第四章 分析

 

第一節 20代のキャリア形成と結婚・出産との関わり

 第一節では30代で第一子を出産した4人の女性を、初職から連続したキャリア形成を行っているかどうかに着目して分類を行い、分析していく。

 

第一項 連続的なキャリア形成(1)を行っているAさんの場合

 第一項では初職から連続したキャリア形成を行っているAさんの事例を取り上げ、このような女性に晩婚化、晩産化の傾向はみられるのかどうかを調査する。そしてそのような傾向が見られた場合、連続したキャリアの中でどのようにキャリアの形成を行った結果、晩婚、晩産となったのかを調べ、明らかにしていく。

Aさんは着任した22歳の時に3年生の副担任、23歳の時に1年生の担任、24歳の時に1年生の担任、25歳の時に2年生の担任を受けもった。そして翌年、26歳の時に1年生の担任と英語科の主任の仕事を任されたのであった。この時の状況についてAさんは以下のように語っている。

 

Aさん:担任をしながら、主任をしました。

笹川:となると、仕事量というのは=

Aさん:=結構ハードでした。

笹川:そうですよね。

Aさん:でもその時が一番、やっぱり楽しかったかな。両方ね、いろいろ経験できて。

 

 学年の担任に科目の主任の仕事が加わると、仕事量がさらに多くなり負担が重くなる。しかしAさんは両方の仕事を経験することができ、楽しかったという感情を抱いていた。Aさんは教師という職業にやりがいや誇りを感じており、教師としてのキャリアを積んでいくことに対し意欲的であった。このように働き始めた数年間はたくさんのことを経験し、覚え、仕事において一人前になるために自分のキャリア積んでいきたいと思うのは、Aさん以外にも一般的に言えることなのではないかと推測することができる。そして先行研究で取り上げたように仕事と家庭をトレードオフの関係にとらえている場合、このキャリアを積みたいと考える数年間の間は結婚や出産を考えないため、晩婚や晩産を進めてしまう。

そしてAさんは25歳の時に結婚というライフイベント経ているが、第一子の出産は結婚した年から5年後の30歳の時である。結婚後第一子の出産までに期間を空けたことについてAさんは以下のように語っている。

 

Aさん:仕事をひととおり自分の中で達成して、30歳前後で産もうと思っていた。

笹川: 30歳で産もうと前々から思っていたのは、お仕事がひと段落つくまで待とう、それまでは産まないかなと思っていた=

Aさん:=そうですね。自分の中で仕事をここまでのラインで達成したい、つまり卒業生を出したいと思っていて。卒業生ってなかなか123と持ち上がりできないので。そしたらちょうど上手く、3年間持ち上がることが出来て。それで自分も子どもをちょっと考えてみようかなと思って、卒業生を出してから出産しました。

 

笹川:1年生を3年生まで持ち上げることに対してどのような思いを抱いていましたか。

Aさん:この年は自分と一緒に、初めて3年間続けてその子達の成長を見ることができるという意味で、やっぱり自分にとっても教員人生の中で、3年間しっかり責任を持つっていう気持ちが強かった。責任感があった。プラス生徒と一緒に成長することの喜び。そんなものを感じながら仕事をしていましたね。やっぱり、卒業生を出してなんぼやーみたいなそういう世界でもあるので。

 

笹川:3年生まで受け持って卒業させたときはどのようなことを思いましたか。

Aさん:これで卒業生を初めて出すことができたから、とりあえず先生としての経験すべきことをやっと経験できたかなー、ほんとに先生になれたかなーと思いました。充実感というか、うん、嬉しかったですね。

笹川:卒業させることへの=

Aさん:=そうですね。進路指導もしながら生徒の気持ちと関わっていて。これから3年生持った時もその経験が活きていくかなーっていう意味で充実感がたくさんありました。

 

 このようにAさんは、高校教師は1年生の時に受け持った学年を3年生まで担当し、卒業させてやっと教師として一人前、というように考えている。そのような考えのもとで受け持つ学年の希望を出していたが、着任して数年間は思うように評価されず、自分が受け持ったクラスを卒業まで担当することはできなかった。しかし27歳の時に1年生の担任を任され、この時に受け持った学年を卒業まで担当することができた。この時にAさんは、自分の担当した学年を卒業させることができたということに大きな充実感と、教師としての大きな経験を得ることができた。

Aさんは着任してから様々なポジションを任され、キャリアを積んでいった。その中でAさんは、1年生から受け持った学年を卒業させて一人前になるということを重要視していた。そしてそのことを、自分のキャリアを形成していくうえでの一つの区切りと考えていた。ゆえに出産はそれを達成してからと考えていた。

以上から、仕事において一人前になるまでに数年間の連続したキャリア形成が必要であるというような場合、結婚というライフイベントはそのままキャリアを継続させることができるが、出産というライフイベントは出産のためにキャリアが一時的ではあるが断絶してしまうため、出産においてはより仕事と家庭をトレードオフの関係にとらえやすいということが分かった。

 

第二項 非連続的なキャリア形成を行っているBさん、Cさん、Dさんの場合

 第二項では、20代の間に離職または転職を1回ないし複数回経験しているBさん、Cさん、Dさんの事例について取り上げ、転職をした理由について調べ、そこに晩婚化、晩産化を進める原因があるかどうかを明らかにしていく。

 Bさんは高校卒業後の19歳から東京の建設会社の管理事務の仕事に正社員として勤務していたが、4年後には病院の受付に正社員として転職している。以下は転職した理由についてのBさんの語りである。

 

