第五章 調査(2) itonaに関わる女性達

 

編集長の明石あおいさんに加え、itonaの執筆を行っている2人の女性にも、今回インタビュー調査を行った。その結果を報告する。

 

第一節     釋永陽さんの語り

 一人目は、陶芸家であり、立山町のitona女子である釋永陽さんである。調査の詳細は、以下にまとめておく。

 

調査対象者:陶芸家 釋永陽さん

日時:20151119 1300

場所:越中瀬戸焼 庄楽窯(富山県新川郡立山町上末51番地)

                                                                                                              

第一項 釋永陽さんに関して

 まず初めに、釋永さん自身のことを、itonaに収録してあるプロフィールを引用しながら紹介したい。1976年、釋永さんは、富山県立山町に生まれる。職業は、立山町の新瀬戸地区に420年前に起こった、「越中瀬戸焼」に携わる陶芸家。京都で陶芸技術を学んだ後、立山町にUターンする。その後、実家である庄楽窯の愛犬・文太郎の暮らす工房で作陶しており、2001年より個展活動を開始する。越中瀬戸焼の4窯元、5人の陶芸家で結成した「かなくれ会」のメンバーとして越中瀬戸焼の質向上のみならず、立山町の魅力発信にも力を注いでいる。2014年に第一子を出産し、現在は子育てに奮闘中。

 ここで、釋永さんが所属しているかなくれ会についてもまとめる。かなくれ会は、立山町新瀬戸地区で作陶に取り組む4軒の窯元、5人の陶芸家により、201110月に結成した。「かなくれ」という言葉は、地域の方言で陶片を指している。新瀬戸地区にある越中陶の里「陶農館」を拠点に、陶芸の魅力を外に発信するため、様々な催しを5人協働で行っている。催しは、かなくれ会陶芸展、かなくれ食堂、かなくれ茶会の3つを軸に行っている。以前に行われた、それらの催しの内容を簡単に述べる。かなくれ会陶芸展は、年に1回開催しており、かなくれ会メンバーの作品の新作発表に加え、学芸員の方をお呼びし、古い越中瀬戸焼に関する考古学の話を聞ける機会を設けたことがあったという。またかなくれ食堂では、最初の時は地元食材を使用したスープとパンを食べながら、アントという一級建築士集団の方々と一緒に、シンポジウムを開催した。さらに、かなくれ茶会だが、この茶会はかなくれ会メンバーのお道具を用いて、当日のお点前やお運びもメンバーが自分達で行っている。第1回目の開催時には、陶農館にある登り窯の火入れの日と重なったため、お茶席に来た方が、土が焼物に変わる瞬間を見学することができた。これは毎回のことではない。だが、常に何か面白い提案をしていきたいという思いを釋永さんはもっており、今後も内容は変化していくと思われる。

第二項 itonaに携わるまでの経緯、依頼された時の印象

 明石さんとの最初の出会いに関してだが、二人が出会ったのは、明石さんが定住コンシェルジュを務めていた時だ。当時、明石さんが、立山町の地域おこし協力隊を務めていた方と、釋永さんの元を訪ねた。同い年ということもあり、すぐに意気投合する。itonaの執筆依頼の連絡が入ったのは、その後のある日突然のことだった。

 執筆を依頼された時は、すごく面白そうだという印象をもつ。その時点では、知らないitona女子が多かったそうだが、中には、釋永さんの工房のお客様のお嫁さんがいたり、お父様である釋永由紀夫さんのことを知っている方がいたり、直接的ではなくとも、どこかでつながりがある方もいた。

 

第三項 取材方法、itonaの文章を完成させるまで

 まず取材方法に関してだが、話題としては、自身の身近なことを中心に書いており、書く上での難しさは、特に感じていない印象であった。ここで、釋永さんが執筆した1号〜4号目を簡単に振り返る。

 

1号目:タイトル「受け継がれる窯炎 越中瀬戸焼」…作陶の中で行われる窯焚きに関する記事。自身の生い立ちを振り返りながら、陶芸活動のことに関してまとめた内容となっている。

