第六章 考察

第一節 先行研究との違い

 実際のいじりにおいて、「不本意ないじり」と「快適ないじり」の二種類があり、いじられる側はいじりを区別していることがわかった。「不本意ないじり」においては、いじられる側が「いじられてたってゆうよりは、ほとんどいじめられてた」と表現していた。このことからいじられる側がいじりといじめを同一視しているといえる。そのため、いじりをいじめの前段階としていた先行研究に当てはまっている。しかし「快適ないじり」においては、いじられる側が「楽しかった」「嫌じゃなかった」と表現していた。この表現から、いじられる側がいじりで行われるやりとりを楽しんでいるといえる。この「快適ないじり」がいじめに結び付くとは考えにくい。そのため、先行研究で述べられているいじりにはうまく当てはまらない。つまり先行研究で述べられているいじりは一面的であり、「不本意ないじり」についてばかりが言及されている。しかし実際のいじりにおいては「不本意ないじり」ばかりではなく、「快適ないじり」が存在している。

 では「不本意ないじり」と「快適ないじり」とは、どこが異なっているのだろうか。第四章第三節での分析で、「不本意ないじり」には三つの特徴があることがわかった。それは「いじりの開始には、いじられる側の意思が無視されること」「いじられる側が止めてほしいと伝えても、いじりは止まらないこと」「いじりが行われている間は、いじる側といじられる側の立場が入れ替わらないこと」が挙げられた。

 まず一つ目の「いじりの開始時点で、いじられる側の意見が無視されること」は、いじられる側がいじりに主体となって参加できていないためだと考えられる。その場で行われているコミュニケーションに主体となって参加することができないため、いじられる側の意思がコミュニケーションの開始に影響を及ぼすことがないのではないだろうか。

 次に二つ目の「いじられる側が止めてほしいと伝えても、いじりは止まらないこと」は、いじる側がいじられる側に対して、「いじられキャラ」として振る舞う役割だけを求めているためだと考えられる。いじる側は、いじられる側がいじりに関するリアクションしかとらないと思っている。そのためいじられる側が本心から止めてほしいと思い、その旨を伝えたとしても、いじる側はいじりに対してのリアクションであり、いじられる側が本心から言っているわけではないと捉える。そのためいじられる側が止めてほしいと伝えても、いじりが止まることはないのではないだろうか。

 最後に三つ目の「いじりが行われている間は、いじる側といじられる側の立場が入れ替わらないこと」もまた、いじる側がいじられる側に対して「いじられキャラ」として振る舞うことだけを求めているためだと考えられる。いじられる側は「いじられキャラ」として振る舞うことだけを求められているために、いじりが行われるときは常にいじられる立場となってしまうのではないだろうか。

 これらの特徴から「不本意ないじり」において必要とされているのは、「いじられキャラ」の人物ということが読み取れる。つまり必要とされた時に「いじられキャラ」として振る舞うことができればいいので、この条件を満たす人物であれば誰でもいいということである。これではいじられる側は、「いじられキャラ」であれば誰でもよく、自分自身が必要とされてるわけではないと感じることになる。

 一方「快適ないじり」ではどうだろうか。「不本意ないじり」と比べて「快適ないじり」では、「いじりの開始にはいじられる側の精神状態が重視されていること」「いじられる側が止めてほしいと伝えると、いじる側はそのいじりを止めること」「いじりが行われている間、いじる側といじられる側の立場が容易に入れ替わること」が、第四章第四節での分析からわかった。

 まず一つ目の「いじりの開始には、いじられる側の精神状態が重視されていること」から、いじられる側が主体的にコミュニケーションの参加していることがわかる。いじられる側の意思が、コミュニケーションの開始に影響を及ぼしている。このことから「不本意ないじり」とは異なり、いじられる側が主体となってコミュニケーションに参加していることがわかる。

 次に二つ目の「いじられる側が止めてほしいと伝えると、いじる側はそのいじりを止めること」は、いじる側がいじられる側に対して、「いじられキャラ」としての振る舞いだけを求めているわけではないことがわかる。いじられる側がいじりに対してのリアクションで「止めて」と言う場合と、本心から「止めてほしい」と言う場合とがあったが、いじる側は二つの場合をほぼ正確に見分けている。これはいじられる側をそのいじりで不快な気分にさせないよう、いじる側が常に意識しているために、発言の意図を見分けることができるのではないだろうか。