笹川:建設会社の管理事務から病院の受付のお仕事に転職なさったと言うのをはじめに聞いたんですけど、それはなぜかうかがってもよろしいですか。

Bさん:体調壊して、で、やめたんです。

笹川:体調壊したっていうのは事務の仕事が

Bさん:忙しすぎて。結局高校を卒業してまだ右も左もわからないうちに、すごい残業がひどかったんですよね。

笹川:そうなんですか。

Bさん: 10時までは女性社員は残業してもいいってなっているんですよね。で、10時くらいまで残業が続いたりなんかしてたら、やっぱり体調がもたなくって。(中略)朝は7時ちょっと前には(家を)出ていたと思いますね。

笹川:それから勤務して、夜は10時くらいまで。

Bさん:うん。決算があったりとか、月のはじめと終わりは必ず。その時ね、会社も結構仕事忙しかった。たくさん仕事も入ってきて。

笹川:で、体がもたなくなってしまって。

Bさん:そうですね。

 

 次に、Cさんは短大を卒業してからブライダル業の衣裳店で正社員として働いていたが、25歳の時にワーキングホリデーを利用して渡豪した。そして帰国後生花卸売市場の配達業の仕事に正社員として就くも一年後に離職している。以下は離職した理由についてのCさんの語りである。

 

Cさん:この職場で、倒れたんですよね、過労で。

笹川:働きすぎて=

Cさん:=働きすぎて。(中略)ずっと立ちっぱなしでずっと組花してっていう。ずっと立ちっぱなしですよ。そういうことして、倒れちゃったんですよ。そうするともう働けない。

笹川:それは勤務時間が長かったんですか。

Cさん:長いです、長いです、すごい長いです=

笹川:=どれくらいだったんですか。

Cさん:(中略)朝4時から夜の9時までとか。(中略)すごい繁盛時期ですよ。それを2週間ぐらいやるので。(中略)私は初めて入った年だったので倒れちゃって。それでやっぱり親がだめって言って。

 

次に、Dさんは大学卒業後の22歳の時に眼鏡販売業に正社員として就職したが、23歳の時に不動産会社に正社員として転職している。以下は転職した理由についてのDさんの語りである。

 

笹川:眼鏡販売業から不動産会社に転職をしたのはなぜかうかがってもよろしいですか。

Dさん:その眼鏡屋さんがすごい勤務時間が厳しいところで。朝も8時半から、夜はほんとに、早くて8時。一応早番っていう、6時半までっていう勤務とかもあったんだけど、ぜんぜんその時間に上がれたためしはなくって。早くて8時で。売り出しとかどこかの新店舗オープンとかが入ってくると12時回ることとかもあって。ダイレクトメールとか組んでいたら、うちに帰るのが夜中の2時とかで。でもまた朝の6時くらいから行くというような生活があって。それでもう私こんなの耐えられないと思って。で、結局辞めて。ちょっとほんとに、半ば病気みたいなかたちで辞めて。

 

 以上の三人の語りから、現代において正社員として職に就いても長時間労働という厳しい雇用環境が存在していることが分かった。そして長時間労働が原因となって体を壊してしまうという現状があることも確認できた。

 インタヴュー調査を行った4人の女性のうちAさん以外の3人の結婚した年齢は、Bさんが34歳、Cさんが29歳、Dさんが29歳と、25歳で結婚したAさんに比べると比較的高い。就いた仕事の労働環境が長時間労働など劣悪な環境であることは、転職をして自身の経済的自立を図り、整えようとするのに時間を要するため、結婚というライフイベントへ向かうことを遠ざけてしまうのではないだろうか。ゆえに厳しい労働環境は、仕事とトレードオフの関係にある結婚、出産などの家庭をさらに先延ばしにし、晩婚化、晩産化へと向かわせるということができる。

 

第三項 晩婚化、晩産化傾向に向かわせるさらなる要因

第二項では、劣悪な労働環境が女性を晩婚化、晩産化傾向に向かわせるということを述べた。そして第三項では劣悪な労働環境以外に女性を晩婚化、晩産化に向かわせるさらなる要因を、Bさん、Cさん、Dさんのキャリアに対して抱くイメージに着目して調べていく。

初めにBさんの事例を取り上げる。Bさんは20代の前半のころから生理不順がひどく、出産することが難しい体であった。Bさんはそのことに対し悲しみを抱くも、結婚をあきらめるか、40代になって出産から遠ざかったところで誰か気が合う人がいたら結婚しようと考えていた。このように出産することが難しい体であるという外的要因により、Bさんは結婚や出産を先延ばしに考えていた。以上のように身体的な要因も晩婚、晩産に向かわせるということがわかる。

さらに仕事について着目すると、Bさんは23歳の時から病院の受付の仕事に就いていたが、その当時週末には結婚式場から依頼を受け、趣味でもあったエレクトーンの演奏も行っていた。そしてそれと同時に高校の時からの夢であったエレクトーンの講師になる勉強も始め、ゆくゆくは受付の仕事を続けつつ仕事終わりに社会人に向けてのエレクトーンの講師になろうと思っていた。以下は当時の仕事についてのBさんの語りである。

 

笹川:勉強とお仕事を一緒に?