2号目:タイトル「流派を問わず、今を問う。富山のお道具でお茶会」…参加したお茶会に関する内容。その時の釋永さんの実体験が、そのまま書かれている。

3号目:タイトル「多手山プロジェクト」…釋永さんも参加している多手山プロジェクトに関するもの。開催当日に、一緒に参加した方にお話を聞き、それを元にまとめてある。

4号目:タイトル「かなくれ会」…釋永さんが参加している「かなくれ会」に関する内容。かなくれ会メンバーの元を訪れ、実際にインタビューを行ったそうで、メンバーに改めて話を聞く機会をもったのは、身近にいながら初めてのことであった。

 

1号から4号にかけて、自身の生い立ちのことであったり、実際に体験・参加したお茶会のことや多手山プロジェクトのことであったり、また仕事のことであったりと、身近なことを書いており、執筆する上での難しさは、そこまで感じていなかった。

 文章に仕上げるまでに関しても話を聞いたのだが、釋永さんは、メールやブログでしか書くという機会がなかったため、文章を書くこと自体はそこまで得意ではないそうだ。原稿を仕上げる上で、文体等の指摘も特にないため、「ほんとに闇雲に書いている感じ」とのことだ。しかし、「あおいちゃん(明石さん)からよっぽどNGが来ない限り、大丈夫だろうな」と自分らしい言葉になるように心掛け、いつも文章を書いている。

次に写真に関してだが、釋永さんの住む集落にカメラが得意な方がおり、その方は釋永さんの陶芸活動の仕事の際に、いつも写真を撮りに来てくれるそうだ。その方の写真をitonaに掲載する写真として、多用している。釋永さんは、写真を撮ること自体は好きだが、最新の4号はその方の写真と、釋永さんが撮影した写真を交ぜて使用し、13号にかけては、あえて他の人が撮影した写真を使用している。

 

第四項 itona執筆後、そしてかなくれ会結成後の、自身の活動上の変化、影響

 まずitonaに携わったことで、釋永さんが実感した目に見える影響、そして心情的な変化があった。それらを3タイプに分類し、それぞれについてまとめる。

 

(1)地域と関わる機会が増えた変化

 釋永さんは、執筆に携わったことで、地域活性化に目を向けるようになったと語った。立山町からも、地域活性化に関する頼まれごとをされる機会が、かなり増えたという。その例として、来客があるため、釋永さんの工房の見学をさせてほしいといった依頼があったことを挙げていた。中でも最も大きかった仕事が、東京の丸の内朝大学である。そこで釋永さんは、地域づくりに興味のある大学生と交流し、授業を一緒に受けるという企画に参加した。この経験は釋永さんにとって、越中瀬戸焼を今後どうしていきたいのかを、とても考えさせられる機会になったと語っていた。同時に、年間100万人が素通りすると言われている立山町の課題についても、皆で考える機会となり、実際そこから多手山プロジェクトの企画も生まれた。(itona3号掲載)釋永さんは、これに企画段階から参加している。itonaを通して、地域づくりに関わる機会が増えていなければ、そういった企画にもおそらく参加していなかったのではと語っていた。

 

(2)itonaで出会った方との新たな取り組み

 明石さんのインタビューの際、釋永さんがitonaに関わって出会った女性と、新たな取り組みを行ったという話があった。その取り組みとは、釋永さんが主催しているかわいい茶会というお茶会に、itona女子の松井紀子さんと豊田香澄さんが参加したものである。豊田さんのことは、お父様が酒屋を営んでおられるため知ってはいたが、itonaを始めるまで面識はなかった。そして、松井さんとも会ったことはなく、itonaを通じて知り合うことになる。茶会を開くにあたり、釋永さんには、今その時にしかない富山の面白い茶会にしたいという思いがあった。そして、ありきたりの茶会にはしたくはなく、県内で活躍している人に参加してもらい、富山の同世代の作り手の作品を使用してお茶会を開いた。

釋永さんが、七夕のお茶会で五色の布を求めていた際、松井さんのレインボーカラーののれんに出会い、それがちょうど良いと一番メインの場所に使用した。また、富山城址公園内にある佐藤記念美術館で行った正式なお茶室では、豊田さんが書いた前衛書を見て、豊田さんに、茶会の趣向や季節に合わせた書を書いてもらった。

このように、豊田さん、そして松井さんには、釋永さんの思い描くお茶会を行うために、力を貸してもらったのである。このようなお茶会は、今後も続けていきたいと釋永さんは語っていた。