 最後に三つ目の「いじりが行われている間、いじる側といじられる側の立場が容易に入れ替わること」からも、いじる側がいじられる側に対して、「いじられキャラ」としての振る舞いだけを求めているわけではないことがわかる。いじられる側に対して「いじられキャラ」としての振る舞いだけを求めているならば、「不本意ないじり」のように、いじる側といじられる側の立場が入れ替わらないはずである。そのためいじる側はいじられる側に対して、「いじられキャラ」としての振る舞いだけを求めているわけではないといえる。

 そのため「快適ないじり」では、状況において機能する「キャラ」役割以上のものが求められていることが読み取れる。いじりはコミュニケーションの一つでしかなく、いじりが行われない時であっても、状況において機能する「キャラ」役割以上のものが必要とされるということである。そのためいじられる側は、自分は必要とされていると感じることができる。

 いじられる側にとって、「いじられキャラ」として振舞う役割のみが必要とされるいじりは「不本意ないじり」、「いじられキャラ」として振舞う役割以上のものが必要とされるいじりは「快適ないじり」と区別している。「いじられキャラ」ではなく、「いじられキャラ」として振舞う役割以上のものを必要とされるいじりであれば、若者はいじりによって自分の存在を相手に認めてもらえることにつながる。したがって若者は、「快適ないじり」によって自己承認欲求を満たそうとしているといえるのではないだろうか。

 

第二節 二種類の「いじられキャラ」としての振舞い方

 もう一点、先行研究と実際の「いじられキャラ」が異なっている点がある。先行研究では「いじられキャラ」は、いじりを断ち切ることができないとされていた。それは「いじられキャラ」が持つ演技性によるものである。「いじられキャラ」としての演技をすることで自己肯定感を得るため、いじりを断ち切ることができないとされていた。しかし実際の「いじられキャラ」の全員がいじりを断ち切れないわけではなかった。一部の人だけではあるものの「不本意ないじり」を自力で断ち切ることができたのである。

 では実際の「いじられキャラ」において、「不本意ないじり」を断ち切れる人とそうでない人との違いは何なのであろうか。それは演技意識の違いであった。第五章第二節の分析から、「不本意ないじり」を断ち切れない人は、「いじられキャラ」としての演技の意識が低い。一方「不本意ないじり」を断ち切れる人は、「いじられキャラ」としての演技の意識が高いことがわかった。「いじられキャラ」としての演技の意識が低いAさんCさんは、「不本意ないじり」を受けてもただ耐えることしかできなかった。我慢の限界を超えたいじりに対しては断ち切ろうと行動していたものの、それは全体のうちのほんの一部にすぎず、自力で「不本意ないじり」を完全に断ち切ったとはいえない。しかし「いじられキャラ」としての演技意識を強く感じているBさんは、「不本意ないじり」を受けないために自分をいじってくる相手を選別し、自分をいじっても良いと判断した相手の前だけで「いじられキャラ」としての演技を行っていた。

つまり演技の意識が低い人は、「不本意ないじり」を基本的に耐えるため、いじりに対して受動的である。そのため、自分をいじってほしくないと思う相手からもいじりを受ける。演技の意識が低い人は、誰に対しても「いじられキャラ」として振舞っている。常に「いじられキャラ」として振舞っているために、意識しなくても「いじられキャラ」としての振舞いができるようになり、自分が「いじられキャラ」としての演技をしているという意識が低くなるのではないだろうか。また相手からいじられなくてはいじりが開始しないという点から、いじりに対して受動的であるといえる。しかし演技の意識が高い人は、「不本意ないじり」を断ち切ろうと行動するため、いじりに対して能動的である。そのため、自分が認めた相手からのみいじりを受ける。演技の意識が高い人は、自分が認めた相手の前でのみ「いじられキャラ」として振舞っている。「いじられキャラ」としての演技をする時とそうでない時とを切り替えているため、「いじられキャラ」としての演技をしていると強く感じるのではないだろうか。また相手からいじられるだけでなく、自ら行動することによっていじりが開始することもあるため、いじりに対して能動的であるといえる。

 

