第五章 考察 

 

 この章では前章でおこなった分析を踏まえ、主張的自己呈示の分類(ジョーンズとピットマン 1982)を用いて、プロフィールの傾向から読み取ったデジタルセルフを検証していく。

 

 

第一節 インタレストフィルター

 

 まず、「すきなもの」について考えていく。これは、インターネットのコミュニケーションの基礎である共通の話題を表明しているものである。一見するとただの興味関心の羅列である「すきなもの」は、細かなパーソナリティよりも話せる話題が重要になるインターネットのコミュニケーションにおいて、デジタルセルフを構成する重要な要素となる。顔の見えないインターネットでは、リアルでのコミュニケーションで真っ先に見えてくる容姿や、立ち振る舞いから見えてくる人柄のようなものよりも先に、どういった話題でコミュニケーションしている人なのかがまず明らかになる。その話題に自分が関心を持てばコミュニケーションに繋がり、関心がなければ繋がることはない。リアルとインターネットは人と繋がる際に真っ先に知ることのできる情報が異なり、「すきなもの」は、とくに初対面の人とのコミュニケーションにおいて、十分にセルフといえるほどにその人自身を構成するパーツとなっている。

 「やっていること」についても、共通の話題となる点では同様の働きをしているといえる。内容としてはアクティビティ、所属等の表明であるが、これらも「すきなもの」と同じく趣味の範疇であり、イラストを描いている人同士、あるいはとあるアイドルのファンクラブに入っている者同士といったようなかたちで同じ話題を共有することができる。

 ジョーンズとピットマンの主張的自己呈示の分類を用いると「自己宣伝」が対応するように思えるが、いくつか噛み合わない箇所がある。まず、関心のある話題を表明することは自己宣伝といえるのかという点である。本来の自己宣伝の意味するところは、自分自身の能力や才能をアピールすることであり、関心事とはいえあくまで外的な要素であるものを自己としてもよいのかという点は議論の余地のあるポイントである。もう一つは、宣伝といえるほど主張が強くない点である。積極的に相手に語り掛けるような内容はほとんど見られず、表記法は一般的に箇条書きであっさりとしている。表記などで多少の演出は入れど、それをもって自分のアピールになるかというと難しいように思う。

 

 こうしたインターネット上でのプロフィールに現れる興味関心のある話題の表明と、ここで呈示される自己像について、「インタレストフィルター」という言葉を用いて論じていきたい。これは筆者の造語で、ウェブマーケティングの用語である「インタレストグラフ」をもじって作ったものだ。インタレストグラフとは、ある個人の趣味、嗜好、興味、関心のある事柄を関係図で表したものである。インタレストグラフが活用されているもっとも身近でわかりやすい例のひとつが動画共有サイト「Youtube」であろう。YoutubeのユーザーはGoogleと連携したアカウントでログインし、動画を閲覧することになるが、この再生履歴やマイリスト等に関する情報はすべて記録され、インタレストグラフとしてマッピングされていく。こうして作られたインタレストグラフを参照し、各々のユーザーの興味関心に沿った動画を、サジェスト(提案)してくれる仕組みになっている。

 インタレストフィルターは、ある個人のインタレストグラフがフィルターのように機能して、インターネット上の対人コミュニケーションを選択するというものである。今回の分析対象としたプロフィールに散見された興味関心のある話題の表明は、そのユーザーが自らのインタレストグラフをプロフィール情報として可視化しているものである。

 また、「けん制」にて語られた地雷についても、興味関心の無い話題、苦手な話題として、「すきなもの」の反対の役割を持ってインタレストフィルターを構成する要素となる。「すきなもの」がフィルターの透き間の部分、地雷が糸が通っていて通過できない部分であるといった具合だ。


 

第二節 つながりを内包するデジタルセルフ

 

 「つながりの可視化」も重要なデジタルセルフを構成する要素である。自分と他のユーザーとのなんらかの関係性をプロフィール情報として可視化することでデジタルセルフに内包している。ジョーンズとピットマンの分類に当てはめるなら『自己宣伝』が適当であろう。他人とのつながりは自己の価値なのかといった点については、前節で述べた「興味関心のある話題はインタレストグラフとしてデジタルセルフの一部となる」という理論をもとに説明できる。