Bさん:そうです、はい。両立していましたね。

笹川:エレクトーンの講師になった場合は、そちらの方に=

Bさん:=空いた時間に、社会人向けに講師をすることは可能でしたので、自分も普通に10時から6時まで働いて、そのあと同じようにOLさんされている方は仕事が終わりますので。(6時で仕事が終わった後に)講師として仕事することは可能だったので。

笹川:Bさん自身は仕事してからまた仕事みたいな感じになってしまうと思うんですけど=

Bさん:=仕事イコール趣味なので、仕事っていう感じはなかったですね。楽しいから。

 

 Bさんの語りから、Bさんが具体的で現実的なキャリアイメージを抱いていたということがわかる。このようにBさんは、自身のキャリアについて確固としたイメージを抱いていていた。

 次にCさんの事例を取り上げる。Cさんは短大を卒業してから25歳まで、富山県にあるブライダル業の衣装店で接客業の仕事をしていた。その後ワーキングホリデーを利用して渡豪したが、帰国後はテニスコーチのアルバイトを経て、生花卸売市場で配達業の仕事に就いた。以下はこのようなキャリアを形成した理由についてのBさんの語りである。

 

笹川:帰ってきてまた同じところで働こうとは思わなかったんですか。

Cさん:思わなかったですね。ちょっとは思ったけど、それは私の中ではチャレンジじゃないって思ったんですよね。同じところにまた帰って来てっていうのはつまらないなーって思って。(同じところに戻っても)よかったんだろうけど、ちょっとつまんないなーって思ったんですよ。向こうに行っていろんな人に出会って、また同じ場所だと同じ人たちだし。違うところに行って違う人に、会ったことない人に会いたいとか、知らない世界に行きたいとか、そういう感じですね。たぶん性格的もそうなんです。

笹川:でも、ブライダル関係がいいなーって思ったから、卸売市場。

Cさん;そうそうそう。

 

Cさん:お花、ブライダルの仕事にもう一回就きたいかなと思って。で、お花もできたらいいなって思って。新しいことしたかったからお花だったんです、ドレスじゃなくって。

笹川:前はドレスだったから=

Cさん:=ドレスだったから=

笹川:=次はお花=

Cさん:=お花とか。トータルで学びたいかなと思って。で、毎回違うことしたいっていう気持ちがあったんですよね、仕事が変わった理由は。

笹川:それは、なんかいろいろ=

Cさん:=いろいろ=

笹川:=経験したいっていう=

Cさん:そう、経験したい。自分ができることでトライしたいと思って。

 

 帰国後Cさんは以前働いていた衣装店でもう一度働くことは考えず、生花卸売市場の配達業の仕事に就いた。同じところで働くのはつまらないと思い、また同じブライダル関係でも違う職種に就き、違った視点からブライダル業に関わりたいと思ったからであった。

以上のCさん語りから、Cさんは同じ仕事の業種ではあるが、違った職種に就くことでその業種について極めていきたいというキャリアイメージを抱いていたということがわかる。

最後にDさんの事例を取り上げる。Dさんは22歳の時に眼鏡販売業に正社員として就職するも劣悪な労働環境であったため退職し、不動産会社の正社員に転職した。しかしその不動産会社は家族経営で、給料が手渡しであり給料日に確実に給料がもらえなかったことやボーナスが当たらないことが原因で退職した。その後は派遣会社に登録し、派遣社員として受付事務の仕事に就いていた。以下は受付事務の仕事に対するDさんの語りである。

 

Dさん:(受付事務の仕事は)5年半、勤めました。ただそれは派遣だったのね。正社員とかじゃなくて派遣社員で。受付っていう特殊業務だったから、シフト制だった。朝から晩まで(仕事)じゃなくって、午前中のこのシフトとこのシフトはDさんがシフトというような。シフトが組んであって出るみたいな感じだったから、楽だったんだろうね、たぶんね。

笹川:5年間続けられたのは、シフト制だったのというのがDさんに合っていたっていうところがあるんですかね。

Dさん:たぶん。休みを取りたかったら3日でも4日でも休みが取れたし、リフレッシュもできたから。(中略)ほんとに休みたいとき休めたし。で、やっぱ土日祝は絶対休みだったし。すごい都合のいい職場だったのかな。

笹川:仕事は5年間通していくうちに、最初に覚えたこととかがどんどんできるようになっていったとかそういう風なことはあったんですかね。

Dさん:受付ってほんとその日その日の業務だから。たいてい同じお客さんが毎日来るんだけど。これができるようになったとかはないかな。そういう充実感的なものはないかな。

 

 Dさんは2回の転職を行っているが、その際にどのような仕事に就きたいという自身の希望があったようには見受けられなかった。また職種だけでなく雇用形態も1回目、2回目は正社員であったが、3回目は派遣社員である。しかし派遣社員であってもシフト制が自身の働き方にあっていたため、受付事務の仕事に対して好印象を抱いていた。このようにDさんは転職という人生の節目を柔軟に受け止め、あえて状況に身を任せるようなドリフト型のキャリア(2)をイメージしていたということができる。

 以上に3人が自身のキャリアに対して抱くイメージを記述したが、Bさんは確固としたキャリアをイメージし、Cさんは同じ業種であっても違った職種に就くことでその業種を極めたいというキャリアをイメージし、Dさんはドリフト型のキャリアをイメージしており、三者三様であった。しかしBさん、Cさんの場合はイメージされるキャリア上の「自分」になるまでは結婚、出産は積極的には考えられない、またDさんの場合はドリフトを転換させるようなきっかけがあるまでは結婚、出産は積極的には考えないというキャリアに対するイメージが、劣悪な労働環境とも相まって結婚、出産を先延ばしにする要因となっていたのではないだろうか。またBさんの場合は、自身が出産することが難しい体であったことが、キャリアの追及へBさんを向かいやすくさせていたという可能性も考えることができる。

 


 

第二節 結婚や出産というライフイベント経験と就業継続

 第二節では4人の女性の、結婚や出産というライフイベントを経験した後に就業継続することができたAさん、Cさんと、就業継続することができなかったBさん、Dさんに分類して、その原因について分析し、現代を生きる女性たちが結婚や出産を経験した後にどのような状況に置かれたのかを明らかにする。

