第二章 先行研究

第一節 「キャラ化」が生まれた理由

 「いじられキャラ」について取り上げる前に、その前提となるキャラを用いたコミュニケーション(キャラ化)について整理をする。

 土井(2009)はキャラ化が生まれた要因として、「価値観の多元化」を挙げている。価値観の多元化とは、一人一人が異なる価値観を持つことである。かつて若者の間では大きく分けて二つの文化が共有されていた。それは画一的な道徳規範を押し付ける学校文化の圧力が強力であったためである。若者の間でその道徳規範に従う文化と、抵抗しようとする文化が生まれ、どちらか一方の文化を自分の価値観としていた。若者は自身が共有する文化に従う行動をとることで、同じ文化を共有する仲間から肯定的な評価を得ることができた。つまりかつては人間評価の基準が明瞭で、自分が共有する文化に従った行動さえとっていれば、他者から肯定的な評価を得て、自らの肯定感を保持することができた。

 しかし1980年代半ばあたりから「個性の重視」という教育理念の登場により、学校文化は画一性よりむしろ多様性を奨励するようになった。そのため若者の間で特定の文化が共有されることはなくなり、一人一人が異なる価値観を持つようになった。これが「価値観の多元化」である。しかしいくら価値観が多元化したからといって、全ての価値観が肯定的な評価を受けるわけではない。肯定的な評価を得るためには、周囲の人の期待に沿うものでなくてはならない、という前提が存在している。しかし価値観が異なるために、期待する行動が人によって異なり、以前と比べて人間評価の基準が不明瞭となった。

 つまり、かつての若者は共有されている文化に従えば、同じ文化を共有する仲間から肯定的な評価を得ることができ、自己肯定感を安定して得ることができた。しかし現代の若者は一人一人が異なる文化を持っているため、自分の持つ文化に従った行動をとっても、相手から肯定的な評価が得られない可能性が生じたのである。安定して自己肯定感を得るためには、自分とは異なる文化を持つ相手から肯定的な評価を得られているか、その都度確認する必要がでてきた。そのため現在の若者は昔に比べて、具体的な他者とコミュニケーションをとることに強く執着するようにするようになった、と土井は述べている。

 「価値観の多元化」は、現在の若者のコミュニケーションのあり方にいくつもの変化をもたらした。一つ目は「日常生活の狭小化」である。似た価値観を持つ同質の人間とだけコミュニケーションをとろうとし、自分とは大きく異なる価値観を持つ異質な人間を、認知対象の圏外へと押し出そうとすることを指す。グループ内部だけで人間関係が完結してしまっているために、たとえ同じクラスの人間であったとしても、グループが違えば別の世界の人間と認識し、関わることが無いということである。

 二つ目は「キャラ化」である。土井はキャラを、断片的な要素を寄せ集めた自らの人格イメージと定義している。その中で対人関係に応じて意図的に演じられる「外キャラ」と、社会生活の中で変化することのない生来的な「内キャラ」という概念を主張している。「キャラ化」とは若者が「外キャラ」を用いて、自分が持っている価値観を極めて単純に表現することで、自分と異なる価値観を持つ相手と円滑にコミュニケーションをとろうとすることである。

 「価値観の多元化」に伴い、相手が肯定的な評価を下す基準が不明瞭となった。そのため肯定的な評価を安定して得られるように、「日常生活の狭小化」によって自分と似た価値観を持つ同質な人間とのみ結びつこうとする。「キャラ化」によって極めて単純な自分の価値観、または自分との関わり方を相手に伝えようとする。そのどちらも、具体的な他者から肯定的な評価を受けなくては、自己肯定感を得ることができない若者が、安定して自己肯定感を得る基盤を作るためのコミュニケーションの手段であると土井は述べている。

 

第二節 いじりとは何か

 土井・斉藤(2012)は「いじりタイプの共依存的ないじめについて」と、「いじめの加害者に対する日本の対策について」の二点を中心テーマとして対談を行った。その中で中井(1997)の、傍目からはいじめが見えない状態にいじめ関係を形成しようとする「いじめの透明化」という主張が取り上げられた。斉藤は、透明化されたいじめにはある種の共依存関係が存在していると述べている。いじめる/いじめられるという関係に両者ともが依存しているため、被害者は加害者から離れることができず、加害者も一種のノリのような空気のもと、被害者をいじめ続けざるを得ない状況になる。そして斉藤は、そのような共依存的ないじめをいじりと主張している。 

