「絆の語り」という概念であった。家族がどちらを語るのかを考察することによって、ペット供養に関するふたつの特徴的な面が見えた。ひとつは、ペットが亡くなってからも、新しい存在として家族とペットとの関係は継続されていることである。納骨堂という新たなペットの居場所を作り、そこにお参りにいく、つまり会いに行くという形でペットとの間に発展的な関係を作り上げ、「絆の実践」を行っていると郷は分析している。もうひとつは「伝統的な悲嘆モデル」と「絆の継続モデル」は対立するのではなく、共存しているという点である。調査では、「絆の継続モデル」を用いてペットロスの対処している家族が多い結果となっているが、その中にも「悲嘆モデル」を用いている家族もいる。つまり、「絆の語り」と「悲しみの語り」は同一人物の語りの中で共存しうる。

そして郷は、ペット葬儀の場がペットとの思い出を共有したかのような感覚を味わえる他者を供給する場となっていると考えている。お参りに来た際、家族は思い思いの時間を過ごし、他の家族との会話もほとんど行われてはいないが、絆を持つ行動が共通している。供養の場で同じような行動をとること、つまり絆の持ち方を共有することによって、他の人も同じ思いだということを認識すると述べている。それは家族で来ている人は家族の中で行われ、同伴する家族が不在である場合は自分の中にある思いを受け止めてくれる他の誰かが必要である。ペットロスの問題点は理解してくれる「他者」の不在であったが、ペットロスを乗り越える効果的な方法はこうした「他者」の存在なのである。ペット供養はこうした大きな役割を担った場と言えると考えている。

 

 

4節 まとめと研究の着眼点

まず、先述した先行研究についてまとめていきたい。第1節では、ペットの終末期治療について取り上げた。西谷ら(2003)は特に終末期の在宅医療に焦点を当て、そのような治療を望む飼い主の背景要因として、過去の愛犬との死別体験や飼い主同士のコミュニティの有無を挙げている。しかし、その他にも終末期を在宅で過ごす背景要因があるのではないだろうか。また、終末期治療自体が、ペットロスとの関連があると思われる。

次に第2節では、ペットロスの悲嘆症状や、特異性について取り上げた。その中でも特筆すべきなのは、ペットロスの段階論についてである。木村(2009)はペットロスによる悲嘆の受容は、一般的にはキュブラー・ロスの理論のような段階論が適用されているとしている。得丸(2010)もペットロスには第一段階の「思い切り悲しむ」が必要だとしており、悲嘆プロセスを適用している。しかし、木村は段階論を安易に適用すべきではないとも述べている。このことから、段階論という概念をペットロスに適用すべきなのか、また、実際にペットロスを経験した飼い主たちからはどのように捉えられているのかという疑問が浮かんでくる。

最後に、第3節では、実際にペットロスを経験した飼い主の事例を取り上げた。そこでみられた特異性が、他者との関係である。第1章でも述べたように、ペットロスは亡くなるのが動物であることから、その悲嘆を他者と共有しづらいという点がみられる。新島(2006)の事例では、周囲の他者とのコミュニケーション不全を乗り越えるため、ペットの多様な存在解釈を通して、ペットの死に折り合いをつけようとしていた。対して郷(2006)の事例では、会話は行わずとも、同じ供養場で同じ絆を持つ行動をすることによって、他者と自分が同じ思いを共有していると感じていた。このことから、思いを共有してくれる他者の存在はペットロスを経験した飼い主にとって大きな存在であるのは確かだが、他にどのような他者との関わりがみられるのだろうか。

以上の先行研究をもとにして、本稿では2つの局面に照準を絞って考察していく。

一つはペットを看取るまでについてである。第1節では、終末期の在宅医療について記述されているが、自宅でペットを看取るという行為が重要視されるのはなぜだろうか。また、ペットロスとはどのような関係があるのだろうか。本稿の事例をもとに、ペットの終末期治療はどのようなあり方をしているのかを分析していく。

そして、もう一つは、ペットとの死別後についてである。第3節で述べたように、思い出の共有など、なんらかの機能を果たすと考えられる他者との関わりは、本稿の事例においてはどのようなものに見えるか。また、第2節で触れたペットロスの悲嘆の段階論にみられるような受容や乗り越えといった言葉や概念は、どのように捉えられているのかも合わせて分析していきたい。

以上のように、本稿では「ペットを看取るまで」と「ペットとの死別後」の2つの局面を分析し、現代社会におけるペットロスをめぐる動向を事例から仮説的に導くことを目的とする。