 

第一項 結婚や出産を経験した後に就業継続することができたAさん、Cさんの場合

 まず初めに、Aさんの事例を取り上げる。Aさんは高校教師として働いており、結婚したのちも継続して働いていた。そしてその後出産を2回経験したが、両方とも一年間の育児休暇を取得後、仕事復帰を果たしている。

次にCさんは介護士として働いており、29歳の時に結婚、30歳の時に出産を経験したが就業継続することができた。出産後も1年間の育児休暇を取得後、仕事復帰を果たしている。

このようにAさんは教師、Cさんは介護士という、両者とも専門性があり安定した雇用環境であり育児休暇も取りやすかったため、結婚や出産を経験しても就業継続できており、実際にスムーズな仕事復帰を果たしている。

しかしCさんは第一子の育児休暇が終了し仕事復帰をするも、1年後には介護士の仕事を辞めている。その理由についてCさんは以下のように語っている。

 

笹川:介護職を辞めたのはなぜですか。

Cさん:(中略)(家から仕事場まで車で)50分くらいかかるんですよ。50分って言ったら帰りも50分でしょ、1時間ぐらいかかるから。まだ1歳の子をおばあちゃんに預けて行くと、もう、帰ったら赤ちゃんが寝てるんですよね。朝もすごい時間に預けて出てくるし。早番、遅番とかあるし。

 

 子どもが生まれるまでは職場に移動するまでの時間や、早番遅番などの勤務時間を気にせずに働くことができたが、子どもが生まれてからは生活の中に育児が加わったため、Cさんは介護士として働き続けることが難しいと考えるようになり、離職した。

以上から結婚や出産を経験し、一時的に就業継続することができても、結婚や出産による生活リズムの変化によって離職を考えざるを得ない状況に置かれることがあるということが分かった。

 

第二項 結婚や出産を経験した後に就業継続することができなかったBさん、Dさんの場合

まず初めにBさんの事例を取り上げる。Bさんの生理不順は30代になると安定するようになり、その後現在の夫と知り合い34歳の時に結婚し同年に長女を出産した。夫の実家は家業を行っておりBさんの夫が家業を継ぐことになったため、出産後3か月でBさんも夫とともに富山県に移住することになった。そのためBさんは病院の受付の仕事を辞めることになった。このようにBさんは夫の仕事の関係で富山県に移住することになったため、結婚や出産後就業を継続することができなかったのである。仕事を辞め、また生活環境の変化からエレクトーンの講師になることもあきらめなくてはならなくなってしまったことに対してBさんは以下のように語っている。

 

笹川:仕事を辞めるときに迷いや未練などはありましたか。

Bさん:ありました。

笹川:それは、どのような思いで=

Bさん:=うーん、今まで自分の力で努力してきたものをすべてあきらめなければならない。

笹川:エレクトーンの演奏をなさっていたということをおうかがいしたんですが、それは続けることはできましたか。

Bさん:できないです。

笹川:そのことについては何か思いましたか。

Bさん:もうどうにもならないので、悔しさは残ります。

 

Bさんは結婚するまで、エレクトーンの講師になることを目指しキャリアを追求していた。しかし夫と結婚し他県に移住しなければならなくなったことで、Bさんの積み上げてきたキャリアは断絶してしまった。このように地理的移動による環境の変化によっても就業の継続は妨げられてしまうのである。またBさんのように、今まで自分の力で努力し、キャリアを積み上げてきた期間が長ければ長いほど、それが断絶してしまったときの悔しさは大きくなり、無力感・喪失感を感じやすくなると考えることができる。

 次にDさんの事例を取り上げる。Dさんは29歳の時に結婚し、30歳の時に長男を出産した。受付事務の仕事は長男の妊娠が分かってから退職しているため就業継続することができなかった。その理由についてDさんは以下のように語っている。

 

笹川:出産を機に退職されていますが、仕事を辞めることに未練や迷いとかはありましたか。

Dさん:未練とかはすごいあった。もともと出産が分かった時点で(出産する)ぎりぎりまで働くつもりだったけど、結局私、派遣社員だったから、Dさんはもうおしまいっていう通達が来て。で、もうやめざるを得なくって。ま、やめたらやめたでね、確かにもうおなかが大きいし大変だったんだけど。

笹川:思いとしてはぎりぎりまで。

Dさん:ほんとは働きたかったし、復帰もしたかったんだけど。受付だったからそんな動き回らないし。子どもが生まれてきて、そこに復帰できたら一番よかったんだけど。結局そこには戻らずに新しいところ探してって感じかな。

 

 Dさんは出産ぎりぎりまで働きたいと考えていたが、派遣社員であり契約終了の通達が来たため辞めざるを得なかった。また第一子出産後に就いた薬剤助手の仕事についても以下のように語っている。

 

笹川:今の薬剤助手の方は、(第二子を出産するために)お休みに入るんですか。

Dさん:お休みというか、辞めます。薬剤助手は立ち仕事だったから、11月の半ばから薬剤師課じゃなくって医事課っていう事務的な仕事の方に移って。でも12月いっぱいでそれもおしまいの予定です。ほんとはね、産休とか育休とか入れたらよかったんだけど、結局パートだったのもあるし。その薬剤師課は次の人が入ってしまって。週3回になった時点で、新しい人が10月から入ってしまって。それで私の居場所もなくなってしまったっていうのもあって。結局異動になったんだけど。絶対この人がいなくちゃダメっていうのはなくて。正社員ならね、産休、育休とかあるんだろうけど、パートだったし。新しい人が代わりに入っちゃえばね、そういう話もなくなっちゃったから。結局辞めざるを得なくって。