土井も斉藤と同じ見解を示しており、「人間関係の自由化」が共依存関係に陥る原因であると主張している。人間関係の自由化とは、クラス等の同じ枠組みに所属していても、気の合わない相手とは無理に付き合おうとせず、付き合う相手を自由に選ぼうとすることである。自分が相手と付き合うかどうかを自由に選べるようになったということは、裏を返せば相手が自分とは付き合わないという選択をする可能性が生まれたということである。また自分と付き合うという選択を誰からもされず、誰とも人間関係を築くことができない可能性も否定することができない。いじめる側もいじめられる側も、現在あるいじめ関係すら失ってしまうと、誰とも人間関係を築くことができない可能性がある。そうすれば自己肯定の基盤が完全になくなってしまうことになる。そのためいじめという不本意な関係であったとしても、その関係を継続させようと考え、行動する。つまりいじめる側もいじめられる側も、自己肯定の基盤を失わないために、現在ある人間関係に強く執着をするようになり、共依存関係に陥ってしまっていると述べている。

 なお、「人間関係の自由化」や、第一節で取り上げた「日常生活の狭小化」などについては、本当に現在の若者特有の現象であるのかという点で疑問が生じる。そのため本稿ではこの主張の是非については保留する。

 

第三節 いじりがいじめにつながる理由

向井(2010)は、『いじめの社会理論――その生態学的秩序と生成と解体』(内藤,2001)という文献の解読を行った。そのうえで、いじめが発生する理由の解明を目的として、集団においてどのような人間関係がいじめを生み出すのかを、キャラという概念を軸に、「いじりという名のいじめ」を用いて論じようとした。

 キャラを前提といたコミュニケーションが広まった理由として、具体的な他者との関係に強く執着する若者にとって、外キャラは都合がよいものであったため、という土井(2009)の主張を引用している。土井の外キャラという概念を基に、向井はキャラを表面的な役割演技と定義し、予定調和的な人間関係の維持に効果的であるとした。予定調和的な人間関係では常に同じ展開のやりとりを繰り返すため、ある特定の役割を演じてさえいれば、人間関係を円滑に維持することができる。そのため他者との安定したつながりを求める若者にとって、単純な役割演技であるキャラは、都合のよいものといえるのだ。

 こうしたキャラを用いたコミュニケーションが日常化する中で、他者からいじられる役割を期待される「いじられキャラ」が生まれた。一見するといじめを受けている人にも、この「いじられキャラ」の定義は当てはまっているように感じられる。しかし向井は、いじりはいじめの契機を含有したコミュニケーションではあるものの、いじりといじめは似て非なるものであると述べている。それはいじりという行為の中に、仲間意識が存在しているためである。いじめにおいてはいじめる側といじめられる側は仲間ではなく、いじめる側の間でのみ仲間意識が存在している。しかしいじりにおいては、いじる側といじられる側の間に仲間意識が存在していることが前提となっている。いじりには仲間意識があるため、「いじられキャラ」の人はいじられることで仲間の一員としての自覚を持ち、自己肯定感を得ることができる。しかし「いじられキャラ」であるがゆえに、いじめの契機を含んだコミュニケーションであっても、自ら進んで甘受し続けなくてはならない。

 これはいじられる側だけでなく、いじる側にもあてはまる。いじる側も他者から、いじられる側をいじる役割を期待されているため、「いじられキャラ」をいじり続けなくてはならない。つまり自分の期待された役割を演じることで自己肯定感を得ているのは、いじる側もいじられる側も同じということである。

 いじる側もいじられる側もいじりによって自己肯定感を得るが、そのいじりが終わってしまえば自己肯定感を得ることができなくなってしまう。そのため次のいじりを行うことで、再び自己肯定感を得ようとする。このいじりの連鎖が「いじりという名のいじめ」である。そのため「いじりという名のいじめ」は、いじる側いじられる側の両者ともが、自己肯定感を得続けようとする心理が原因となって発生すると向井は主張している。

 

第四節 まとめ

これまでの先行研究で述べられていることをまとめると、いじりはいじめの前段階と捉えられているといえる。価値観の多元化に伴い、若者は自己肯定感を具体的な他者からの承認によって得るようになった。その中で人間関係を円滑に維持するための手段として、「いじられキャラ」が生まれた。「いじられキャラ」の演技をして人間関係を築いた以上、常にいじりを受け続けなくてはならない状況を自ら作り出すこととなる。本当は嫌だと感じていてもいじりを受け続けなくてはならない状況が、結果として従来のいじめと同じ構図となり、いじりという名のいじめが発生するようになった。つまりいじりがいじめの前段階と捉えられているのは、「いじられキャラ」などのキャラを用いたコミュニケーションが持つ、演技性や予定調和といった特性が原因となっているといえる。

 「いじられキャラ」としての演技の強要は『りはめより100倍恐ろしい』においても、「いじられキャラ」の特徴として挙げられていた。先行研究も小説も、いじりといじめを異なる行為と認識しているものの、その境界は仲間意識の有無という主観に基づいており、非常に曖昧である。そのためいじりがエスカレートして、いつの間にかいじめへと発展していくととらえられているのである。つまり「いじられキャラ」を避けられるべき負の烙印として捉えている点で共通している。