 

(3)心情的な変化(地域イメージの変化、他の女性達の印象等)

 itonaに関わったことで、釋永さんに心情的な変化はあったのだろうか。関わる前は、陶芸の仕事をずっとしており、生活の中心は、自身の作品を作ることであった。しかし、その生活を送る中にも、陶芸活動に対し不安を抱えており、その時のことについて、以下のように語っている。

 

焼き物を始めた時から、やっぱりその越中瀬戸焼っていうものに自分が携わる中で、この先どうしていくのかなあって漠然と思っていて…その時は結婚してなかったので、後継者問題とか、もしかしたら私で作り手が最後なのかなあと。

 

このように思いながら生活する釋永さんに、転機が訪れる。かなくれ会のメンバーである北村さんが移住し、立山町での陶芸活動を開始する。その後、かなくれ会が結成されるのだが、釋永さんはその時の心情を、以下のように語った。

 

少し越中瀬戸焼の発展の可能性を感じ始めて、でそうこうしてitonaで自分のこととか、あの身の回りのことを発信できる立場になってみると、発信する大切さはすごい痛感してますし、発信しないとやっぱり人に繋がらない、伝わらないっていうのはすごい大きく感じていますし、臆することなく発信できるようにはなったかな。

なんか自分の作りたいもの作るっていう陶芸活動というよりは、まあこの地域に暮らして、越中瀬戸焼っていうものに携わっている自分としての発信を…ちょっと立ち位置を確認できたというか。

 

 

 続いてかなくれ会結成後、釋永さんの周囲に起きた変化について、2タイプに分類して論じる。

 

1)新たな移住者の誕生

かなくれ会の結成後、陶芸に引き寄せられた3名の女性が、立山町に移住した。一番最近移住した人は、埼玉県から一家で引っ越した方である。2015年の5月には、富山県内や全国各地から集まったアーティストにより、クラフト作品の展示・販売等を行ったイベント「立山Craft」を主催し、二日間で8000人を動員した。このイベントは、ものづくりの作り手と来場者の交流を生み出す機会ともなった。

2)立山町に起こった変化

 富山県の中でも、立山町は毎年雪が多く降る土地であり、そのような深雪の地区を訪れる人は少ないという。だが、かなくれ会が開催した第一回目の陶芸展は、一週間で約800人の集客効果をもたらした。交通手段も十分にない地域であるため、そのようなこと自体珍しく、そういったイベントがなければ、まずないことと釋永さんは語った。

 

第五項 釋永さんにとっての2つのネットワークとは

 釋永さんは、陶芸家として、itonaを通じた女性達とのネットワークを形成している他に、陶芸家の方々とつくったかなくれ会のメンバーとしても、普段活動を行っている。では、この2つのネットワークを、釋永さんはそれぞれどのようなものと感じているのだろうか。

 初めにかなくれ会についてだが、この結成は釋永さんにとって、陶芸家としての大きな転換期になった。結成以前は、メンバー同士会ったとしても挨拶程度で、会話もほとんどなかったそう。同じ陶芸家同士であるにも関わらず、陶芸の話はしたこともなかった。しかし結成を通し、人間関係が大変滑らかになり、釋永さんにとってかなくれ会は、作陶していく上での「潤滑油」となっている。かなくれ会には、釋永さんのお父様も参加されているのだが、二人とも結成以前は、地域との関わりはほとんどなかった。実際作品を制作しても、県外や自宅、もしくは富山大和等で、個展を開催する活動のみであった。現在の活動拠点である陶農館にも、足を運ばれたことはなかったそう。そのような中に、かなくれ会ができたことで感じた変化を、以下のように語っていた。

 

陶農館を拠点にっていうかなくれ会の活動がなかったら、もうほんとに地域の方ともあんまり交流する機会もないというか、そんな状態だったのが、今は地域の人といろいろ話しながらじゃないと、なにも成立していかないので、かなり変わりましたね。うちの父なんて、地域の行事にもそこまで深く関わってはいなかった。なので私も、地域でなにかするっていっても、行ったこともなかった。陶農館すら行ったこともなかった。陶農館できて、もう20年近いんですけど。かなくれ会できてからです。こんなに行くようになったのも。