 

笹川:(第二子を)授かったってわかった時に、今の薬剤師助手の仕事もちょっと減らさないとなっていう。

Dさん:ううん、それは全然思わなくって。そのまま普通に働く気だったんだけど。ちょっとね、1回私申し送り中に倒れたことがあって。で、意識を失ったらしくって。で、それもあって上司のほうから仕事減らせば、みたいな感じになって。減らしたら減らしたで今度は新しい人が入っちゃって。

 

Dさんに働く意思はあっても、労働形態や妊娠で労働環境を変化させられてしまったことによって、Dさんの就業継続の道は絶たれてしまった。このように働きたくても働き続けることができない雇用状態が、結婚や出産と就業の継続の間で障害となっているということができる。

 

第三項 キャリアの中断からの早期就業

第二項に記述したようにBさん、Dさんは就業継続することができなかった。しかしBさんは第一子の出産半年後に、Dさんは第一子の出産の8週間後にはハローワークに登録し、8か月後に就業しており、二人とも出産してからあまり間を空けず、すぐに就業している。本項ではこのように早期に就業した理由をBさんとDさんの語りから明らかにし、晩婚化、晩産化との関係性について調べる。

まず初めにBさんの事例を取り上げる。Bさんは結婚、出産後富山県に移住したのであるが、Bさんにとって富山は全く知らない土地であり、知り合いもいなかった。また富山の風習や考え方にも慣れない中で育児を行わなければならないという環境の大きな変化や、「東京から来た」と周りに受け入れてもらえなかったこともあり、出産後は軽いうつ病のような状態になってしまった。しかしBさんは第一子出産の半年後に派遣会社に登録したのであった。この時の状況についてBさんは以下のように語る。

 

笹川:第一子の出産のあと半年後に、派遣会社に勤めようと思ったのはどうしてですか。

Bさん:やっぱり、知らない土地に来て知らない人たちばかりで、周りも何もわからない状態だったら、働いていた方がいろんなこと、つながりもできるし知り合いもできるので、自分にとってはプラスになるかと思ったんですね。

 

 Bさんのキャリアは他県に移住することで断絶してしまったが、キャリアの形成がBさん自身にプラスに働くと思ったため、Bさんは出産の半年後という早い段階で自身のキャリアの形成を再開させたのであった。ここからBさんの働くことへの意欲を読み取ることができる。また家で育児だけをしていることに対しては以下のように語っている。

 

笹川:働きに出たかったっていうのは、どういう感情で。

Bさん:やっぱり子育てをしていると、周りと遮断されている気持ちになるんですよね。だから周りで何が起こっているのかもわからないし、気づいたら時代はどんどん進んでいるというような状況になっていくんですよね。それがどうしてもいやだし。みんな言われるのは、ずっと働いてきた人っていうのは途中でやめろって言われても、仕事ってやめられないって。働くことが癖になっているっていう。

笹川:やっぱり働いていたのに家にいるっていうことに何か

Bさん:自分は外でもう必要とされてないんじゃないかって、ネガティブにどんどん入っていくんですよね。ずっと家にこもって子供の世話や家事だけやっていると。

 

 Bさんは高校卒業後の19歳の時から34歳まで、転職はするもののずっと働き続けていた。ゆえにBさんの語りからもうかがえるように、働くことが癖になり、家にこもっていることを苦に感じていたのである。またDさんも以下のように語っている。

 

Dさん:私は結構育児よりも外に出たい派だから、(中略)早く仕事したいなって思っていて。ずっと探してたんですけど。

笹川:ずっと家ですもんね。つきっきりっていうのもなかなかですよね。

Dさん:私は早く出たくって仕方がなかったから。お金を稼がずに使う一方なのもすごくしんどかったし。

 

笹川:ずっと仕事をしていたから、(長男が)生まれてからもすぐ仕事したいなっていうふうに。

Dさん:ほんとに、ほんとに働いてきた人だから、今まで。バイトとかもすごいしてたし。

笹川:そうなるとずっと働いていたのと急に子供が生まれて二人っきりというかそういう風になると、やっぱり=

Dさん:=本当に嫌で。私はうちに閉じこもっているのが大嫌いな人だったから。

 

 Dさんも大学卒業後の22歳の時から29歳で結婚するまで、転職はするもののずっと働き続けていた。また外に出て仕事をすることもDさんの性格に合っていた。

以上の語りから、働くことがもたらすプラス面をBさんもDさんも感じていたということがわかる。そして両者とも結婚や出産によってキャリアが断絶するまでずっと働き続けていた。ここから、晩婚化、晩産化により働いていた期間が長ければ長いほど、出産し、子育てのために家に閉じこもっていることに対して、働いていた時の自分と比べてギャップを抱きやすいと言えるのではないだろうか。そしてそのことが出産後の早期に就業につながっていると考えることができる。

 


 

第三節 第一子出産後のキャリアや育児サポート

 本節では、第一子を出産して以降4人の女性がどのようにキャリアや子育てネットワークを形成し、どのような方法で仕事と子育てを両立させているのかを4人の語りから明らかにしていく。また本節では仕事と子育てを両立していくうえで親族からの育児サポートを受けられるということは大きな助けであると考えられるため、親族からの育児サポートがあるCさん、Dさんと、親族からの育児サポートがないAさん、Bさんに分類して分析を行い、そのような状況の中でどのように第一子以降の出産へとつなげていったのかについて明らかにする。