 そのために、「ソーシャルグラフ」という概念について触れておきたい。春木(2013)によると、ソーシャルグラフとは、ソーシャルメディア上での人々のつながりの情報を図式化したものである。さらに、こうしたソーシャルグラフをユーザープロフィールに内包したものを「ソーシャルプロフィール」とよぶ。デジタルセルフはこのソーシャルプロフィールと、ソーシャルグラフに基づいた実際のコミュニケーションの蓄積の2つの要素によって構築されているという。今回の調査で確認された「つながりの可視化」も、ソーシャルプロフィールの一種であるといえるが、ひとつ特殊な点がある。それは内包するソーシャルグラフがそのユーザーによって編集された非常に限定的かつ意図的なものである点である。本来のソーシャルグラフは、その人のソーシャルメディア上のつながりすべてを可視化するものである。例えばツイフィールではなく、twitter自体のプロフィールについて考えてみよう。そのユーザーのホーム画面には、フォロー数、フォロワー数が並べて可視化されている。それぞれの数字をクリックすることでフォローしている人、フォローしてくれている人すべてのアカウントを一覧可能だ。一方でツイフィールに見られた「つながりの可視化」はアイドルグループのファンが集まり、各々の好きなメンバーを担当するかたちで擬似的にそのグループを再現するものなどは、可視化される関係性はそのユーザーの特定のアクティビティのつながりのみに限定されている。

 このように、インタレストグラフと同様にソーシャルグラフもデジタルセルフの一部となって呈示される。特筆すべき点としてはやはりそのソーシャルグラフの持つ性質であろう。twitterでのフォロー・フォロワーのつながりによるソーシャルグラフにしても、実際のところはフォローする基準はインタレストフィルターに委ねられるためある程度は趣味を反映させたものになるであろう。しかし、ツイフィールに自らプロフィール情報として書くことになるつながりは、何らかの特別な意味を持っている。先述したアイドルファンたちによる擬似的なグループの再現は、ファンコミュニティのなかで自分に推しメンの属性を付加することで、ロールプレイを可能にしている。自分を含めたそのグループのメンバーそれぞれを担当するユーザー同士のつながりは、憧れの存在への同一化や所属などといった精神的充足が得られるであろう。ロールプレイといえば、「つながりの可視化」には家族的な役割を再現するようなものがあったが、これに関しては自己呈示的な

印象はさらに薄れ、本当に仲の良いもの同士が擬似的に家族のような役割を共有することでその仲を確かめているように感じられた。

 


 

第三節 自己呈示の比較 マンツーマン型・ネットワーク型


 第一節、第二節を論じてきたなかで、ジョーンズとピットマンの主張的自己呈示の分類が、実際にプロフィールに現れているデジタルセルフとうまく対応しないことがわかる。この節では、ジョーンズとピットマンの主張的自己呈示の分類が前提としている対人コミュニケーションにおけるセルフと、ソーシャルメディア上でのコミュニケーションを前提としたデジタルセルフのそれぞれの性質に着目しつつその相違点を明らかにしていく。

 まず、ジョーンズとピットマンの主張的自己呈示の分類が前提としている、実際に面と向かってやり取りすることになるコミュニケーションでは、自己呈示の相手が明確に決まっている一方、ソーシャルメディアにおける自己呈示は、場所がインターネットであるだけに相手が無数に想定される。さらに、ソーシャルデジタルセルフは、インタレストグラフやソーシャルグラフなど、自分以外の要素を関連付けてセルフに内包する。これらの構造的な性質をもとに「マンツーマン型」と「ネットワーク型」という2種類の自己呈示のありかたを示すモデルを考案した。(図5-1

 

 

5-1 2種類の自己呈示

 

 

 ジョーンズとピットマンの主張的自己呈示の分類は、「マンツーマン型」である。この特徴は、セルフが基本的に自分自身のみによって構築される点と、呈示する相手の顔が見える点である。呈示する相手を認識できることで、「取り入り」のような方法をとることができる。一方、ソーシャルメディアでのデジタルセルフは「ネットワーク型」の自己呈示のかたちをとる。セルフには自分自身のほかに、その人の興味関心のある話題の集合であるインタレストグラフや、つながり情報の可視化であるソーシャルグラフを内包する。そして呈示の相手が無数に想定されることから、「取り入り」は難しい。