 

かなくれ会という一つのネットワークに属し、地域を拠点に活動を開始したことで、地域自体に関わり、地域の方とも交流する機会が増えたことが、この語りから読み取ることができる。このような自身の変化を経て、釋永さんはかなくれ会に対し、

 

立山町で陶芸をしていく上では、同じ同志であり、横のつながりはあるべきだ。

 

とも語っていた。

さらに、itonaを通じた女性達とのネットワークに対してだが、釋永さんは「断然面白い」という印象をもっている。富山県に住んでいても、南砺市のような離れた市町村に関しては、知らないことの方が以前は多かった。だが、富山県内様々な所に住む女性達と出会い、友人関係になったことで、情報をより身近に得ることができ、富山県が狭く感じるようになったという。それまで遠いと思い、行ったことのなかった南砺市まで躊躇なく行くこともできたそうで、「感覚的に縛りがなくなった」とも語った。そして「itonaがなかったら、やっぱ富山県のこの東部のほうで、暮らしてるだけだったと思いますけど」とも語り、itonaを通じた富山への認識の変化、釋永さんの視野の広がりを感じ取ることができた。釋永さんにとって2つのネットワークは、富山県全体に関わる上で大きな意味合いを成したようで、そのことを

 

ただ立山町の発信をする自分っていうくくりから、itonaに関わって、ちょっと富山県をアピールする私みたいな位置付けはできたかも。

 

と述べていた。

 

第六項 今後の発信の形、展望

 itonaを通し、外に発信することの大切さを実感したという釋永さんだが、今後どのような形で、越中瀬戸焼のことや立山町のことを発信していきたいのか、展望を語ってもらった。釋永さんは発信の方法として、共感を生むような仕掛けづくりの必要性を感じている。その具体的な例として、自身が主催しているかわいい茶会を挙げていた。以下は、その時の語りである。

 

茶会って、普通はちょっと敷居が高いとか、難しそうとか、おば様達がいっぱいいてみたいなイメージだと思うんですけど、同世代の作家の作品を、自分達目線で選んで使うことによって、「あ、いいな」って、若い、お茶とか全然知らない人にも感じてもらえたりとか、あとはまあ、お茶をちゃんと知っている方にも、ちょっと斬新で面白いねって思ってもらえる切り口だったりとか、実際に使ってもらったり、使っているところを見せたりしながら。ただ作品作ったので見てくださいだけで終わらずに、作品を販売するだけではなくて、なにかほかの人の共感が生まれる仕掛け作り、茶会だったり、なんでもいいんですけど、そういうことをやっぱりどんどんやって、いきたいなっと思ってますね。

 

難しそう、敷居が高いといったイメージをもたれがちな茶道であるが、その中で同世代の作品を自分達で選んで使用することにより、若い人にも茶道に精通している人にも、共感してもらえる仕掛けができるのではないかと考えていることが分かる。そして作品を作り、販売するだけで終わることなく、その作品を通して人の共感を得ることのできる取り組みにつなげていきたいといった思いが、語りから読み取ることができた。

一方で、現在は子育て中であり、仕事も少ししかできない状態であるため、作り手として復帰することを、釋永さんはまずは第一に考えている。そこには、自分の作品がきちんと完成できていなければ、発信にもつながらないといった釋永さんの思いが込もっているのである。

 

第七項 陶芸家という立場からの発信がもつ魅力

 釋永さんが、陶芸家という立場から、地域のことや富山県のことを発信していくことで、それがどのように地域に反映され活かされていくのか、自身がもっている思いを語ってもらった。釋永さんは、同じ地域の人々にとって、自分達の住んでいる場所に越中瀬戸焼があることが、自慢できるようなものでありたい、郷土愛が育まれる時の自信の一つでありたいと思っている。そのためにも、越中瀬戸焼の質を高めていくことに、必要性を感じている。

 また、人がもつ住む環境に対する愛着に関しても触れていた。釋永さんの同級生の方々は、ほとんど立山町を離れたそうで、それ以外の若い方達も、結婚を機に土地を離れてしまっている。他の方からしてみれば、田舎でしかないのかもしれないが、釋永さんは富山市内から30分で着くことのできる立山の土地に、特に不便は感じていない。それにも関わらず、人が出ていってしまうことに対し、以下のように語った。