 

第一項     親族からの育児サポートがあるCさん、Dさんの場合

 Cさんは結婚後から仕事を辞めている義父と義母のいる夫の実家で同居していた。そして義父と義母は頼めば一日子供を預かってくれたため、第一子出産後は子どもを二人に預けて仕事に復帰することができていた。ゆえに保育園に預け始めたのは第一子が3歳になってからであった。

また仕事と育児の両立についても以下のように語っている。

 

笹川:育児とお仕事を両立する時に不安はありましたか。

Cさん:(中略)私は同居していたから、ほとんどお義母さんがいろいろ面倒みてくれたんですよね。帰ったらお風呂が沸いてるし、ご飯も遅いときは作ってあるし。その助けがあったから、大丈夫でした。

 

 Cさんは、仕事を辞めている夫の実家で同居しており、育児サポートを受けることができていたため、仕事と育児を両立させることに対しても不安を抱いていなかったということを語りから読み取ることができる。またCさんは第二子の出産後については30日ほどで仕事復帰を果たしている。この時はカルチャースクールの講師としての活動をしており、子供を夫の両親に預けていた。育児サポートが整っていたからこそ、第二子出産後30日ほどで仕事復帰することができたと考えることができる。

 またDさんは長男を出産後、夫と子供の3人で暮らしていたが、夫の帰りが遅く一人で子育てをしていたことや、金銭的にも苦しくなっていったことがあり、出産の3か月後から夫の両親と夫の実家で同居することになった。夫の両親との同居についてDさんは以下のように語っている。

 

Dさん:(育児に対して)心配とか不安はあって。ちゃんと育てられるのかなって。で、今、旦那さんのお義父さんとお義母さんと同居なのね。同居だからとりあえず何とかなっているところが正直なところあって。昔は同居とか絶対やだとか思っていたけど、なんだかんだですっごい頼ってるというか。同居していなかったら無理だと思う。

笹川:20代の時は同居とかしなくても自分で育てると=

Dさん:=育てられると思っていたから、うん。でも結婚したら、家建ててどうのこうのって思ってたけど、結局お金の面とか、育てるっていう面でもほんとに。旦那さんも仕事の帰りとか遅い人だから。

 

Dさん:たぶん同居している分、ほかの人よりはだいぶ恵まれとると思う。ちょっと寝たいとかいろいろあるけど、そういうときにお義父さんとお義母さんが見ててくれたりとか。

 

Dさん:核家族で、旦那さんと自分と子供と3人で暮らしていたら、旦那さんの帰りが遅かったりとかしたら全部自分でやらないといけないから。ご飯も自分、お風呂も一人で入れるっていうのはほんとに大変で。最初はそうしてたんだけど(中略)今はほんとにね、お義母さんが協力してくれるから。すいませんお願いしまーすって言って。

笹川:やっぱ核家族だとちょっと厳しい=

Dさん:=絶対厳しいと思う。みんなよくやってるなと思う。

 

 Dさんは20代のころは結婚し、子どもが生まれたら自分で育てていけると思っており、同居もしたくないと思っていた。しかし子どもを育てていく過程で夫の両親と同居することになったが、そのような状況になったことにCさんはむしろありがたさを感じているということを語りから読み取ることができる。そして3か月間ではあったが夫と長男の3人での暮らしを経験していたため、核家族世帯での生活に対する厳しさについても実感していた。

Dさんの夫の両親は現在も働いているが、語りからもうかがえるようにDさんは夫の両親からの育児サポートを得ることができていた。またDさんの実家も車で20分から30分ほどの距離にあり、母親が専業主婦でもあることから、Dさんは実母にも育児のサポートを得ていた。Dさんが第一子出産後8週間でハローワークに登録するという行動に移すことができたのも、このように育児サポートが整っていたからと考えることができる。

以上から、夫の両親や自分の両親から育児サポートを得ることができるということは、出産後から就業までの流れをスムーズに、また早い段階での就業につなげることができると考えられる。第二章第三項でも取り上げたように、晩婚化、晩産化傾向にある女性は早期での就業を望むことがある。ゆえに育児においてサポートしてくれる人との同居は有力な資源ということができ、その資源は仕事だけでなく第一子以降の出産にもつながるのではないかと考えることもできる。

しかし育児においてサポートしてくれる人と同居していない場合、または育児サポートを夫の両親や自分の両親から受けることができない女性の場合はどうであろうか。以下では親族からのサポートを受けることができない、Aさん、Bさんの事例を取り上げる。

 

第二項     親族からの育児サポートがないAさん、Bさんの場合

 Aさんは1年間の育児休暇取得後に仕事復帰を果たした。Aさんは職場において、先行研究として取り上げた藤田(2015)の調査で調査対象者が語っていた経験と同じこと経験していたのであった。以下はAさんの語りである。

 

笹川: Aさんの子育てについて職場の方々の理解は得られていると感じますか=

Aさん:=はい、感じています。

笹川:どのようなときに。

Aさん:そうですね、5時近くになったら周りの先生が5時だよって言ってくれて。帰ったほうがいいんじゃないとか、そんなふうに言ってくれたり。あと急な発熱で、ちょっと病児保育が空いていなくてどうしても自分が休まないといけなくなったときに職場に朝電話したら、わかりましたって言って、自習課題だけ言ってくれたらいいよーとか、授業の変更で、授業を来週の週に振り替えたりしてくれたりとか、そういうのを迅速に対応してくれるので、恵まれているなーと思います。

 