 前節で取り扱った「共通の話題の表明」、「つながりの可視化」は、ネットワーク型の自己呈示の典型例である。ネットワーク型の最大の特徴は、外的な要素、つまりその人の趣味や関心、つながりのある人などをセルフを構成するパーツとして取り込むことにある。裏を返すと、自分の趣味関心やつながりをプロフィールに列挙することでセルフの輪郭を浮かび上がらせているともいえる。セルフの一部となった外的要素は、付加価値として呈示される。とはいえ、やはりプロフィールはフィルター的なものであり、インターネット上で目に付いた誰かに直接アピールしていくものにはならない。ひたすらにフィルターを通過する同好の士を待つのみである。図5-1では、わたしを中心に放射状にノードが広がる様子を図示しているが、周囲のあなたも、わたしと同様に、インタレストグラフ、ソーシャルグラフを内包するセルフを持っている。その重なり合う部分をいかにアピールできるかという点が、ネットワーク型の自己呈示の目指すところである。

 

 ここからは、「マンツーマン型」、「ネットワーク型」という二種類の自己呈示のありかたを枠組みとして用い、「けん制」「つかいかた」「リアル」ついても検証していく。

 まず、「けん制」である。この要素は、地雷、つまり苦手な話題についてプロフィール上であらかじめ表明しておくことで、いざ繋がって不快な思いをすることのないよう予防するものである。これらの要素は「すきなもの」の真逆の要素であるということは既に述べたとおりだ。インタレストフィルターは関心のある話題を通過させると同時に、避けたい話題をシャットアウトする働きも持つ。プロフィールを見て、地雷として列挙されている内容に思い当たる節のある人とは私は付き合えないということを明示しておくことで、つながりを選択しているのである。もちろんtwitterというサービスの構造上、タイムラインに流れるツイートはフォロイーに依存するし、アカウントを非公開にしない限り、誰からでもリプライが送られてくる可能性はある。そこで登場する機能がブロックである。今回収集したデータのなかにも、苦手な話題やマナーの悪いユーザーについて「ブロックします」という宣言をプロフィール情報として記載する例はよく見られた。

 第四章の分析でも述べたが、地雷表示やブロック宣言はかなり一般的なプロフィールの書式として普及しており、ジョーンズとピットマンの分類における「威嚇」のニュアンスはあまりない。しかし、ブロックという機能そのものは拒絶の行為であるため、されて気分の良いものではないだろう。地雷表示とブロック宣言は、この拒絶に理屈付けをするものではないだろうかと考えた。ブロックされた人が「なんでだろう?」とプロフィールを確認すると、

地雷としてあらかじめ表明されているという状況、いわば理論武装が当たり前に求められる風潮になっているのではないだろうか。

 「けん制」は、インタレストフィルターの高度な部分を構成する要素であり、ネットワーク型の自己呈示に分類されるものである。今回見られたデータからは、インタレストフィルターを高い精度で構築し、プロフィールとして公開していることこそが、ソーシャルメディア上でのコミュニケーションにおけるある種の誠実さであるといった雰囲気を感じた。

逆にそこでいいかげんなユーザーがどうなろうと自己責任であるという、昔ながらのインターネットの常識に通じる部分も裏に垣間見れる。ただ、ツイフィールユーザーにはかなり一般的な感覚として、あらかじめ丁寧にフィルターを記述しておくことがマナーのような形で共有されているようだ。

 

 次に「つかいかた」である。これはフォローやフォローバックの基準など、システム的な要素が多い。このような、共通の話題になるわけでもなく、グラフやフィルターを構築するでもない要素がなぜ記載されるのだろうか。それは前述の、理論武装を求められる風潮で説明できる。たとえば、以下の例は非常に興味深い。

 

@ato7****

 

フォロバは気まぐれなので無言フォローで大丈夫です。

また、無言フォローすみません。フォロバの催促と思われてしまわぬようにご挨拶は控えさせていただいております。フォロバのお気遣いは不要です。

 


 twitterは多くのSNSと異なり、一方通行のフォローが可能なサービスである。そのため、本来はフォローしたからといって挨拶は不要であるし、フォローバックの必要もない。にもかかわらず、想定される様々なケースを先読みし、それに対しての自分の姿勢をあらわす「つかいかた」を述べている。これもネットワーク型の自己呈示の高度な例であるといえよう。ただし、この例では相手を明確に想定できているうえに、これに対応しているセルフに関しては自分自身で完結している。そのため判断に迷うところではあるが、フィルターを丁寧に記述し、その精度を上げている点でネットワーク型に分類することにした。

 