 

やっぱり愛着がないとそうなりますよね。みんな人は。なんか自分が生まれ育ったこの環境が好きだったら、たぶん選択肢にそういうのって出てこないと思う。だから、そのためにはやっぱりこの環境に魅力がないと、だめなんだろうなって思いますね。

 

住む土地に愛着が出て、その環境を好きになることができれば、それは土地を離れるという選択肢をなくすことにもつながるのではと推測していることが分かる。その上で、人が愛着をもてるような土地の魅力として、越中瀬戸焼がその立役者となれるように、陶芸家である自身からの発信を続けていきたい釋永さんの展望を、読み取ることができた。

 

 


 

第二節 宮下直子さんの語り

 2人目は、南砺市のitona女子である、宮下直子さんである。宮下さんに行った調査の詳細は、以下の通りである。

 

調査対象者:NAOコーポレーション代表 宮下直子さん

インタビュー方法:電話によるインタビュー調査

日時:201511271900

 

第一項 宮下直子さんに関して

 前節と同じく、まず宮下さん自身のことを、itonaに収録してあるプロフィールを引用しながら紹介したい。

 宮下さんは、1976年に福井県福井市に生まれる。イベント業界4年、IT業界10年、まちづくり会社3年を経て、20124月に独立する。屋号であるNAOコーポレーションの代表として、南砺市に特化した地域活性化活動支援、中小企業のアドバイザー等に携わっている。合言葉として、N(南砺の)A(明日を)O(面白く!)を掲げ、南砺市の食づくり・ひとづくり・ものづくりを営業している。

宮下さんの仕事は、南砺市内において多岐にわたり、主に行政の仕事と民間の仕事に分かれる。行政では、南砺市内案内業務(野菜・米・肉など食材、観光地、伝統工芸品・民芸品、製造工場など、訪れる方のテーマに応じてご案内)の他、食育・観光といった市の委員会の資料や議事録作り等に携わる。一方の民間の仕事では、中小企業アドバイス業務(会議出席・外部中間職のような仕事)、官公庁各種調査事業等に加え、最近では企業のHP制作やスマートフォンへの対応、インターネット通信販売、Facebookでの広告による販売促進、民間企業の新規事業の提案、組織内改革等、様々である。ほぼ毎週誰かの家でパーティーをしては、南砺の将来について語っている。

県外出身者である宮下さんが、南砺市に特化した仕事を行う中での苦労を、調査で聞いてみたところ、住む場所はあるものの地縁はなく、富山弁ではないため、よその人かどうか尋ねられることもあったという。また結婚をしていないため、婦人会、町内会にも入っておらず、ママ友等もいない。そのような状況の中で、やりにくさを感じる時もあった。しかし、地縁をもっておらず、地域のネットワークに所属していない分、時間に囚われることが少ないため、様々な行政が行っているイベントに行ける等、良い部分もあり、苦労を感じることは、実際はなかった。

 14号まで、自分のことや仕事のこと、身近なことをテーマとして執筆しているため、「割とすんなり書けた」と語っていた。

 

 

 

第二項 itonaに携わるまでの経緯、依頼された時の印象

 宮下さんと明石さんの最初の出会いについてだが、それがいつであったか覚えておらず、67年の付き合いとのことだ。明石さんは宮下さんに関し、コンシェルジュ時代に出会ったと語っていたため、おそらく最初の出会いは、2010年頃ではないかと思う。

宮下さんは、以前勤めていた会社の転勤で、2004年に富山に移住する。そこで、旧福光町のIT事業に携わる。その後、福井や石川にある支店にも転勤になるが、住民票はずっと旧福光町のままであった。そして4年前、NAOコーポレーションとして独立する。

独立のお祝いとして、明石さんが、南砺市の宮下さんの元を訪れた。その際に、リトルプレスを作りたいと、itonaの企画書を見せてくれたそうだ。その際に宮下さんは、広告もなければ、メインテーマは女性達の日常のことであるリトルプレスの内容に、珍しいことをするなあという印象をまずもった。だが、日常のことを主なテーマにするからこそ、自分の身の丈にも合っているかもと感じる。さらにその他のメンバーとして、石仏が好きで、かつインテリアコーディネーターの一面をもつ川端さんや、陶芸家の釋永さんといった、個性ある面々が揃っていること、そしてライターではない、物書きを仕事としていない女性を選抜されていることから、そこになら自分も入ることができると思い、明石さんの企画を受けたのである。