 Aさんは職場で、先行研究にも語られていたように、「子どものいる女性」として周囲から仕事と子育ての両立について配慮されていた。しかしこのような職場環境であってもAさんは仕事復帰後、仕事と育児の両立を考え、仕事の負担が重い担任ではなく副担任を受け持つ希望をだし、3年生の副担任を担当することとなった。しかし同時に英語科の主任の仕事を任されたのであった。この時の状況についてAさんは以下のように語っている。

 

Aさん:戻ってすぐにまた英語科の主任を任されました。主任という仕事は忙しいというか、教科の中で一番大事な仕事で。復帰してすぐにそれがあたってきたので、仕事に対するやりがいはあったので主任を任されたことは嬉しかったんですけれど、核家族なので、子供が風邪をひいたり病気になった場合はやっぱり私が仕事を休まなきゃいけないことがあるので、ほかの先生や授業がいきなりなくなって代わりの授業が入ったりすることに対して生徒への申し訳なさとかそういうことも、復帰してすぐは感じたりしました。

 

Aさん:仕事は5時に上がっています。保育園も7時まで預かってくれるんですけど、旦那さんの仕事の帰りがとっても遅いので、私がすぐ子供を保育園に迎えに行って、ご飯作ってお風呂入れて寝かしつけるのも全部しているので、やっぱり学校を6時とか6時半に出るとちょっと生活が、子供も自分もきびしいので、そこは上司に言って5時に上がらせてもらっています。仕事をしたいっていう気持ちと、子どもがずっと遅くまで保育園におるのがかわいそうだなっていう気持ちを復帰当初はもう、すごくジレンマを抱えながら、ずっと働いていました。

 

Aさんは核家族世帯であり、子育てはまず第一にAさんがし、その次に夫がするというふうにAさんは考えている。Aさんの夫は製造業に就いており、時期にもよるが遅い時には12時ごろに帰宅することや、月に二回ほど土曜日に出勤することがある。そのため保育園の迎えや食事の用意入浴、寝かしつけなどはほとんどAさんが行っているが、夫は保育園の送りなどできる範囲で育児に参加していると、Aさんは夫の育児に対して肯定的にとらえている。また、Aさんの実家は石川県にあり車で1時間半、夫の実家は富山県内にあるが車で1時間程の距離にあるため、Aさんは子育てにおいてお互いの両親に協力を得ることが難しかった。

ある程度キャリアを形成してから出産を経験し、再びキャリアを開始しようとすると子どもを産む以前に積み上げてきたキャリアからの継続で、責任の重い仕事を任されることがある。またAさんのように核家族世帯でなおかつ夫の仕事の帰りが遅い場合、母親が育児のほとんどを負担することになる。キャリアを追求し自分の仕事に対して誇りを持っているため、責任の重い仕事を任されたことに対しては喜びを感じ、仕事を頑張りたいという思いが生まれるが、その一方で遅くまで子どもを保育園に預けておくのはかわいそうという思いもあり、思うように仕事ができなかった。このように夫の両親や自分の両親、また夫からの充分な育児サポートを得ることができないとき、仕事と育児の間で板挟みになってしまうことがあるのである。晩婚化、晩産化が進み、自分のキャリアに対して誇りを持てば持つほどこのジレンマをより強く感じてしまうだろう。

このような状況の中であったため、Aさんは第一子以降の出産については以下のように考えていた。

 

Aさん:やっぱり核家族っていうのもあって、一人っ子の方が早く仕事に戻れてキャリアを積めるかなーって、その時は思っていました。

 

 Aさんの場合、核家族世帯であることが第一子以降の出産における障害になっているということが語りから読み取ることができる。またAさん自身も仕事に対してやりがいや誇りを持っていたため、早く仕事に復帰してさらにキャリアを追求したいとも考えていた。このように女性が仕事と育児を両立していくときに、核家族世帯であり親族などに育児の協力を頼むことができない場合では、第一子以降の出産は厳しいと考えることがあるということが分かった。

 しかし第一子の出産後、子どもに兄弟を作ってあげたい、女の子がほしいと強く思うようになり、Aさんは第二子を出産することを考え始めた。以下はその時の考えについてのAさんの語りである。

 

笹川:前回のインタヴューで第一子出産後仕事復帰した時は、仕事と育児に板挟みになりながら働いていたっていうことをうかがったんですが、その後はその状況にどう折り合いをつけて第二子の出産を考えるようになったんですか。

Aさん:もう、なんだろう、誰もが働く母として、さっき言ったと思うけど子供が熱とか病気になったら休まなくちゃいけないっていうのは誰しも通る道だーと思って。そういう風にまず気持ちを切り替えること。休むことに対して申し訳ないなーって考える時間がもったいないなーって、そういう考えを捨てること。その代りに子供が大きくなった時に職場で私がいろんな人にサポートしてもらった分、自分ができることを還元できていけたらいいなーって。そうしようって思うようにして、なんとか、なんとかやっていこうという気持ちになりました。

 

笹川:教師としての仕事としては、また、123123(というように学年持ち上がりで担当して)いきたい=

Aさん:=ううん、もう33とか2とかなんでもいい。とりあえず自分が働かせてもらっている以上、与えられた仕事をちゃんとやっていくのみだと思うので。さっきも言いましたけど、やっぱり今、上の子が風邪で休んでいる時とか、下の子が入院したときはいろんな人に迷惑かけてるから、その分子供が成長して手がかからなくなってきたら言われたことはきちんとやって、逆に若い人たちが入ってきたら、女の先生の赤ちゃんが風邪をひいて休んでいるときに、自分が授業の補充で出たりとか。何かわかりませんけど自分がしてきたように、後輩のママさんの先生にも、頑張ってもらいたいから。皆さんに助けられているように助けてあげたいなーと思っている部分が多いので、もう学年はもう関係ないです。いつかね、また3年持ち上がりで123って持てたらいいけど、与えられたことをやるのみです。