 最後に「リアル」である。これは相手こそ想定できていないものの、呈示される内容は完全にわたしそのものであるため、マンツーマン型に分類する。今回収集したデータを見ても、実際に対面してのコミュニケーションのなかでも十分に可能な自己呈示である。ものによっては、「すきなもの」と関連させてリアルを語るケースもあり、その場合は趣味をセルフに内包しているといえなくも無いが、あくまでリアルに重きが置かれるためネットワーク的な広がりは持ちにくい。リアルを語る行為は、ソーシャルメディアにおける自己呈示としてめずらしく、ジョーンズとピットマンの分類に基づいた対人コミュニケーションに近いものであるといえる。そのため、規格化、お作法化の著しいツイフィールにおいて、ひときわ個性を放つ要素となっている。ただし、自分語りは基本的に共通の話題にはなりえないので、コミュニケーションのハブとしては機能しないであろう。

 

 


 

第五節 まとめと展望

 

 この章では、今までの論じてきたことを整理しつつ、テーマ全体の展望とともにまとめていきたい。

 本研究の主題はソーシャルメディアにおけるデジタルセルフと、そこ現れる自己呈示の特性を明らかにするというものである。大きな論点は2つあり、ひとつはデジタルセルフはインタレストフィルターを内包するということについて。もうひとつは、従来の実際に対面しての自己呈示とは異なったしくみのネットワーク型自己呈示についてである。

 インターネットでのコミュニケーションは、共通の話題を持つもの同士の選択可能なつながりである。インタレストフィルターは、ユーザーの趣味関心に応じてコミュニケーションを選択する機能をもつ。このフィルターを構成する要素は、今回は「すきなもの」

をはじめとしたまさにインタレストグラフを基盤にするものであったが、実際のデータを読んでいくと、もっと複雑で高度なフィルターが確認できる。たとえば、好きなアイドルグループについて、あえてファンでないと知らないような陰語を用いてインタレストフィルターを記述するケースなどはとてもわかりやすい例だ。これは、「わかるひとだけがわかりやすい書きかた」というフィルターを重ねているものである。フィルターの精度をより高くすることができると同時に、「私たちだけがわかっている」という特別感が精神的充足につながるのであろう。ツイフィールは自由記述形式であるため、表記の仕方にあらわれる細やかなニュアンスや、アイコンなどの画像データも分析対象にできれば、さらに高度なデジタルセルフ、自己呈示の特性を明らかに出来るはずだ。とくにアイコン画像はまさにその人のインターネット上でのになるわけで、実際に対面して顔を合わせてのコミュニケーションとの比較はとても意義があると思う。

 考察では、インタレストフィルターの、とくに地雷等の不安材料についてあらかじめ丁寧に記述しておくことがマナーであるかのように普及しているということを述べた。これはtwitter自体のbiographyの欄では生まれなかった現象であろう。一万字もの自由記述が可能なツイフィールだからこそ、インタレストグラフを膨大にふくらませることができたのである。biographyのみではプロフィールとしては情報量が少なく、それ以上の共通の話題はツイートを読むことで発見するしかないだろう。膨大なプロフィール情報を書くことのできる環境が、インタレストフィルター、ソーシャルグラフ、ひいてはネットワーク型の自己呈示を発展させたといえよう。

 このように膨大な情報量のプロフィールを書くことが当たり前なりつつあるツイフィールであるが、ではそこまで語れるだけの話題を持たない人はどうなるのだろうか。インターネットでコミュニケーションしたいが、なにかクリエイティブなことができるわけではないし、誰よりも詳しく話せるような話題も特にない、こういった人がいてもおかしくはないのではないか。例えば、もともとイラストを趣味で描いていた人がSNSで同じ趣味の人を見つけ、交流するというのが本来の順番であるが、友達を作りたくてイラストを描き始めたという人もいることだろう。共通の話題がコミュニケーションのハブになる世界では、逆にコミュニケーションを求めて共通の話題を得ようとする動きもあるはずだ。ソーシャル元年といわれた2010年からもう5年が経ち、はじめてインターネットに触れたときには既にソーシャルメディアが存在した世代も出てくるころだ。彼らのようなデジタルネイティブは、どのようにしてインタレストグラフを構築していくのだろうか。

 本研究では、2015年現在のソーシャルメディアにおけるデジタルセルフの特性を明らかにした。これはかつてジョーンズとピットマンがカテゴライズした主張的自己呈示の分類を、一部を除いてほとんどの部分で適用できないものであった。これは時代が下ってデジタルセルフという概念が登場し、顔を合わせてのコミュニケーションとは別のしくみの自己呈示が生まれたからである。そしてこれからデジタルセルフはさらに変化を重ねていくにつれ、今回の考案したいくつかの概念は時代遅れになるであろう。その時には、本研究を参照して次の世代につなげてもらえたら嬉しい。