 

第三項 取材方法、itonaの文章を完成させるまで

宮下さんの取材方法に関してだが、「取材をさせてください」ときちんと依頼をし、取材に臨むことはほぼない。普段の仕事のついでであったり、どこかに遊びに行った時であったり、そのような際に写真を撮り、そのまま文章に時間をかけることなく仕上げている。あとは、明石さんのデザイン力にお任せすると語っていた。実際、依頼をせずに原稿を仕上げてしまい、本が完成してから、載せたことを事後報告しに、itonaを持って取材先を訪れることもある。しかし、そのことに対して嫌がられることはなく、それだけ身近でローカルな場所に関して紹介しているのである。内容に関しても、考える上での苦労はなく、「普段の日常で感じていることを、そのままアウトプットしている」と語っていた。そのため、特にitonaに載せることを意識して書いてはおらず、itonaであるからこそ、そういった女子の普段の日常こそが、特別なものになるのではないかとも語った。宮下さんは、元々文章を書くこと自体、得意ではないが、福井のイベント業界に勤めていた際、イベント関係のコラムを書くような、ライターとして仕事を依頼されることがあり、以前から書く仕事に携わる機会はあった。

 次にitonaで使用している写真についてだが、それに関して特にこだわりはない。普段目にするものを、iPhoneの機能を利用しながら撮影している。そのように、写真やカメラ自体のことに興味を持たないのは、一度のめりこんでしまえば、そのためにお金を使い、仕事にも影響が出てしまうからと語っていた。

これらのことから、itonaの文章を書く仕事というのは、普段の宮下さんの仕事のほんの一部であり、そこまで重点を置いてはいないような印象を受けた。

 

第四項 itona執筆後に起こった、ご自身の活動上の変化、影響

 itonaに携わったことで、宮下さんが実感した目に見える影響、そして心情的な変化について聞いたところ、いくつか例が挙がった。それらを4タイプに分類し、それぞれについてまとめる。

 

(1)日常で起きた影響

 宮下さんが、itonaで紹介したお店や場所を訪れる際、そのほとんどが通りすがりであるため、自身のプロフィールを明かすことはほとんどなく、どんな仕事をしているのか、分かってもらえる機会がなかった。だが、itonaを取材先に事後報告として持っていき、見てもらったことで、「宮下さんって、こういう人なんだね」、「宮下さんって、南砺市のこと本当に好きなんだね」と、自分のことを知ってもらえるきっかけになった。

 また宮下さんは、itonaが発売される度に、50冊ほど購入している。友人・知人のお子さんが海外に留学する際に、地元の紹介誌としてお土産に持っていかせたい為、欲しいと依頼がくるそうだ。英語翻訳も一緒に掲載してある面もそうだが、地元のお祭りのことや伝統文化のこと、地域の暮らしのことに関して、itonaのように詳しく紹介している情報誌は他にないのではと、そういった面において、itonaはとても役立つのではないかと語っていた。

 

(2)仕事上での活用

 宮下さんの仕事の中にある、南砺市内案内業務の中では、県外の方や政治家の方等、様々な方を案内する機会がある。そのような機会に、自分の紹介といった意味も含め、またお客様へ渡す名刺代わり、お土産代わりとして、別れ際にitonaを渡している。

 

(3)外から持ち込まれた影響

 明石さんのインタビュー中、宮下さんがitonaに携わったことで、外部から仕事を頂く機会があったことを聞いた。その件に関して、詳しく聞いてみたところ、「自身の感性をitonaで表現したことで、リトルプレスが若い人の心に響き、実際に会いに来て、それをきっかけにITを活用したまちづくりの仕事のパートナーを獲得した」という出来事があり、そのことについて語ってもらった。