笹川:やっぱり産む前に、経験できたっていうのが大きいですか。

Aさん:そうですね。(中略)一応自分の中で、3年生を出したことがあるぞっていうのがあるから。今はどの学年にあたっても大丈夫かなーと。

 

 第一子を出産した当初は子どもが風邪をひいて仕事を休まなければいけなくなってしまった時に職場の人に対して申し訳ないと罪悪感を抱いていたが、「働く母親なら誰しも通る道である」と、育児に対する思いと仕事に対する思いを切り替えることができるようになったことで、Aさんはジレンマの状態から抜け出すことができた。そして、今は職場の人に助けてもらっているが、子どもに手がかからなくなったら今度はAさんが、Aさんのように仕事と育児を両立させようと頑張る人の助けになろうという思いも抱くようになった。またキャリアについても、Aさんは第一子出産前に教師として経験することをすべて経験し、また教師としての自分に自信を持つことができたからこそ、助けてあげられる側に自分が回ることを考えることができたと推測することができる。

 このように育児の助けを仕事場に求めることに対して割り切って考えることでAさんはジレンマの状態から抜け出し、第二子の出産についても考えることができるようになった。しかしこのように考えることができたのは、Aさんが第一子出産までに、教師として「一人前」という自信をつけていたことが大きくかかわっているのではないだろうか。

次にBさんの事例を取り上げる。Bさんは夫の実家で夫と義父と一緒に生活していたが、夫や義父の育児サポートは全くなかった。Bさんの両親も東京に住んでいたため育児サポートを受けることができなかった。またBさんは東京から見知らぬ土地である富山に引っ越してきており、周りに頼れる人もいないような状況であった。このように家族や知り合いからの育児サポートを得ることができなかったため、Bさんは第一子以降の出産については無理だと考えていたが、Bさんの考えに変化が生まれた。以下はその変化についてのBさんの語りである。

 

笹川:第二子を出産しようと思ったのはどういう変化があったんですか。

Bさん:ファミリー・サポートとの出会いですよね。

笹川:なるほど。これを利用していけば今後=

Bさん:=そうですよね、ファミリー・サポートでも預け先によってやっぱり違うんですよね。ほんとに親身になってくれる人もいれば、機械的な人もいるので。たまたますごく親身で、その方も県外からいらした方だったので、共感できるところがあって。で、よくしてくれたんですよね。預けない時も連絡をくれたりとかして。大丈夫っていう声掛けがあったからこそできたことで。

笹川:なるほど、その人との出会いっていうのが大きい=

Bさん:=信頼関係とかも築けたので、今だに子供が大きくなっても第二のおばあちゃんじゃないけど、そういうところとして考えています。

 

Bさん:(夫は洗濯物を干す以外の家事は)全く、ほんとに何もしない。テレビの前に座ったまんま。目の前にあるゴミも拾わないから。

笹川:そのような状態ですとやっぱり子供を産むのも不安になってきますよね=

Bさん:=無理でしょ。

笹川:育てられるかなーっていう。

Bさん:どう考えても。だからふんだんに、ファミリー・サポートですよね、私の場合は。もう、そっちのほうが家族としての重みは大きいかもしれない。

 

 Bさんは家族から育児サポートを得ることができなかったため、ファミリー・サポート制度(3)を調べ、利用することで育児面でのサポートを得ていた。そして最初に利用したファミリー・サポートの協力会員が自分と同じような境遇にあったこと、相性が良かったこともあり、今ではBさんが「第二のおばあちゃん」と考えるほどの信頼関係ができているということを語りから読み取ることができている。

 またBさんはファミリー・サポートの依頼先も複数利用していた。以下はBさんの語りである。

 

笹川:前回のインタヴューの時に、ファミリー・サポートを場所によって3件利用するようになったということをうかがったんですけど、その3件は固定している3件なんですか。

Bさん:最初は3件やってたんですけど、その中の1件はあんまり預けやすくなかったっていうのかな。なので2件だけですね、今も預けやすいのは。で、その2件がダメだったときに、他に1件紹介してもらったんですけど、そこもなんとなくこう、ちょっと違うんですよね、この2件とは。私が求めているような方ではなくって。

 

笹川:ファミリー・サポート先と良好な関係を築くにあたって何か意識していることはありますか。やっぱり相性ですか=

Bさん:=相性ですよね、ほんとに。お互いに安心して、子供目線でちゃんと見てくれるかどうかっていうのも見るし。あとはその日の様子を聞かせてくれるか。どういう形で聞かせてくれるかにもよってくる。

笹川:それはやっぱり相性が合わないなーと思ったら別のところを探すみたいな。

Bさん:そうですね。

 

 ファミリー・サポートの協力会員で相性の良いところを探したり、紹介してもらったりするなど、育児サポートを得るためにBさんが積極的に行動していることがBさんの語りから読み取ることができる。このようにBさんは慣れない土地という状況の中でも自分自身の力で育児ネットワークを形成していったため、長男が2歳になってからカルチャースクールの講師として働くための勉強を始め、講師として働くことができたのではないだろうか。また自分自身の力で形成した育児ネットワークが、子どもを産み、育てることへの不安を軽減させ、第一子以降の出産へとつなげたと考えることができる。

 以上から、AさんもBさんも親族からの育児サポートを得ることができなかったが、自分自身の力でそのような状況を打破し、仕事と家庭を両立させ、キャリアを形成していったのである。