第三節 それぞれの「いじられキャラ」がいじりに求めるもの        

 第二節で「いじられキャラ」には、演技意識の高い人と低い人がいることがわかった。しかし第一節で、若者は自己承認欲求を満たすために「いじられキャラ」としての演技をすることがわかった。なぜ自己承認欲求を満たすためという同じ目的であるにもかかわらず、演技意識の高い人と低い人とがいるのだろうか。それは自己承認欲求を満たすための到達目標が、異なっているためである。第五章第三節での分析より、演技の意識が低い人は、いじりを場を盛り上げるための手段と捉えていることがわかった。「楽しい席で盛り上がるんだったら、そっちの(いじられる)方がいいじゃん」という発言から、いじりによって場が盛り上がることを重要視していることがわかる。このことから演技の意識が低い人にとって、いじりで場が盛り上がることが自己承認欲求を満たすための到達目標であると考えられる。一方演技の意識が高い人は、いじりを相手と会話をするための手段と捉えていることがわかった。一見演技の意識が低い人と違いがないように感じるが、Bさんは特に親しい相手に対して「いじるとかいじらないとか、そうゆう関係じゃなくて。普通の友達な感じ」と表現していることから、いじりはそこまで親しくない相手と会話をするための手段であることがわかる。おそらくBさんは、まず「不本意ないじり」をしてくる人を親しい友人から除外したうえで、親しい友人との関係においては「いじられキャラ」としての振舞いを積極的に行いコミュニケーションを重ねた。その結果いじりを必ずしも伴わない関係まで、関係を成熟させようとしているのではないか。すると演技の意識が高い人にとって、「いじられキャラ」としての演技が必要とされない関係が、自己承認欲求を満たすための到達目標と考えられる。

つまり演技の意識が低い人は、いじりが行われること自体が到達目標であるのに対し、演技の意識が高い人は「いじられキャラ」の演技をしなくてもよい関係が到達目標である。そのため演技の意識が高い人にとって、いじりは到達目標に至るための手段にすぎないのである。

 

第四節 まとめ

 先行研究では、いじりはいじめの契機を含有しており、「いじられキャラ」はいじりを甘受し続けなくてはならないため、いじりをいじめの前段階としていた。しかし実際のいじりでは、そうは言い切れない。確かに実際のいじりにおいても、いじめと同一視されている「不本意ないじり」があるため、いじりがいじめに発展する可能性は否定しきれない。しかし全てのいじりがいじめに発展するわけではない。いじる側がいじられる側に配慮を行う「快適ないじり」があるためである。いじられる側は「快適ないじり」に対して楽しいや嬉しいといった肯定的な感情を抱いており、「快適ないじり」をいじめと同一視していなかった。そのため実際のいじりは、必ずしもいじめの前段階となっているわけではないといえる。

 実際のいじりは必ずしもいじめの前段階となってはいないとしたものの、「不本意ないじり」はいじめと同一視されていた。先行研究では「いじられキャラ」はいじりを甘受することしかできないためにいじめにつながるとされていたが、「不本意ないじり」を受けた場合でも同じことがいえるのであろうか。今回の調査ではAさんCさんは「不本意ないじり」を基本的に甘受し、進学といった外的要因で「不本意ないじり」を断ち切っているため、先行研究に当てはまっているといえる。しかしBさんは進学を待たずして、「不本意ないじり」を断ち切ることに成功している。それは相手の選別という方法をとったためである。「不本意ないじり」をしてくる相手との接触機会を減らし、そのような相手に対しては「いじられキャラ」としての振舞いをしていない。そうすることで「不本意ないじり」の発生を未然に防ごうとしている。そのため一部の人だけではあるものの、いじられる側が「不本意ないじり」を甘受することなく、断ち切ることができるといえる。

 ではなぜBさんは自力で「不本意ないじり」を断ち切ることができたのであろうか。それはAさんCさんとBさんでは、いじりの捉え方が異なっていたためである。三人とも「いじられキャラ」として振舞うのは、自己承認欲求を満たすためという点では共通していた。しかし自己承認欲求を満たすための到達目標が、AさんCさんは場を盛り上げるために「いじられキャラ」としていじられることであるのに対し、Bさんは「いじられキャラ」として振舞わなくてもよい関係になることであった。そのためAさんCさんは「不本意ないじり」であっても、いじられることが「いじられキャラ」として振舞う到達目標であるため、甘受しようとする。一方Bさんは、「いじられキャラ」として振舞わなくてもよい成熟した関係になることが到達目標であるため、「不本意ないじり」をしてくる相手とはそのような関係になれないと判断し、選別をする。そのためAさんCさんは「不本意ないじり」を甘受しようとするが、Bさんは「不本意ないじり」を断ち切ることができるのではないだろうか。

 今回の調査では「いじられキャラ」としての振舞いを、相手との信頼関係を築いていくための手段として捉えている若者がいることがわかった。そのような若者は、自分の意志で「いじられキャラ」としての振舞いを止め、「不本意ないじり」を止めさせることができる。これまでの研究ではそのような若者に対して焦点が当てられていないため、今後も追及していく必要があると考えられる。