2013年の夏、宮下さんは南砺市のPR事業として、関東で南砺市のふるさと料理を振る舞うイベントに参加する。そこで、ある若者に声をかけられた。この若者というのは、松本八治さんという方である。松本さんは、その時富山県首都圏若者ネットワークacoico(アコイコ)の企画委員をしていた方で、南砺市出身でもある。itonaを読んだことで、地元に宮下さんのような仕事をしている方がいるのだと、会いに来てくれたのである。話をする内に、松本さんが南砺市へのUターンを希望していることから、Uターン後の就職に関して話題が挙がった。その際、「南砺市で仕事を探すのであれば、その前に1年間、宮下さんの会社に入社して、まちづくり関連の仕事をしながら学び、そこから再就職してみてはどうか。そうすれば、いろんな企業の方とも出会う機会がもてる。」と、松本さんに対し提案する。その後、松本さんは実際に、201491日〜2015831日までの1年間、NAOコーポレーションに勤務した。

入社する以前の2013年の12月に、松本さんは一度南砺市に帰って来たそうで、宮下さんともその際再会する。松本さんは、Code for JapanというITを活用しながら、ボランティア活動を展開する団体に参加していたのだが、その団体の地方バージョンを、南砺市で共に作らないかと、その時宮下さんに声をかけてくれた。そこで完成したのが、Code for Nantoである。今では、南砺市役所に対し、考えや意見を述べる機会もでき、実際に市の事業に反映される場合もあった。

宮下さんはこの経験から、リトルプレスが生み出す、人と人とのつながりについても語ってくれた。雑誌、新聞、テレビといったマスメディアは、発信される前に、人によって編集作業が加えられる。リトルプレスは、マスメディア等と比較すると、発信力は少ないかもしれない。しかし、itonaには明石さんを筆頭に、読み手に伝えたい思いがそのまま女性達の言葉と写真によって、反映されている。宮下さんは、そこにはマスメディアとは異なる、宮下さんと松本さんのような、読み手に行動を起こさせるような、重みのある影響力が存在しているのではと感じている。

 

(4)心情的な変化(地域イメージの変化、他の女性達の印象等)

 宮下さんが主に携わっている南砺市に関し、イメージの変化はあったのだろうか。itonaに関わる以前から、南砺市に対し魅力を感じていたそうで、執筆後に地域に対する変化は、特になかったという。

 

第五項 宮下さんにとってのitonaとは

 宮下さんにとって、itonaはどのようなものであると捉えているのか聞いたところ、「気合の入った名刺」もしくは「豪華な名刺」と語っていた。宮下さんが普段持ち歩いている名刺は、会社名と名前のみで、ほとんど何も書いていないに等しい。itonaで表現しているのは、自身では、自分の5%、感性の高い自分の一部であるそうだ。そこには、南砺市が好きで、外にその魅力を発信したいという、宮下さんの心情の一端が表現されている。

さらに、一言で表すならば、「リトルライトプレス」と表現していた。直訳すると「軽いリトルプレス」と表現できるが、宮下さんが感じている軽さとは、itona自体が作り出している緩やか過ぎるネットワークを指していると考えられる。宮下さんは、itonaに対し、気軽で肩肘を張らないもの、窮屈さがないものとして捉えている。そう思う背景として、3つの事柄を挙げた。

 一つ目は、itonaが発行される度に行われている、飲み会という名の編集会議についてである。実際、いつも集まるのはメンバーの半分程度であり、それだけ女性達各々が忙しい日々を送っていると語った。ちなみに、明石さん、宮下さん、川端さんの3名が、ほぼパーフェクトで参加している。

二つ目は、原稿の締め切りのことだ。締め切りは、設定されてはいるそうだが、宮下さんはかなり遅れてしまったこともあるという。だがその時は、許容してもらえた。itona女子だからしっかりしなくてはいけないといったことはなく、宮下さんは、そういった部分が自由で良いと感じている。

そして三つ目であるが、宮下さんは、itona女子をいつ引退しようかと考えている。その理由として、年齢のことについて挙げていた。宮下さんは、自分のことを、常にバランスをとりたがると表現していた。もし宮下さんがやめたとしても、そこを埋めようとする力が働くため、おそらくまた新しいメンバーが誕生する。そういった変化も楽しみたいと語っていた。さらに、itona女子の中でも、年齢層が高い方に入るため、次世代につなげていく楽しみもあるのではとも語り、itonaが漢字で「営」と表現されるように、itonaは常に変化していて良いのではと感じているようだ。